アントニオ猪木のアントニオ・ドライバー

2002.9.23 upload
2024.10.29 remix

 

 

この豪快な投げっぷりを見よ!!

 

 


 昭和41年、豊登に口説かれアントニオ猪木は日本プロレスのワールド大リーグ戦には出場せず、豊登がを設立した「東京プロレス」の社長兼エースとなった。その旗揚げシリーズのエース外人はまだ見ぬ強豪の最右翼であったジョニー・バレンタイン。そのバレンタイン対策として猪木が使った必殺技が。このアントニオ・ドライバー(=フロントネック・チャンスリー)だった。この技はネックブリーカー・ドロップ、スウィング・バックブリーカーと並んで猪木の失われた必殺技のひとつである。猪木はこの技を使いすぎたため、腰を痛めたという人もいるほど使い手にとってもハードな技である。

 この技は元来ジャイアント・スウィングとかフロントネック・チャンスリーと呼ばれた技でフロントヘッドロックの体勢から、強力なブリッジを生かして後方に投げる技で、並外れた足腰の強さを要求される。別項にあるニック・ボックウィンクルとの違いは相手の腕を巻き込まず、相手の首だけを巻き込んで投げている点である。

 そもそもフロント・ネック・チャンスリーのチャンスリー(=chancery)とは「頭をわきの下に抱え込む(込まれる)」という意味がある。ブレーンバスターの原型として知られるが、ブレーンバスターより見た目も破壊力も遙に上回っているような気がする。(日プロ時代にも使ったという説もあるが)猪木は東京プロレスの崩壊とともにこの技を封印してしまった。この辺の変わり身の早さも猪木を大成させた要因だと思う。

 

猪木は元世界王者のS・ザボーから洗礼を

 

 猪木がこの技を体得したのはいつだろうか? これは筆者の推測だが、初めて参加が許された昭和38年のワールドリーグ戦で元世界王者のサンダー・ザボーにこの技でぶん投げられたときに、「なんて凄い技だ、畜生、俺は絶対この技をモノにするぜ!」なんて思ったのだと思う。

 まだまだグリーンボーイだった猪木と闘ったザボーは「ルー・テーズの若い頃のようだ」と猪木の素質を絶賛した。このときのザボーの言葉は猪木の励みになり、猪木はこの言葉を胸に刻んだに違いない。そして「もし俺がスター選手になったら、この技を使ってザボーに恩返しを・・・」と胸に誓ったのだろう。

 そしてエースとして超一流のジョニー・バレンタインと対峙したとき、猪木は「いまこそあの技を使う時だ!」と思ったに違いない。あまり語られることはないが、猪木はザボーから古き良きストロング・スタイルの洗礼を受けたのだ。ザボーも猪木を語る上では欠かせない恩人であろう。