来日全外国人レスラー名鑑  ナ、ニ、ヌ、ネ、ノ

 

ナランジャン・シン NARANJAN SINGH 1回
●183センチ、103キロ
●1945年 インド・パンジャブ州 ●インド洋タッグ
46 9(国) 【特】 ダイナマイト・S

従兄弟のアジェット・シンと共に突然来日し、ジャイアント馬場への挑戦をアピールしたが無視され、結局、国際プロレスのリングに登場。インドから東南アジア、ヨーロッパで活躍していたが、実力の方は目を覆うばかりで、1フォールも奪えないまま帰国している。

 

ニキタ・コロフ NIKITA KOLOFF 3回
●ロシアの鬼人 ●193センチ、135キロ
●1959年3月9日 米・ミネソタ州ミネアポリス出身(ノースカロライナ州コンコード出身説もあり) ●パワースラム
●NWA世界6人タッグ、NWA世界TVヘビー、ナショナル・ヘビー(ジョージア版)
61 1(全) 【特】ニューイヤー・ウォーズ・スーパーバトル86、61 10(全) 【特】86 ジャイアント・S、 62 10(全)【特】 87 ジャイアント・S
本名はスコット・シンプソン。イワン・コロフの甥ということで売り出し、ロシアのキエフ出身でロス五輪で幻のレスリング代表になったが、ソビエトの参加ボイコットのためアメリカに渡ったといわれるがこれは全くのギミックで、実際は生っ粋のアメリカ人である。ロシア人ギミックで成功した最後の選手で、マグナムTAとの抗争でNWAのトップスターとなる。マグナムTA引退後はベビーフェイスに転向し、全米一の人気者となる。しかし1993年ごろに引退してジムの経営に専念し、現在は宣教師になっているそうだ。

 

ニキタ・マルコビッチ NIKITA MULKOVITCH 2回
●ロシアの暴れ熊 ●175センチ、108キロ
●1926年 アルメニア出身(ロシア・ニエプロペトロスク出身説もあり) ●キチンシンク
●全ロシア・ヘビー級
39 2(日)【特】新春国際試合、39 2(日)春の国際大会(残留)、44 7(国) ビッグ・サマー・S、44 9(国) ロイヤル・S(残留)
この男もロシア人ギミックで活躍したレスラーだが、実はアルメニア系アルゼンチン人。ニキタ・カルミコフを名乗ったこともある。他のロシアギミック・レスラーと同じくラフ・アンド・パワーを主体にした攻撃を得意にしていた。スコップを凶器とした反則攻撃はユニークだった。昭和44年の来日では田中忠治のIWA世界ミッドヘビー級選手権に挑戦して敗退している。帰国後はWWWF地区でラギッド・ラシアンスのマネージャーとなった。

 

ニコリ・ボルコフ (初代)NIKOLAI VOLKOFF 1回
●狂ったロシア人 ●178センチ、110キロ
●1915年8月3日 ロシア出身 ●バックブリーカー
●NWA世界タッグ(シカゴ版、インディアナ版)
46 3(日)第13回ワールドリーグ戦

本名はスティーブ・ゴブルコビッチ。こちらがオリジナルのニコリ・ボルコフ。デビュー当時はスティーブ・ゴブを名乗っていたが、ロシア人ギミックのボリス・ボルコフとのボルコフ・ブラザーズで売り出した。ボリスとのチーム解散後も、イワン・カメロフ、ジョニー・ケイスあたりとのコンビで活躍しているので、どちらかといえばタッグ専門のレスラーだった様だ。こちらのボルコフは本物のロシア人だったといわれている。来日時は完全に全盛を過ぎていた。

 

ニコリ・ボルコフ NIKOLAI VOLKOFF (ベポ・モンゴル*) 8回
●ロシアの白熊 ●192センチ、135キロ
●1947年10月14日 クロアチア(旧ユーゴスラビア)出身 ●ワンハンド・ネックハンギングツリー
●WWWFインターナショナル・タッグ、ジョージア・ヘビー、WWF世界タッグ、フロリダ・タッグ、ミッドアトランティック・タッグ
47 7 (日) サマー・ビッグ・S*、49 8(新) 闘魂S、52 3(新) 第4回ワールド・リーグ戦、53 4(新)第1回MSGシリーズ、54 10(新)闘魂S、 57 1(全)新春ジャイアントS、 57 10(全)ジャイアントS、58 5(全)グランド・チャンピオン・カーニバル
本名ジョセフ・ニコライ・ペルゾビッチ。WWWF地区でトニー・アンジェロに認められ、ジート(ブラックジャック・ダニエル)とのコンビでザ・モンゴルズとして登場。ベーポ・モンゴルとして日本プロレスに来日し、坂口のUN選手権に挑戦した。モンゴルズを解散して、2代目ボルコフ襲名後は「ロシアの白熊」と呼ばれ、ニューヨークをはじめとする東海岸地区や、AWA地区で活躍。新日本プロレスの常連で、フレッド・ブラッシーのマネージメントでエースとして来日し猪木からフォールを奪った事もあったが、その後は尻すぼみ。後に全日本プロレスに移籍しブルーザー・ブロディーとのコンビで活躍したが結局ブレイクしなかった。AWA地区ではボリス・ブレニコフのリングネームで活躍した。得意技のワンハンド・ネックハンギングは豪快だった。

 

ニック・カーター NICK CARTER
●180センチ、110キロ
●1944年10月21日 ニュージーランド・オークランド出身
●インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、パシフィックノースウエスト・タッグ、カナディアン・タッグ(バンクーバー版)
49 9(国) スーパー・ワイド・S
ボブ・ミラーのシープ・ハーダーズ時代のリングネーム。当時はカルガリー地区のインターナショナル・タッグを保持していた。パートナーのスウィート・ウィリアムスに首輪につないだ鎖を引かれて登場していた。

詳細はボブ・ミラーの項参照。

 

ニック・キニスキー NICK KINISKI 1回
●荒法師2世 ●191センチ、120キロ
●1961年8月25日 米・ワシントン州ブレーン出身
●テキサス・タッグ
61 2(新) ニューウェーブ・ダッシュ
元世界王者ジン・キニスキーの次男。父のジンやエリック・フローリッチのコーチをうけ1985年にデビュー。来日時はデビュー一年目ということもあり、全くいいところがなかった。帰国後ポール・ダイアモンドとのコンビでサンアントニオ地区テキサス・タッグ選手権を獲得、AWAに転出し活躍が期待されたが、兄のケリーと同様にそれ程伸びずに終わった。

 

ニック・コザック NICK KOZAK 3回
●美しき野獣 ●186センチ、112キロ
●1931年 カナダ・ブリティッシュコロンビア州バンクーバー出身 ●エアプレーン・スピン
●パシフィックノースウエスト・ヘビー、テキサス・ヘビー、フロリダ・ヘビー、ハワイ・タッグ、NWA世界タッグ(テキサス版)
42 11(日) ウィンター・S、45 7(日) 第二次ゴールデン・S、45 7(日)NWAワールド・チャンピオンS(残留)、48 8(全) ワールド・チャンピオン・S
全日本プロレスの常連だったジェリー・コザックの実弟。「美しき野獣」などと呼ばれたテクニシャンで、当初は兄とのコンビで暴れていたようだが、兄弟喧嘩を起こし仲間割れ。以降はシングル・プレイヤーとして活躍した。しかし3度目の来日時は兄弟コンビを復活している。テキサスではスポイラーNO3を名乗ったこともあるという。来日当時はアマリロのファンク一家の参謀。(写真右撮影:花園えびす様)

 

ニック・ボックウインクル NICK BOCKWINKEL 14回
●金髪狼 ●188センチ、120キロ
●1934年12月6日 米・ミネソタ州セントポール出身(ミズーリ州セントルイス出身説もあり) ●スープレックス、足4の字固め
●NWA世界タッグ(シスコ版、テキサス版)、パシフィックノースウエスト・ヘビー、ハワイ・ヘビー、ジョージア・ヘビー、AWA世界ヘビー、AWA世界タッグ
39 7(日) 【特】サマー・S、45 9(日) 第1回NWAタッグリーグ戦、49 11(国) 【特】ワールド・チャンピオン・S、53 12(全) 世界最強タッグ決定り−グ戦、 54 9(国) 【特】 ダイナマイト・S、55 3(国) 3・31四大タイトルマッチ、 55 11(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦、57 1(全)【特】 新春ジャイアント・S、58 7(全) 【特】グランド・チャンピオン・カー二バルV、59 2(全)【特】 エキサイト・S、 59 3(全)【特】 グランド・チャンピオン・カーニバルT、59 11(全) 84世界最強タッグ決定リーグ戦、60 11(全) 85 世界最強タッグ決定リーグ戦、 62 8(全) 87 サマー・アクション・S U
本名はニコラス・ウォレン・フランシス・ボックウィンクル。ウォレン・ボックウィンクルの実子で、16歳でルー・テーズを相手にデビュー。ディック・ウォレンのリングネームでしばらくは試合に出場していたようだ。AWA世界王者になってからは、ボビー・ヒーナンをマージャーにつけ典型的なダーティー・チャンプとして通したが、元々はハワイ、太平洋岸を主戦場とした実力派レスラーだった。NWA地区では天才といわれながらタイトル挑戦に恵まれず、1970年にAWAに移籍、2年後レイ・スチーブンスとのコンビで世界タッグを獲得。1975年にはヒーナンをマネージャーにつけバーン・ガニアを破って念願のシングル世界王者を獲得し、4年8ヵ月に渡って王座を守った。引退後はWWFでコメンテーターを勤めた。さらに詳しく  サイン

 

ネグロ・ナバーロ NEGRO NAVARRO 3回
●黒い狩人 ●170センチ、88キロ
●1957年6月12日 メキシコ・メキシコシティ出身
●UWA世界ジュニアライトヘビー、UWA世界トリオ
56 10(新) 10・8新日本VS国際全面対決、56 10(新) 闘魂S(残留)、58 1(新) 【特】新春黄金・S、 59 4(旧U)UWFオープニング・S
本名はミグエル・カルデロン・ナバーロ。エル・シグノ、エル・テハノとのロス・ミショネロスを結成する前は、ローカルのウエルター級タイトルを総なめにした実力者。1985年にはアニバルを破り、UWA認定世界ジュニア・ライト・ヘビー級選手権を獲得している。ミショネロスの3人の中では一番地味な存在だった。マスクをかぶりメキシコの未確認生物チュパカプラに扮したこともある。

 

ネルソン・ロイヤル NELSON ROYAL 9回
●荒くれ牧童 ●178センチ、102キロ
●1935年6月21日 米・ノースカロライナ州ムーアズビル出身(テキサス州ダラス出身説もあり) ●テキサスブロンコ・バックブリーカー
●パシフィックノースウエスト・タッグ、アメリカス・タッグ、NWA世界タッグ(セントラルステーツ版)、テネシー・タッグ、NWA世界ジュニアヘビー
44 2(日) ダイナミック・S、45 4(日) 第12回ワールドリーグ戦、46 9(日) 第2回NWAタッグ・リーグ戦、47 9(日) 第3回NWAタッグリーグ戦、49 2(全) エキサイト・S、50 2(全) エキサイト・S、53 4(全) エキサイト・S、 54 9(国)【特】ダイナマイト・S、 62 1(全) 87 新春ジャイアント・S、 62 8(全) 87 サマー・アクション・S U
現役のシェリフで本物のカウボーイだったところをザ・バイキングにスカウトされてプロレス入り。ダニー・ホッジ引退後にNWA世界ジュニア・ヘビー級選手権を独占した実力者。全日本プロレスでもアル・マドリルの挑戦を受けてタイトルマッチを行なったが、国際プロレスに世界王者を名乗って来日した時は「ネルソンの王者は無効だ」として、当時犬猿の仲だった新日本プロレスと全日本プロレスが連名で抗議するという非常事態をもたらした。

 

ノーベル・オースチン NORVELL AUSTIN 2回
●狂った黒猫  ●177センチ、102キロ
●米・フロリダ州ペンサコーラ出身(カンザス州ウイチタ出身説もあり) ●ヘッドバット
●フロリダ・タッグ、ミシシッピ・ヘビー、テネシー・タッグ、ジョージア・タッグ
47 2(日) ダイナミック・S、55 9 (国) 第1次ダイナマイト・S、55 9 (国) 第2次ダイナマイト・S(残留)
テネシー地区で長く活躍した黒人レスラーで、モンロー・ブラザーズを解散して間もないスプートニク・モンローにスカウトされてプロレス入り。モンローとのコンビで初来日を果たしているが、この時はキャリア不足でモンローの足を引っ張った。1980年代前半に初代のミッドナイト・エキスプレスを結成するが、すぐに脱退している。国際プロレス参加時の印象は薄い。(右写真撮影=HARU一番様)

 

ノーマン・スマイリー NORMAN SMILEY 4回
●黒い魔術 ●188センチ、110キロ
●1965年2月28日 イギリス・ロンドン出身(サザンプトン出身説もあり) ●サンセットフリップ
●GWA・TV、CMLL世界ヘビー
63 6(U) 6・11STARTlNG OVER UWF旗揚げ第3戦、63 8(U) 8・13 THE PROFESSlONAL BOUT、63 9(U) 9・24 FlGHTlNG NETWORK、63 12(U) 12・22 HEART−BEAT UWF
前身はボディービルダー(ミスターUSA)でその経歴から、ローンホーク → トニー・アトラスのお笑い路線継承者現れたり! と期待させたが、残念な事に「黒い藤原」といわれUスタイルに順応し活躍した。また新生UWFに来日している時、地元フロリダの一般新聞にも「日本へ行った成功者」で紹介されたこともある。後に何故か主戦場を日本のUWFから正反対のメキシコ、ルチャリブレに活動の場を移し「ブラック・マジック」と改名。CMLL世界ヘビー級王者となりメキシコでも人気を獲得した。リングス設立の際「リングス・米国」の代表という噂があったが、これは辞退している。(解説:TMKID氏)

 

ノーマン・フレデリック・チャールズ三世 NORMAN FREDERICK CHARLES THE THIRD 2回
●イギリスの怪鳥 ●183センチ、110キロ
●1936年 イギリス出身
●英連邦ジュニアヘビー、パシフィックノースウエスト・タッグ、NWA世界タッグ(シスコ版)、インターナショナル・タッグ(カルガリー版)
49 2(新) ビッグ・ファイト・S、 51 1(全) 新春ジャイアント・S
本名はフレデリック・ローンデス。イギリスではモーリス・ラルー、オーストラリアではゴージャス・マックを名乗っていた。カナダに遠征し、ロード・ジョナサン・ボイドとのザ・ロイヤル・カンガルーズを結成し、カナダや北部太平洋岸を中心に暴れていたタッグの名手。チーム解散後はカルガリー地区に定着し英連邦ジュニア・ヘビー級王者となるが、カルガリー地区初戦の阿修羅原に敗退し王座を失った。ボイドとのチームはどちらかといえば小悪党的なチームだったので、国際プロレスに来日していれば本領を発揮していたであろう。(写真提供:花園えびす様)

その後の調査で、カンガルーズ結成前は、ゴージャス・ジョージにあやかったゴージャス・ジョージ・マーフィーなるリングネームで活躍していたことが判明。詳細は、未来日外国人レスラー名鑑のゴージャス・ジョージ・マーフィーの項を見よ。