ドリー・ファンク・ジュニアのスピニングトー・ホールド
2003.12.5
ファンク一家の代名詞! |
今回は自他共に認めるファンクス・ファンであるセブンさんによるファンクスの2大必殺技二本立て!兄貴のジュニアはもちろんスピニング・トーホールドです。それではセブンさんどうぞ! ************************************************** この技はドリーとテリーの父、ドリー・ファンク・シニアが開発した。ある日、シニアが自宅の牧場フライング・メア・ランチで、暴れている牛を押さえつけるのに、牛の足を持ってフックし内側に回転して足を極めたら、暴れていた牛がピタッとおとなしくなった。これをヒントにしたシニアは、内側に回転する事を連続で行い、それを人間に極める事をスパーリングで行い、ここにスピニング・トー・ホールドが完成した。 しかし、シニアはスパーリング以外では、決してこの技を試合で使う事はなかった。シニアは「キング・オブ・デスマッチ」と呼ばれマスクを被って「ジ・アウトロー」として暴れていたのだが、これは自分の身体のサイズが小さく、NWA世界ヘビー級王者になれない事を悟っての事だった。そのシニアの夢は二人の息子、ジュニアとテリーをNWA世界王者にする事だった。シニアは自分が開発したこの技を自分では使わ 新しいタイプでサイエンティフィック・スタイルのジュニアはスピニング・トー・ホールドで次々と防衛を重ね、この技が世界的なポピュラーな技となり、弟のテリーも使うようになってから「ファンク一家の伝家の宝刀」と呼ばれている。日本でも初対決の馬場戦で、ジュニアは馬場からスピニング・トー・ホールドを初公開し、キブアップを奪いジュニアの存在とスピニング・トー・ホールドの威力が日本のファンにも認知された。ジュニアは4年3ヶ月の長期政権を築き、そのほとんどの試合のフィニッシュをスピニング・トー・ホールドで決めていた。ジュニアが相手の右足を取っただけで期待感で客席がドッと沸いたものである。 |
昭和56年の兄弟対決での名場面。 |
父シニア亡き後、ジュニアとテリーはファンク道場で名レスラー達の育成を手がけたが、ジャンボ鶴田、ディック・スレーター、テッド・デビアスなどがこの技を盗んで使うようになった。但し、ジュニアやテリーのスピニング・トー・ホールドは相手の右足を狙うのだが、鶴田、スレーター、デビアスらは左足を狙っているのが本家とコピーの大きな違いだ。 私はドリー・ファンク・ジュニアに、プロレスの基本的な技を教えてもらった事がある。ヘッドロックやアームロック、リストロックに加え、バックの取り方、テイクダウンのさせ方を教えてもらったのだが、全てのジュニアの教えには、コツというかポイントがあった。私は良い機会だと思いスピニング・トー・ホールドを教えてもらおうと思って、寝っころがってジュニアに右足を差し出し「スピニング・トー・ホールドを教えて下さい」と言ったのだが、ジュニアの答えは「No」だった。理由を聞くと「この技は私と父のオリジナルでありシークレットなポイントがあるからだ」と言われた。その時、私は「さすがに自分の代名詞と呼ばれる技を大切にしているな」とジュニアのプライドを感じたのだった。日本のロックバンド「クリエイション」の竹田和夫氏がドリー・ファンク・ジュニアをイメージして作ったインストの曲が「スピニング・トー・ホールド」という題名で、当時の日本テレビの梅垣ディレクターがこの曲を発掘し、伝説の「77年世界オープンタッグ選手権大会」からザ・ファンクスのテーマ曲として使用され、オリコンで大ヒットした。プロレスの技の名前が音楽の曲名になったのは「スピニング・トー・ホールド」が初めてではないかと思う。 全盛期のジュニアのスピニング・トー・ホールドは、回転のスピード、足首の決め方、技をかけている時の体重移動とバランスが最高であった。私は、「このスピニング・トー・ホールドこそ、70年代を代表する最高の必殺技である」という持論を述べて、終わりにしたい。 解説 セブン様 |