ビリー・J・クレイマー(ジョン・レノンが命名)ことウィリアム・アシュトンはコースターズというバンドのギタリストとしてリヴァプールで活躍していたが、ヴォーカリストの脱退に伴い、ギターのうでまいが今ひとつだったビリーはヴォーカリストに転向した。1962年のマージービート誌が行った人気投票のアマチュアグループ部門で3位に選ばれたのを目にしたブライアン・エプスタインにスカウトされプロに転向した。エプスタインはビリーとソロ契約を交わし、ばっくバンドとしてマンチェスターで活躍していたダコタス(マイク・マックスフィールド=ギター、ロビン・マクドナルド=ギター、レイ・ジョーンズ=ベース、トニー・マンスフィールド=ドラム)を呼び寄せた。エプスタインは出デビュー曲としてレノン&マッカートニー作の「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」を用意し、これがイギリスで2位まであがるヒットとなる。セカンドシングルの「バッド・トゥ・ミー」はジョン・レノンによる書き下ろしで、これは全英チャートの1位を獲得。続くシングルもレノン&マッカートニー作の「アいる・キープ・ユー・サティスファイド」をリリース。これも4位まで上昇するヒットとなった。
1964年に入って最初のシングルには、これまたレノン&マッカートニー作の「アイム・イン・ラヴ」が用意されレコーディングも行われたが、ビリー・Jの人気はレノン&マッカートニーのおかげという声が大きくなっていたこともあり、「リトル・チルドレン」が採用された。この曲はイギリスで1位の大ヒット、アメリカでも7位にランクされるヒットとなった。プロモートの為に渡米したビリーJは「エド・サリヴァン・ショー」や「シンディッグ」などの番組に出演しアメリカでの人気を決定的なもにした。このヒットに注目したインペリアル・レコードは1963年にアメリカでリリースされ不発に終わっていた彼らのシングルを再リリースし「バッド・トゥ・ミー」が9位、「アイル・キープ・ユー・サティスファイド」が30位にランクされ、新曲の「フロム・ア・ウィンドウ」も23位にランクされるスマッシュヒットを記録。イギリスでは10位の大ヒットとなる。この曲はポール・マッカートニーがピーター&ゴードンのために書き下ろした曲だったが、ビリーがどうしてもねだって自分たちのシングルにしたという。この曲がビリーにとって最後のレノン&マッカートニー作品となる。
1964年の末にはレイ・ジョーンズが脱退し、あのミック・グリーンがギタリストとして参加している。1965年の第1弾シングルはケニー・リンチの「イッツ・ゴッタ・ラスト・フォーエヴァー」で、アメリカでは67位にランクされる小ヒットとなったが、イギリスでは初めてチャート入りを逃してしまう。ヒットチャートに返り咲くべく、ビリーは魅力的なひょ句を探していたが、ミック・グリーンがべリルビルディングで探し出してきたのがバート・バカラック&ハル・デイヴィッドの「汽車と船と飛行機」であった。この曲は作者のバカラック盤と競作になり、ビリーのレコードはイギリスで12位のヒット。アメリカでも47位のヒットとなり、インペリアル・レコードはこの曲をタイトルにしたアルバムをリリース。このアルバムから「トワイライト・タイム」をシングルカットしたが、これはヒットにはいたらず。以後「ネオン・シティ」「ユアー・ドゥイン・ファイン」「ユー・メイク・フィール・ライク・サムワン」をリリースするがどれもヒットには繋がらなかった。
彼らの経歴を振り返ると、レノン&マッカートニー作品の恩恵を多大に受けていたことがわかる。そもそもビリーの歌唱力には疑問の声があり、1965年を境に急激に人気が衰えた原因もこの辺が答えとなっているのではないだろうか?メンバーのルックスだけで人気を獲得できる時代は終わりつつあったのだ。特にビリー・Jクレイマーとダコタスはビートグループというより、1950年代のクリフ・リチャード&シャドウズやビリー・ヒューリーのようなアイドル的要素を前面に押し出していた為、時代の波に乗ることができなかった。それが彼らの失速の最大の原因だと思う。
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