サンダー杉山の雷電ドロップ

2002.10.6update

 

 

特別寄稿/「昭和プロレス研究室・同人」存 英雄

naohさんとおっしゃる方から、「昭和必殺技名鑑にサンダー杉山の雷電ドロップを!」というリクエストがこの研究室のBBS宛てにあったのは、さる9月20日のこと。昭和プロレスの名選手の一人であるサンダー杉山の大ファンを自認する私であるが、なかなか同好の士は少なく(笑)寂しい思いをしていたところに、これこそは絶好のご提言と感じ、さっそく研究室長のミック博士に直訴。寄稿の許可を得ることができたのである。では最初に、上記のnaohさんの投稿というのが、このコーナーの課題である「雷電ドロップ」の魅力分析に関して実に的確なものであるので、以下にそのテキストをそのまま引用するところから論考をはじめたい。

<引用>投稿者:naoh  『初めて投稿します。次々増えていく名鑑に是非「サンダ−杉山の雷電ドロップ」を熱望します。単なるヒップドロップではなく、ジャンプしながらの3連発からのボディプレス(しかもジャンプしながら体を入れ替えて)をヘビー級のレスラーが繰り出すのは簡単そうに見えて難しいと思います。当時神技とも見られていた原爆固めを出来るにもかかわらず、キャラクターに合せたヒップドロップを決め技に選んだ慧眼にも感服します。実力はテーズとのTWWA戦で1本獲っている事からも、ロビンソンに勝ったのが決してフロックではないといえると思います。最後に幻の「大雷電」(トップロープからの雷電ドロップ)の写真も是非載せてください。宜しくお願いします』

 写真でお確かめいただきたい(A)。どーですか、このド迫力と肉弾感。ボディスラムで叩きつけた後の相手レスラーの体をまたぐや否や、ロープの反動もコーナーポストも使わずに、その場で130kgの男が大きく空中に舞い上がってド〜ンと尻から落下。とどめはnaohさんのおっしゃるように、ジャンプしながら体を入れ替えてのボディプレス。空中殺法の元祖=エド・カーペンティアにも負けていない“この技を繰り出す時の杉山の瞬発的なジャンプ力”こそが、雷電ドロップの真骨頂である。

そして写真(B)には、さらに雷電ドロップを杉山のオリジナル技たらしめているポイントがとらえられている。杉山の開脚の見事さである。これは彼が全日本プロレスに移籍後の、「やや全盛期を過ぎた頃と思われる時代の雷電」であるにもかかわらず、まるで大相撲の関取のような見事な“股割り”が美しい。ひょっとすると「雷電」の名は伝説の相撲取りの四股名から取ったのでは?と思わせるほどだ。実は脚を大きく開くことは、この技の「威力」に関してはあまり意味は無い。しかし技の「魅力」には大いに貢献している。空中で派手に開かれた両脚のフォルムこそが、単なるヒップドロップと杉山流雷電ドロップの違いと言えよう。

かつて、マイナーと言われた国際プロレスのファンであった私は子供の頃、馬場・猪木の日本プロレス支持派の友人達から「雷電ドロップ?あんなもん、ただの尻餅やんけ」とか「誰でも出来る技やん!」などと、さんざん突込みを入れられた。しかし、お分かりのように杉山の雷電は決して誰にでも出来る技なんかではない。英語名で言えば“サンダードロップ”。名前の通り、サンダー杉山にしか出来ない技だから、そう呼ばれたのである。ゆえに、この技には正統な後継者がいない。ヘビー級の選手が、杉山と同程度かそれ以上のジャンプ力と開脚の美しさを誇示しながら尻を落とさない限り、それは単なるヒップドロップなのだ。

昭和プロレス史上、杉山の雷電ドロップが最も注目を浴びた試合と言えば、(C)のロビンソン戦であろうか。当時の専門誌の勝利者インタビューをチェックすると、一本目に杉山は計7発の雷電を連発してフォールを奪っている。そして2フォールは取れなかったものの、“初めてロビンソンに勝った日本人レスラー”の称号は杉山に与えられた。(D)の写真はそれから6年後(昭和51年)ということになる。古巣の国際プロに復帰した杉山が、マイティ井上相手に決めてみせた(当時はもはや伝説の技と化していた)雷電のショットだが、もはや昔日の美しい開脚は見られない。この試合で生まれて初めて(たぶん)、自らの体で雷電ドロップの衝撃を体験した井上が、天の啓示を受けて新必殺技「サマーソルト雷電ドロップ」を完成……などということにでもなっていれば素晴らしかったのだが(妄想)。

 

   
         
(A)魔術師カーペンティアもびっくり!「俺のサマーソルト・ドロップよりも、よく飛んでるぜ!」と言ったとか、言わなかったとか…
(昭和45年8月・IWA王座防衛戦)
  (B)リッパー・コリンズも雷電ドロップでKO(昭和48年・全日本プロレス「ブラックパワー・シリーズ」)   (C)大きなお腹に、幅広のベルトがよく似合う(昭和45年5月・IWA王座奪取)

 

   
         
(D)晩年の杉山は髪型やコスチュームも変わり、雷電もまた独自の開脚フォルムは後退した(4年ぶりの古巣・国際プロレス復帰時)   (E)ついでにコレが噂の裸足のソバット!(昭和45年8月・IWA王座防衛戦)   (F)この技は「大雷電」ではなく、「アトミック・ボムズ・アウエイ」と考えたい(ペドロ・モラレス)

 

少し話しはそれるが…杉山のファイトについては、サイケおやじさんからも『サンダー杉山といえば裸足のファイトスタイル!そしてそこから繰り出されるソバットも忘れられません。それにしてもアマレス出身の彼が何故裸足なのでしょう?あと、「ハッァッ、ハッァッ」という試合中のあの息継ぎも記憶に残っております。そのあたりもひとつよろしくお願い致します<以上・引用>』という声を、いただいている。本稿の主旨からはズレてしまうが、この際だから書かせていただきたい。

裸足のソバット攻撃は、確かにユーモラスである(E)。私と同世代か、もっと古い時代のプロレスファンの方ならばご記憶と思われるが、杉山は高校時代までは柔道の重量級で全国に勇名を轟かせた猛者であった。それがなぜレスリングに転向したのか?下記は、私が憶えている古いインタビュー記事の内容であるが、「杉山は高校時代の柔道の実績から明治大学の柔道部にスカウトされ進学するはずであった。ところが魔がさしたのか、京都の某大学の柔道部が彼を“三食・完全支給。とにかく食事はいくら食べても無料”という破格の条件で(笑)引き抜き、杉山は明大との約束をホゴにして京都に行ってしまう。ここで杉山が京都に骨を埋めていれば、彼は私と同じ大学の先輩となり、また将来のプロレス界入りも無かった可能性がある。だが彼は京都の水が合わず、仕方なくツテを頼って1年後に明大に再入学するが、過去の因縁から柔道部には入れない。そこでしょうがなく腕試しでレスリング部に入部したところ、いきなりヘビー級の国内大会で優勝してしまい五輪候補の新星あらわる!と派手に報道されたため、完全に柔道に復帰することができなくなってしまった」というのである。

杉山いわく「当時の大学のアマレス・ヘビー級は人材不足で柔道から無理に転向したような選手が多かったですから、僕はほとんどの相手が顔見知りで、しかも過去にぶん投げて倒したヤツばかりなので、みんな僕との試合は怖がって簡単に勝てました」と、まぁ杉山流に飄々と語ると、こんな感じのインタビュー記事であっただろうか。杉山の裸足のファイトスタイルは、この柔道時代が原点と私は想像する(あるいは独自の呼吸法についても)。柔道で自然に身についた“すり足”で地面の感触を計り、ここぞという瞬間に大きく飛翔するのが杉山の雷電ドロップや、得意技であるドロップキックのオリジンだったのだ。

最後にnaohさんのおっしゃる「大雷電」であるが、非常に申しわけ無いのであるが、私はロープ最上段を利用したヒップドロップについては、たとえそれを使ったのが杉山であったとしても「雷電」には分類しないように考えている。原理主義者のごとき頭の堅い考え方であるが、雷電ドロップは自力で大きく空中にジャンプし、美しい開脚フォルムを示した後に落ちてくる技というのが、私の定義なのだ。ゆえにロープ最上段からの落下技は、存 英雄の視点ではペドロ・モラレス(F)やアニマル浜口、山本小鉄など使い手の多い「アトミック・ボムズ・アウエイ」なる別技ということになる。大雷電は私の辞書には、存在しない技ということでご容赦願いたい。 

現在、比較的簡単にサンダー杉山の勇姿をビデオ映像で目に出来るのは、おそらく「昭和53年12月の新日本プロレス・北米タッグ選手権」だけで、これは彼が最晩年に上田馬之介と組みスキンヘッドの悪役として坂口&小林組と戦った試合である。この試合で1本目に杉山は上田が押さえつけた小林に対して、トップロープから「大雷電(アトミック・ボムズ・アウエイ)」を叩き込み、そのまま更にもういちど軽くジャンプしてヒップドロップをプラス一発敢行する!この時アナウンサーは「杉山の雷電ドロップが出ました」と紹介するが、存 英雄はビデオを見るたびに心の中で「違う、違う。ほんまの雷電はこんなんやない」と叫んでしまうのである。頑固なことを申し上げるが、私の記憶にある栄光の雷電ドロップは、本日ご紹介した写真のようなスタイルを指すという考え方に、もしも皆様がたからのご賛同が得られるならば、筆者としてはこれ以上の喜びはないのである(2002.10.05)。

【最後に、私がこの原稿を書きたいと思う“きっかけ”を作ってくださったnaohさんと、快く発表の場を与えて下さったミック博士の両氏に、感謝の意を表明します】