1956年ごろレイ・エニス(ヴォーカル、ギター)が中心となって結成されたグループは、当初アメリカのロカビリー歌手ジーン・ヴィンセントにあやかりTHE
BLUEGENESと名乗った。彼らは1958年にリヴァプール・エンパイア劇場で行われたバング・コンテストでビートルズをおさえて優勝したが、その時、2位になったラルフ・エリス(リズム・ギター)は、エニスのヴォーカルに魅せられ、自分のグループを解散し、ブルージーンズへの加入を申し出た。1961年にはエニス、エリスにレス・ブライド(ベース)、ノーマン・クールケ(ドラム)というメンバーに落ち着いていた。この頃にはキャバーン・クラブのハウスバンドとなり、リヴァプールのトップグループとなっていた。1962年にマルチグラというクラブのオーナー、ジム・アイルランドととマネージメント契約を交わした。ブライアン・エプスタインも獲得に乗り出したというが、ビートルズやジェリーとペイスメーカーズに手一杯で充分なマネージメントをしてもらえないだろうと判断して、エプスタインの申し出は断ったという。アイルランドはまずジョー・ミークに売り込んだが、オーディションの結果は不合格であった。しかし1963年いEMI系のHMVとの契約に成功。オリジナルの「イッツ・トゥー・レイト・ナウ」でデビューしたがヒットせず、続く「ドゥ・ユー・ノウ」もほとんど注目を集めることはなかった。
しかしこの頃、海賊ラジオ局ラジオ・ルクセンブルグのジーンズ会社が提供する「スウィンギング・タイム」という番組のホストとなり、静かな人気を獲得しつつあった。1963年の暮れにビートルズのステージを見たブルージーンズの面々は、ビートルズがレパートリーとしていたある曲に非常に心を惹かれ、これを3枚目のシングルにすることにした。それが彼らにとって最初で最後の超ビッグ・ヒットとなる「ヒッピー・ヒッピー・シェイク」であった。この曲はイギリスで2位までのぼるヒット(DC5の「グラッド・オール・オヴァー」を抜けず)となち、1964年3月にはアメリカでも24位のスマッシュヒットを記録した。この時、アメリカで絶大な影響力を持つエド・サリヴァン・ショーへの出演を依頼されるが、マネージャーはヨーロッパ・ツアーの契約が残っているという理由で、これを断ってしまう。この後、二度とサリヴァンから出演依頼が来ることはなかった。この判断ミスが彼らのアメリカでの成功を最小限のものにしてしまったといえよう。
ブルージーンズハ4枚目のシングルに「ヒッピー〜」とほとんど同じアレンジの「グッド・ゴリー・ミス・モリー」を発売し11位のスマッシュ・ヒット(アメリカでは43位)を記録。続くシングルにはがらっと雰囲気を変えたバラードの傑作「ユーアー・ノー・グッド」をリリース。これがイギリスでは3位の大ヒットとなったが、アメリカでは93位と低迷。ブルージーンズはこのあとオリジナルの「恋の約束」、ジョニー・バーネットの「イット・イズント・ゼア」をリリースするがいずれもチャート・インせず。1965年にリリースされた「君は僕のもの」、「クレイジー・アバウト・マイ・ベイビー」もことごとく失敗し、1966年にディオンヌ・ワーウィックの「ドント・メイク・ミー・オーヴァー」はイギリスで31位と久々にヒットを記録するが、これが最後のヒットとなってしまう。このシングルが出た直後にエリスが脱退。変わりにエスコーツのテリー・シルヴェスター(後にホリーズに参加)と、マイク・グレゴリーが参加。ブライドはキーボードに転向し5人組として再スタートを切る。
新編成になってからの第1弾シングルはロニーとデイトナズのカヴァー「サンディ」をリリース。さらにオリジナルの「サマーズ・ゴーン」、ニッカーボッカーズの「ルーモアズ・ゴシップス・ワーズ・アントゥルー」をリリースするがノーランク。この頃グレゴリーが脱退。1967年にも2枚のシングル、1968年にはコロムビアに移籍し2枚のシングルをリリースするがやはりヒットには結びつかずシルベスターが脱退しホリーズに参加。1970年代に入ると第1線を退きキャバレーやクラブをサーキットするようになった。現在でも現役でヨーロッパのクラブをサーキットしているというから凄い。
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