ハクソー・ヒギンズのバック・フリップ
2002.2.32.3 upload
2025.1.2 remix
猪木をKOしたハクソー・ヒギンスの強烈な一発 |
筆者のプロレス観戦の中で忘れられないシーンはいくつかあるが、その中でも強烈に印象に残っているのが、昭和60年3月1日に後楽園ホールで行われたアントニオ猪木×ハクソー・ヒギンズ戦でヒギンスが爆発させた強烈なバックフリップである。 この時期の猪木はまさに満身創痍といった状態で、キングコング・バンディやデビット・シュルツら新進レスラーにかなり痛めつけられ、その落日を当時15歳の筆者は悲しい思いで見ていた。そんな落日の猪木神話にとって息の根をとめるとどめの一発となったのがヒギンズの強烈なバックフリップであった。 この日の試合も猪木はスタートからヒギンズの荒削りなパワーファイトに押し捲られ、10分過ぎに強烈なバックフリップを食らい半失神状態に。あまりのダメージにミスター高橋もカウントを2で止めてしまい、セコンドについていたミスター若松の意を受けたデビッド・シュルツが慌てて乱入して試合はヒギンズの反則負けで終わったのである。 「猪木もヒギンズあたりのレスラーに負けるようじゃもうだめだなぁ。」 テレビ中継の翌日友人とこんな会話をした記憶がある。これが猪木の全盛期なら「猪木をKOしたヒギンズは強いなぁ!」となっていただろうが、このときばかりは猪木の弱さが非常に目立った。この一発は筆者を猪木最強幻想から目覚めさせた強烈な一発でもあった。 |
ザ・サモアンズのバックフリップは「サモアン・スープレックス」と命名された。 |
さて、バックフリップといえばザ・サモアンズが得意としていたサモアン・スープレックスも強烈であった。昭和55年1月の「新春黄金シリーズ」の開幕戦でみせたさもアン・スープレックスは強烈だった。ロープに飛んだ木村健吾を担ぎ上げた瞬間に後方にたたきつけそのままフォール。あまりの速さに木村も受身を取りきれずアバラを負傷したようで、フォールされた後もしばらく立ち上がれずに、うずくまっていたのが印象に残る。 |
浜口はエアプレンスピンからのバックフリップを多用 | 阿修羅原はジュニア時代にフィニッシュにしていた | ブッチャーの山嵐式バックドロップ |
日本ではなんと言ってもアニマル浜口のエアプレン・スピンからのバックフリップが忘れられない。これはなかなかリズミカルでしかも強烈な技であった。IWA世界タッグの防衛戦では何度かこれでフォールを奪っていたように記憶しているが、浜口の場合、100キロそこそこの小兵だったので、フィニッシュとするにはつらい部分があった。同じ国際プロレスの阿修羅原もバックフリップを得意としていた。
最後に「こんなのもありました」ということでアブドーラ・ザ・ブッチャーの「山嵐流バック・フリップ」を紹介しておこう。山嵐流バック・ドロップと紹介されたこともあったと思うが、バックドロップとバックフリップの中間のような投げ技で持ち上げてゆらーりと後ろに倒れこむもので、サモアンズやヒギンズのバックフリップのような迫力はまったくなかった。フィニッシュのエルボードロップへのつなぎ技としていたようである。 とにかくこの技はでかいレスラーがダイナミックに使えば非常に破壊力がある。新日本プロレスに復帰(2002年当時)した安田忠夫がこれをマスターしたら面白いだろうなぁと思う。 |