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ザ・ムーディー・ブルース / THE MOODY BLUES 
 
   ディスコグラフィー
 
 メンバー   
 デニー・レイン DENNY LAINE (vo,g)     グレーム・エッジ GRAEME EDGE (dr)
1944年10月29日、バーミンガム・ティーズリー生まれ。本名はブライアン・フレデリック・アーサー・ハインズ。
Denny&the Diplomats
なるグループで活躍していたが、解散後ムーディーブルースの結成に参加。枯れた深い味わいのあるヴォーカルで人気を集める。しかし1966年に脱退。その後はいくつかのバンドを経てポール・マッカートニーとウイングスの結成に参加。ウイングス解散後はソロとして活躍した。
  1941年3月30日、ロチェスター、スタフォードシャー生まれ。The Rhythm Blue Bandなるグループのマネージャーとして業界入りするが、自らもドラマーとして活躍するようになる。1964年にThe R & B Preachers を結成。このバンドにはレイン、ワーウィックが参加しており、さらにピンダーとトーマスを加えてザ・ムーディー・ブルースが誕生した。
 マイク・ピンダー MIKE PINDER (key)    レイ・トーマス RAY THOMAS (vo,flute,perc.) 
1941年12月27日、バーミンガム生まれ。本名はマイケル・トーマス・ピンダー。
グループ参加前はメロトロン(キーボードの一種)の生産工場で品質管理をしていたという。音楽活動とともにメロトロンの改良にも貢献。ピンダートロンという商品も開発している。
 

1941年12月29日、ストゥアポート・オン・セヴァーン生まれ。
1950年代半ばエル・ライオット&ザ・レベルズ (El Riot and the Rebels) に参加、1962年頃、マイク・ピンダーと The Krew Cats を結成.
1964年にザ・ムーディー・ブルースの結成に参加する。

 クリント・ワーウィック CLINT WARWICK (b)    ロドニー・クラーク RODNEY CLARK(b)
 1940年6月25日、バームンガム・アストン出身。本名はアシュットン・エクルス。
 いくつかのバンドを経てザ・ムーディー・ブルースの結成に参加したが、1966年に脱退。脱退後は音楽業界から離れ大工になったそうである。
2004年5月15日に肝臓疾患で死亡。
   プロフィールなど詳細は不明。クリント・ワーウィック脱退後に短期間加入した。

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 珍しくマイク・ピンダーがリードヴォーカルをとっているライブ映像。おそらくドイツの「BEAT! BEAT! BEAT!」か「BEATCLUB」あたりの映像だろう。 ロドニー・クラークの姿が確認できる貴重な映像。「Really Haven't Got the Time」は新メンバー初のシングルのB面に収録されている。その点でも貴重。
 
 ザ・ムーディー・ブルース・ストーリー

 1964〜1965年にかけて何10、何100と言うグループがイギリスで出現したが、その中でももっとも男臭いビートをきかせたのがデニー・レイン在籍時のムーディー・ブルースであろう。「糞真面目」「職人気質」と言う言葉が彼らにはぴったりくると思う。デニー・レイン在籍はまる3年ほどで、はっきり言って「ゴー・ナウ」だけの一発屋であり、レイン脱退後の「サテンの夜」に始まる一連の活動の方が認知されているが、ビート・グループ時代のレインが引っ張っていた頃のムーディーズこそが語り継がれるべきであると私は信じている。

 イギリスでビートルズと筆頭にビート・グループが数多く登場したのが1963年。1964年にはアメリカ進出の第一陣が大西洋を渡りいわゆるブリティッシュ・インベイジョンの魁となるが、この第一陣に名を連ねたのは、リヴァプールと始めとする北部のグループであった。1965年には第2陣がアメリカを襲うが、この中心はマンチェスターのポップグループとロンドンのR&B系バンドであった。その中でも燻し銀の輝きを見せたのが、ザ・ムーディー・ブルースであった。はっきり言ってしまえば「ゴー・ナウ!」だけの一発屋だが、彼らのもつ男臭いR&Bフレイバーには見逃せないものがある。

 このグループが結成されたのは意外と遅く1964年の5月。すでにブリティッシュ・インベイジョンの第一波が大西洋を超えた時期であった。メンバーはすべてバーミンガム出身で、リード・ボーカルは後にポールマッカートニーのウィングスに参加するデニー・レイン、キーボード・ピアノのマイク・ピンダー、ハープ、ボーカル、フルートのレイ・トーマス、ベースのクリント・ワーウィック、ドラムのグレーム・エッジの5人。このグループは地元の2大ブループであったエル・ライオット&レベルズ(レイとマイクが在籍)とデニー・レインとディプロマッツ(デニー、グレーム、クリントが在籍、他にロイ・ウッドも在籍)が合体して出来上がったスーパー・グループであった。彼らがチャンスをつかんだのはグループ結成間もない1964年の夏、ロンドンに進出した彼らはマーキー・クラブで月曜日のレギュラー・バンドであったマンフレッド・マンの後釜として迎えられた。それとほぼ同時にデッカと契約を結び、早くも9月には「ルーズユア・マネー / スティール・ユア・ハート・アウェイ(F11971)」でデビューを飾っている。このシングルはまったくヒットしなかったが、セカンド・シングル「ゴー・ナウ!/ イッツ・イージー・チャイルド(F12022)」が全英No1の大ヒットを記録。アメリカでも10位まで上昇するヒットを記録し、一躍トップ・グループに名を連ねる事となった。

 1965年にはビートルズのアメリカ・ツアーに参加、ここでブライアン・エプスタインと知り合いマネージメント契約を結ぶが。レコードの方も「君さえいれば〜I don't want to go on / タイム・イズ・オン・マイサイド(F12095)」(33位)、「心の底から〜From the bottom of my heart / マイ・ベイビーズ・ゴーン(F12166)」(22位)、「エブリディ / ユー・ドント(F12266)」(44位)とスマッシュヒットを連発し活動は軌道に乗ったかに見えたが、1966年にはいると活動が鈍くなった。この時期エプスタインはマネージメントをビートルズとシラ・ブラックに集中したため彼の傘下にあったジェリーとペイスメーカーズ、ビリー・J・クレイマーといった連中は急激に人気を失うが、ムーディー・ブルースもその被害を受けたとおもって良いだろう。「マドレーヌの並木道〜Bouievard de la Madelaine / ディス・イス・マイ・ハウス(F12498)」を一枚リリースしたのみに終わる。夏にはクリント・ワーウィックが脱退。1967年には「ライフズ・ノット・ライフ / ヒー・キャン・ウィン(F12543)」をリリースするが、これもヒットには結びつかず、クリント・ワーウィックに続き、中心メンバーのデニー・レインとが脱退。第一期=R&Bグループとしてのムーディー・ブルースは崩壊するのである。残されたメンバーはジャスティン・ヘイワード(g,vo)とジョン・ロッジ(b)と加え活動を続けるが、サウンドは大きな変化を遂げており、まったく別のグループと考えた方が良いだろう。

 「ゴー・ナウ!」で獲得した人気をなぜ彼らは維持できなかったか? それはずばり彼らがあまりにも硬派過ぎた事にあるだろう。アルバムを聞いて頂ければお分かりになると思うが、全体的に雰囲気が重苦しい。爽快感がある曲が非常に少ないのである。一番ポップ感のあるのはファースト・シングルの2曲であるが、これが失敗した事により彼らはシリアスなR&Bサウンドを追求したのであろう。しかしそれはあまりにもコマーシャル性からかけ離れた選択であったと言えよう。しかし彼らが残した唯一の大ヒット「ゴー・ナウ!」はブリティッシュ・ビート史上に残る傑作と言えるであろう。


 
 
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