プロレスを知らない人でも「ジャイアント馬場は知っている」という時代はあった。つまりジャイアント馬場は日本人プロレスラーの象徴だった。その馬場の必殺技が16文キックであった。非常にシンプルでかつ効き目も伝わる技である。
左足で蹴っているのは、ピッチャー時代の名残という説が圧倒的。馬場がこの技を使ったのは、1962年6月頃、アメリカ修業時代に、NYのサニーサイドガーデンでのタッグマッチ(カルロス・ミラノ&ピーター・センチャーズ)でコンビを組んだスカル・マーフィーの指示でミラノにフロント・ハイキックを使ったというのが定説。この時とっさにピッチャー時代の癖が出て、投球モーションで左足を上げて振りかぶる癖で左足をとっさに振りあげたというのである。
昭和40年代の16文キックの写真を見ると、足を大きく振り上げ蹴ると同時に前方に身体を傾けて体重を乗せてキックの効果を増しているのがわかる。馬場本人もこの技のコツとして「体のバランスが重要」と証言している。晩年にはよろつくこともあったが、昭和50年代中盤ごろまでは、この技一発でフォールを奪うこともあった。
16文キックのエピソードとしては、昭和36年のミスター珍との試合で16文キックを繰り出し、もろに受けたミスター珍はマットに後頭部を強打して失神。一時意識不明になった。馬場は「珍さんが再起不能になったらプロレスを辞めよう」と思いつめたという。
ここまで読んで「おかしい」と思わなかった人は危ないですw 定説になっているスカル・マーフィーのアドバイスで初めて16文キックを使った前年に、日本のリングで16文キックでミスター珍を失神させているのである。ということはマーフィーの話は「ファンタジー」ということになりそうである。
しかし、このコラムをアップした2日後「へ」氏よりメールをいただき、珍を失神させたキックがフロントハイキックだったかという確証がないという議論になった。そこで流智美氏に見解を聞いてみると・・・
「わたしの記憶ではコミカルにダイビングプレスみたいにとんだところ、顎に蹴りが入ってしまい、珍は舌がくるまって窒息試合になった」
との見解であった。16文キック型のフロントハイキックではなかったとのことである。渡米前にフロントハイキックを使っていたというのも正しくないということが判明した。
しかし、調べたところ、1962年6月頃、NYのサニーサイドガーデンで馬場&スカル・マーフィーVSカルロス・ミラノ&ピーター・センチャーズという試合はなかった。馬場は6月にワシントンDCでカルロ・ミラノとシングルで対戦。スカル・マーフィーとコンビを組んだのは、7月にピッツバーグでアントニオ・ロッカ&ブルーノ・サンマルチノ組、12月にブルックリンでビットリオ・アポロ&ミグエル・ペレス組と対戦しただけであった。
つまり、マーフィーとのタッグ戦でカルロス・ミラノを相手に16文キックを繰り出したこと自体がファンタジーだたという可能性が高い。
そこで流智美氏の名著「やっぱりプロレスが最強である!」(ベースボールマガジン社)の「馬場16文第一号犠牲者を徹底分析した」というコラムでは、マーフィーとのタッグ戦のほか2つの説を馬場が述懐していたとの記載がある。その2つとは…
@1961年の夏ごろロスでKO・マーフィーというレスラーにやった。
Aスカル・マーフィーの頭突きに対抗するために編み出した。
KOマーフィーとは1961年に2回対戦しているので、試合自体がファンタジーということはない。スカル・マーフィーとはNY地区で何度か対戦しており、試合自体が確認できない馬場&スカル・マーフィーVSカルロス・ミラノ&ピーター・センチャーズ戦で出したという説よりは、この@Aの説の方が有力と言えるか・・・。
ちなみに馬場の足は16文はなく(14文らしい)、アメリカの靴のサイズ「16」から「16文キック」と命名したことも、いまや有名である。
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