来日全外国人レスラー名鑑 (ト2)

 

ドリー・ディクソン DORY DIXON 2回
●褐色の弾丸 ●185センチ、110キロ
●1936年2月1日 ジャマイカ・キングストン出身 ●ドロップキック
●NWA世界ライトヘビー、テキサス・ヘビー、テキサス・タッグ、NWA世界タッグ(テキサス版)、アメリカス・タッグ、カリフォルニアTV
44 3(国) ワールド選抜・S、49 8(新) 闘魂S
1954年にボディビルのミスター・ジャマイカに輝いたのを機に、メキシコの大ボス サルバトーレ・ルッタロスにスカウトされメキシコでデビュー。その後はヨーロッパ、カナダ、南米など世界各地を渡り歩いた渡り鳥レスラー。全盛期にはMSGで馬場を破った実績を持つ。黒人特有のばねを生かしたドロップキックの威力は凄まじく、ドロップキックの使い手としては常にベスト・テンに名を連ねている。一時期メキシコのコマチョ大統領のSPを勤めたこともある。

 

ドリー・ファンク・シニア DORY FUNK SR. 2回
●テキサス・ブロンコ ●183センチ、100キロ
●1911年5月4日 米・インディアナ州ハモンド出身 1973年6月3日没 ●スピニングトーホールド
●サウスウエスト・ジュニアヘビー、北米ヘビー(アマリロ版)、パシフィックコースト・タッグ(バンクーバー版)、NWA世界ジュニアヘビー、ウエスタンステーツ・ヘビー
44 11(日)【特】NWAシリーズ、47 10(全)【特】旗揚げジャイアント・S
本名はドランス・ウィルヘルム・ファンク。アマリロのプロモーター兼レスラーで、現役時代は悪役として売り、世界ジュニア・ヘビー級のチャンピオンにもなっている。二人の息子を世界チャンピオンに育て上げた実力者で、アメリカマット界では一目を置かれていた。日本プロレスへはジュニアのマネージャーとして来日したが2試合に出場した。全日本プロレスにはレスラーとして参加しリングに上がった。現役時代はバンクーバー地区でザ・アウトローと名乗ってルー・テーズとのコンビでパシフィックコースト・タッグを獲得したこともある。1973年6月にパーティーの余興として行なったシュート・スパーリングの途中で心臓発作をおこし、帰らぬ人となった。

 

ドリー・ファンク・ジュニア DORY FUNK JR. 34回
●テキサス・ブロンコ ●190センチ、110キロ
●1941年2月3日 米・インディアナ州インディアナポリス ●スピニング・トーホールド
●NWA世界ヘビー、北米ヘビー(アマリロ版)、インターナショナル・ヘビー(全日本プロレス版、アマリロ版)、インターナショナル・タッグ(日本プロレス版、アマリロ版)、アメリカスヘビー、世界タッグ(ロス地区、テキサス地区)、ミッドアトランティック・ヘビー、ミズーリ・ヘビー、フロリダ・ヘビー、ジョージア・タッグ、プエルトリカン・ヘビー、WWCユニバーサル・ヘビー、WWC北米タッグ
4411(日)【特】 NWAシリーズ、45 7(日) NWAワールド・チャンピオンS、46 11(日)【特】 ワールド・チャンピオン・S、48 7(全) 【特】サマー・アクション・S、48 9(全)【特】ワールド・チャンピオン・S、4810(全)【特】創立1周年記念ジャイアント・S、49 1(全)【特】新春NWA・S、 49 8(全)【特】サマー・アクション・S第2弾、50 2(全) 【特】エキサイト・S、 5012(全) オープン選手権大会、52 12(全) 世界オープン・タッグ選手権大会、53 12(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦、 54 7(全)【特】サマー・アクション・S、 54 11(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦、55 11(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦、56 4(全)【特】インター・チャンピオン・S、56 10(全) ジャイアント・S、56 11(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦、57 4(全) グランド・チャンピオン・S、57 10(全)【特】 ジャイアント・S、57 11(全) 82世界最強タッグ決定リーグ戦、58 3(全)【特】グランド・チャンピオン・カーニバルT、 58 8(全)【特】スーパー・パワー・S、58 11(全) 84世界最強タッグ決定リーグ戦、59 3(全) 【特】グランド・チャンピオン・カーニバルT、59 8(全)【特】 スーパー・パワー・S、59 11(全) 84世界最強タッグ決定リーグ戦、60 8(全)【特】85決戦!ダイナマイト・ウォーズ、60 10(全)【特】ワールド・チャンピオン・カーニバル、60 11(全) 85 世界最強タッグ決定リーグ戦、61 10(全)【特】86 ジャイアント・S、61 11(全) 86 世界最強タッグ決定リーグ戦、62 3(全) 87 チャンピオン・カーニバル、6211(全) 87世界最強タッグ決定リーグ戦
本名はドリー・アーネスト・ファンク・ジュニア。プロレスのスタイルと大きく変えたNWA世界チャンピオン。それまでの大技一発で決めるスタイルとは違い、大技を連発する事により勝利を狙うスタイルの創始者といえよう。特に昭和44年大阪でのアントニオ猪木とのフルタイムの世界戦はいまだに名勝負として語り草となっている。馬場の独立後は全日本プロレスの看板外人となりブッカーも務めていた。平成10年に29年ぶりにリングで猪木と顔を合わせたが、これがたたってかジャイアント馬場の追悼セレモニーにはお呼びがかからなかった。引退後はWWFでトレーナーを勤めていた。2001年にはファンクスとして新日本プロレスに登場。昭和のファンに「これが20年前に実現していたら」と大いに残念がらせた。オフィシャルサイトはこちらサイン

 

ザ・トルネード THE TORNADO
●竜巻仮面 ●186センチ、120キロ
●1946年8月16日 米・テキサス州ワックスハイチ出身 1996年6月14日没 ●ブレンバスター
●ガルフコースト・タッグ、北米ヘビー(セントラルステーツ版、トライステート版、ミッドサウス版)、IWA世界タッグ(オーストラリア版)、アメリカン・タッグ、NWF世界タッグ、南部ヘビー(フロリダ版)、ウエスタンステート・ヘビー、インターナショナル・ヘビー(アマリロ版)、ミズーリ・ヘビー、セントラルステーツ・ヘビー、UNヘビー、WWF世界タッグ、WWC世界ヘビー
49 8(全) 【特】サマー・アクション・S第2弾
デストロイヤーの覆面十番勝負の相手として1戦のみのために来日した「謎の」マスクマンだが、その体型とファイト振りで正体がディック・マードックであることは誰の目にも明らかであった。マードックはアメリカでもマスクをかぶってジ・インベーダーを名乗ったことがあった。

ディック・マードックの項も参照の事。

 

トレーシー・スマザーズ TRACY SMOTHERS 2回
●炎の白牛 ●187センチ、106キロ
●1962年9月2日 米・ジョージア州アトランタ出身 ●ドロップキック
●CWAヘビー(テネシー地区)、CWFヘビー、SMWヘビー
63 7(新) サマー・ファイト・S、6311(新) 88 ジャパンカップ・S
デビューはテネシー。長い間前座生活を送った後、初来日時の相棒のスティーブ・アームストロングとのコンビで「サザン・ボーイズ」として活躍。新日本プロレスではジョージ高野を加えたトリオで人気を呼んだ。後に「ヤングピストルズ」と改名。平成に入りジェイソン悪(偽ジェイソン)として今は無きW☆INGに来日した。その後 WWFにフレディー・ジョー・フロイドのリングネームで短期間出場した後、 ECWの「FBI(フル・ブラッディッド・イタリアンズ)」の中核 メンバー(リングネームはトレイシー・スマザースのまま) として活躍していた。(情報提供:TMKID、田村慎司、やまもとこーじ氏)

 

ドン・カーソン DON CARSON 1回
●裏切り魔 ●190センチ、128キロ
●1932年 米・テネシー州チャタヌガ出身 ●ネックブリーカー・ドロップ
●ガルフコースト・ヘビー、USジュニアヘビー(ジョージア版)、ルイジアナ・ヘビー、南部タッグ(ガルフコースト版)、南部タッグ(ミッドアメリカ版、アラバマ版、AWA版)、アヘリカス・ヘビー、アメリカス・タッグ
45 5(日) 第一次ゴールデン・S
本名はドナルド・エドワード・ガストン。1960年代後半に中西部やロス地区で活躍したラフ・ファイター。ガルフコーストではディック・マードック(ロン・カーソン)とのコンビ、テネシーではレッド・シャドー(ディック・ダン)とのコンビで売り出した。ロスではグレート小鹿とのコンビでアメリカス・タッグ選手権を獲得するが、一方的にチームを解消し、日本では「裏切り魔」と呼ばれ一時的に悪役人気を獲得しゴング誌の表紙にもなった。この時期に一度だけ来日し、キラー・カール・コックスとのコンビでインター・タッグにも挑戦している。昭和47年にも来日が決定していたがキャンセルしている。晩年はマネージャーとして活躍していたようだ。究極のB級レスラーの一人である。

 

ドン・カヌードル DON KERNODLE 1回
●ミシシッピの鳥人 ●180センチ、108キロ
●1950年5月2日 米・ノースカロライナ州バーリントン出身
●カナディアンTV、NWA世界タッグ(ミッドアトランティック版)、ミッドアトランティック・タッグ
53 8(全) 第2次サマー・アクション・S
1940年代から1950年代にかけて活躍したスマッシャー・カヌードルの息子で、大学時代はアマレスのオリンピック候補になったこともある。卒業後にビル・ワットにスカウトされてプロレス入り。日本では地味すぎてほとんど目立たず。帰国後は主にミッドアトランティック地区で活躍し、しばしばサージェント・スローターとのコンビでタッグのランキングに名を見かけたが、再来日することはなかった。サンフランシスコでは当時武者修行中の石川敬士とライバル関係にあった。

 

ドン・ケント DON KENT 3回
●猛犬 ●182センチ、118キロ
●1933年6月24日 米・ミシガン州バトルクリーク出身 1993年6月14日没
●TWWA世界タッグ、ウエスタンステーツ・タッグ(アリゾナ版)、WWA世界タッグ(インディアナ版)、NWA世界タッグ(デトロイト版、ミッドアメリカ版)、ミッドアメリカン・ヘビー、ミッドアメリカン・タッグ、WWC世界タッグ、WWCカリビアン・タッグ、グローバル・タッグ、WWC世界ジュニアヘビー
43 1 (T)ワールドタッグS、47 11(日) インター選手権・S、53 4(全) エキサイト・S
本名はレオ・ジョセフ・スミス・ジュニア。長い下積みのあと1967年にアル・コステロに認められロイ・ヘファーナンの抜けたファビュラス・カンガルーズのメンバーとなり、各地のタッグタイトルを獲得。チーム解散後は「ブルドッグ」を名乗り、デトロイト地区で悪党に転向。シングル・プレーヤーとしてかなり晩年まで活躍、首輪を付けた異様なスタイルで人気を呼んだ。その後はフロリダやプエルトリコでジョニー・ヘッファナン(ボブ・ダラセーラ)とのニュー・カンガルーズで活躍している。(右写真提供:HARU一番様)

 

ドン・サベージ DON SAVAGE (デューク・ホワード*)2回
●暴力教師 ●180センチ、105キロ
●1928年 米・カリフォルニア州サンディエゴ出身(テネシー州出身説もあり)
40 7(日) サマー・S*、46 7(日) サマー・ビッグ・S
サンディエゴ出身のレスラーで、身体障害児施設の資金集めのためにレスラーを始めたというタイガーマスク顔負けの正義漢。普段は高校教師をしており、夏場だけアルバイトでロサンゼルスのリングに上がった。しかし11年間勝ち星無しという記録を作り、「黒星サベージ」というあだ名を付けられた。蛇足だが昭和46年の「サマー・ビッグ・シリーズ」にはサベージのほかにアート・マハリック、ジョージ・スチールといった高校教師が3人揃った珍しいシリーズである。サイン

 

ドン・サラノ → ドン・セラノを見よ

 

ドン・ジャーディン DON JARDINE (ザ・ブッチャー *、ザ・スポイラー**、スーパー・デストロイヤー ***) 8回
略奪魔 193センチ、125キロ
1940年 カナダ・ニューブランズウィック州モンクトン出身 2006年12月16日没 ブレーンクロー
●カナディアン・タッグ(バンクーバー版)、アメリカン・ヘビー、テキサス・ヘビー、IWA世界ヘビー(オーストラリア版)、北米ヘビー(プエルトリコ版)、ジョージア・ヘビー、フロリダ・ヘビー、ナショナル・ヘビー(ジョージア版)
38 7(日) 夏の国際試合、40 9 (日)【特】ハリケーン・S *、44 7 (日) 第一次サマー・S *、、46 8 (日) サマー・ミステリー・S **、 48 1 (日) 新春チャンピオン・S **、51 8 (全)【特】ブラックパワー・S ***、52 4 (全) 第5回チャンピオン・力ー二バル ***、 55 2 (新) ビッグ・ファイト・S ***
ドン・ジャーディン(本名サニー・クーパー)ほど日本でその正体を替え、長年にわたり日本で活躍したレスラーもないだろう。まず力道山時代にジャーディンとして来日。昭和40年にはザ・ブッチャーとして馬場のインター選手権争奪戦の相手をして引分け、さらにザ・スポイラーで来日、昭和51年にはスーパー・デストロイヤーとしてデストロイヤーの覆面10番勝負の最後の相手を勤めた。トップロープを歩くなど器用な面も見せたが、最後の来日では完全に全盛期を過ぎておりファンを失望させた。

 

ドン・セラノ DON SERRANO 2
180センチ、105キロ
ベネズエラ出身(プエルトリコ説出身もあり) ベアハッグ
ベネズエラ・ヘビー、カナディアン・ジュニアヘビー、カリビアン・タッグ
47 11(新) ニュー・ダイヤモンド・S、51 2(新) ビッグ・ファイト・S
ベネズエラ出身のレスラーで日本へは新日本プロレスに2度来日している。小柄ながらドラム缶をベアハッグでへこませたという怪力を駆使したパワーファイトを自慢にしていた。「南米では彼の名を知らないものはいない」という宣伝文句を使っていたが、実力的には前座クラスのレスラーだった様だ。アメリカではフロリダあたりで前座、中堅として活躍していたようだ。初来日時は「ドン・サラノ」と表記されている。

 

ドン・ダフィ DON DUFFY 3回
小型銀髪鬼 178センチ、105キロ
1932年 米・ミシガン州デトロイト ネックブリーカー・ドロップ
●ガルフコースト・ヘビー、アラバマ・ヘビー
40 1(日)新春国際試合、44 8(日) 第二次サマー・S、45 11(日) インター・チャンピオン・S
本名はドン・キグレイ。主に西海岸で活躍したラフファイターで、その風貌から「小型ブラッシー」などと呼ばれた。ブラッシーの弟としてデビューし、ブラッシーとのコンビで売り出しスターになるが仲間割れ、オリンピック・オーデトリアムでデスマッチを行なった。覆面をかぶってベビー・デストロイヤーと名乗ったこともある。プロレスラーになる前はニューヨーク・ヤンキースの選手だったという変わり種。馬場の32文ロケット砲の最初の犠牲者でもある。(補足:Joe Hooker Sr.氏)

 

ドン・チュイ DON CHUY 1回 
●189センチ、116キロ
●1941年7月27日 米・ニュージャージー州ニューアーク出身(モンタナ州出身説もあり) ●タックル攻撃
41 5(日) ワールド選抜・S、41 6(日) ゴールデン・S(残留)

ジョー・カロロとの「ザ・ラムズ」として来日した若手レスラーで、アメリカンフットボールの出身。同時期にエース格で来日していたキラー・カール・コックスには若造扱いをされていたようだ。あくまでも本職はアメフトだったのか、帰国後はほとんどプロレスでの活躍を聞くことはなかった。

 

ドン・デヌーチ DON DENUCCI 7回
●イタリアの旋風児 ●192センチ、130キロ
●1936年 イタリア・ベニス出身 ●エアプレーン・スピン
●USヘビー(シスコ版)、WWWF世界タッグ、IWA世界ヘビー(オーストラリア版)、IWA世界タッグ(オーストラリア版)、NWF世界ヘビー、NWF世界タッグ、WWA世界タッグ(インディアナ版)、NWA世界タッグ(デトロイト版)
43 4(日) 第10回ワールドリーグ戦、46 11(日) 【特】ワールド・チャンピオン・S、47 10(全) 旗揚げジャイアント・S、 49 10(全) ジャイアント・S第2弾、54 1(全) 新春ジャイアント・S、 55 7(全) サマー・アクション・S、 56 10(全)【特】 ジャイアント・S
本名はドミニク・デヌーチ。ゴリラ・モンスーンと並ぶサンマルチノ一家の大番頭。デビュー当初はカナダでドン・ブラボーを名乗りオリジナルのディノ・ブラボー(ペペ・ディパスカリ)とのコンビで活躍した。その後、アメリカに進出した。そのファイトスタイルはイタリア系に多いパワーだけの木偶の坊の印象が強いが、スパーリングでは非常に強かったというから意外な実力者だったかも? オーストラリアでは1960年代半ば、新設されたIWA世界ヘビー級王座をキラー・コワルスキーとの間で争った。ニューヨーク地区では根強い人気があり、ディノ・ブラボーとのコンビでWWWFタッグ選手権も獲得している。引退後はコーチとしてミック・フォーリー、シェーン・ダグラスらを育て上げた。補足:Joe Hooker Sr.、カラー写真提供HARU一番様) サイン

 

ドン・バス DON BASS 1
●暴れ熊 ●183センチ、125キロ
●1946年 米・アーカンソー州ウエストメンフィス出身
●サウスウエスト・ヘビー、AWA南部ヘビー、AWA南部タッグ
55 9 (国) 第1次ダイナマイト・S、55 9 (国) 第2次ダイナマイト・S(残留)
本名はドナルド・ウェルチ。アウトロー・ロン・バスのパートナー兼マネージャーとして来日。ロン・バスの弟としていたが、当然ビジネス・ブラザーで、風貌も全く似ていなかった。主に中西部地区を拠点に活躍していたレスラーで、同地区に多い地味なラフ&パワーを身上としていた。ロン・バスが木村に挑戦したIWA世界選手権では事あるごとにちょっかいを出して、ファンをやきもきさせた。

 

ドン・マノキャン DON MANOUKIAN 3回
●弾丸野郎 ●175センチ、110キロ
●1934年6月9日 米・カリフォルニア州マーセット出身 ●タックル攻撃
36 8(日)プロレス秋の国際試合、39 1(日)【特】新春国際試合、39 2春の国際大会(残留)、40 4(日) 第7回ワールドリーグ戦、40 5(日) ゴールデン・S(残留)
ロス地区で活躍していたレスラーで、馬場のアメリカ修行時代の好敵手。馬場の著書によれば彼にはトンパチ的なところがあったが、マードックのそれとは違い、マノキャンは頭のいいトンパチだったという。名門スタンフォード大学卒業で、学生時代はレスリングのほかにフットボール、重量挙げなどで活躍した。アメフトではオークランド・レイダースに所属していた。プロモーターにも好かれ、引退後は不動産会社を経営している。この男もブルーザーと呼ばれた。日本語を覚えるのも早く、日本語が喋れなかった時でも相手の口の動きを見てほとんどの意味を理解したという特異な才能を持っていた。

 

ドン・ミラノ DON MILANO 1回
●188センチ、120キロ
●1957年 イタリア・ミラノ出身
54 3(全) 第7回チャンピオン・力ーニバル
アドリアン・アドニスに風貌は似ているが、全くの別人。来日前のプロフィールによればオーストラリアで活躍していた大型のラフファイターであるが、カーニバルの公式戦では白星配給係となった。同時に来日したマリオ・ミラノの弟子だった様である。後に「マット・ビアンカ」と改名。プロモーター兼レスラーとしてオーストラリア最大手のIWAを経営。配下の選手の中にはパンクラスに来日経験があるものもいる。(補足:Joe Hooker Sr.

 

ドン・ムラコ DON MURACO (ドン・モロッコ *) 7回
●虎鮫 ●183センチ、115キロ
●1949年9月10日 米・ハワイ州ホノルル出身 ●パイルドライバー
●アメリカス・ヘビー、NWA世界タッグ(シスコ版)、英連邦ヘビー(ニュージーランド版)、USヘビー(シスコ版)、ハワイ・ヘビー、ハワイ・タッグ、フロリダ・ヘビー、インターコンチネンタル・ヘビー、北米ヘビー(カルガリー版)、ECWヘビー
4611(国) ビック・ウインター・S*、52 7(全) サマーアクション・S、 5410(全) ジャイアント・S、56 3(新) WWFビッグ・ファイト・S、57 3(新) 第5回MSG・シリーズ、59 4(新) ビッグ・ファイト・S 第2弾、64 1(全) 89 新春ジャイアント・S

本名も同じ。ハワイ出身のレスラーで、デビュー当時はAWA地区で正統派として活躍したが、同じハワイのキング・イヤウケヤの影響を受けて悪党に転向。フロリダを経てWWF地区でマグニフィセント・ムラコと名乗り、インターコンチネンタル王者となった。昭和56年のビッグ・ファイト・シリーズでは坂口の北米選手権に挑戦し引き分けた実績を持つ。アメリカではトップクラスだったが、日本では真価を今ひとつ発揮できなかった。後にWARにマスクマンの赤鬼として来日した。プロフィールでは身長183センチとなっているが、実際は190cm以上あったのではないか。(補足:田村慎司

 

ドン・モロッコ DON MOROCCO
●虎鮫 ●183センチ、115キロ
●1949年9月10日 米・ハワイ州ホノルル出身 ●パイルドライバー
●メイコン・タッグ、アメリカス・ヘビー、NWA世界タッグ(シスコ版)、英連邦ヘビー(ニュージーランド版)、USヘビー(シスコ版)、ハワイ・ヘビー、ハワイ・タッグ、フロリダ・ヘビー、インターコンチネンタル・ヘビー、北米ヘビー(カルガリー版)、ECWヘビー
4611(国) ビック・ウインター・S
ドン・ムラコの初来日当時のリングネーム。バンクーバーではドン・モローと名乗っていたようだが、その誤植かも? このことはAWA地区の有望新人として、各地区を武者修行していた。

ドン・ムラコの項もみよ。

 

ドン・ルーイン DONN LEWIN 1回
●183センチ、105キロ
●1926年4月1日 米・ニューヨーク州バッファロー出身 ●アトミック・ドロップ
●アメリカン・タッグ(メリーランド版)、インターナショナル・タッグ(ジョージア版)
41 3(日) 第8回ワールドリーグ戦
アメリカ海軍出身アナコンダ殺法で有名なマーク・ルーインとイラストレーターとなったテッド・ルーインの実兄。1960年代始めにマークとルーイン兄弟としてニューヨーク地区のアメリカン・タッグ選手権や、ジョージア版のインターナショナル・タッグ選手権を獲得している。来日時もファンを唸らせる渋いファイトを見せたようだ。かなり気が強く、その気迫で馬場をおびえさせたという。来日時はアトミック・ドロップをフィニッシュに多用していた。ハワイではマスクをかぶってエクスキューショナーを名乗っている。

 

ドン・レオ・ジョナサン DON LEO JONATHAN 8回
●殺人台風、モルモンの暗殺者 ●196センチ、140キロ
●1932年4月29日 米・ユタ州ソルトレイクシティ ●ハイジャック・バックブリーカー、サンセット・フリップ
●オハイオ・タッグ、インターナショナル・ヘビー(モントリオール版)、WWAインターナショナルTV(ロス版)、テキサス・ヘビー、AWA世界ヘビー(オマハ版、オハイオ版)、カナディアン・ヘビー(カルガリー版)、インターナショナル・タッグ(ウィニペグ版)、パシフィックコースト・ヘビー(バンクーバー版)、EWU世界スーパーヘビー(南アフリカ)、CWA世界ヘビー(欧州版)
33 9(日) 秋の国際戦、42 5(日)【特】ゴールデン・S、45 4(日) 第12回ワールドリーグ戦、47 3(国) 第4回IWAワールド・S、47 5(国)第4回IWAワールド選抜S(残留)、48 1(全) 新春ジャイアント・S、4910(全) ジャイアント・S第2弾、5012(全) オープン選手権大会、53 3(全) 第6回チャンピオン・力ーニバル
本名はドン・ヒートン。往年の悪役レスラー、ブラザー・ジョナサンの息子。本気で世界王者をねらっていたら、史上最強のレスラーになっていただろうといわれるレスラーは何人かいるが、このジョナサンもその典型的なレスラーであった。体格、パワー、テクニック共に申し分のないものを持っていたが、世界王者への執念はそれ程なかったようだ。これは副業としていた潜水業が莫大な利益を彼にもたらせたためであろう。常に全力でファイトすることはあまりなかった様である。サイン

 

トンガ・キッド TONGA KID 1回
●南国の若酋長 ●182センチ、106キロ
●1966年10月11日 米・カリフォルニア州サンフランシスコ出身
●カナディアンTV(モントリオール版)、カリビアン・タッグ、WCCWタッグ、WWF世界タッグ、インターコンチネンタル・タッグ、WWEタッグ
61 11(新) 86 ジャパンカップ争奪タッグ・リーグ戦
昭和61年11月に初来日したこのトンガ・キッド(本名=ソノラ・ファトゥ)はファトゥ・サモアン(トンガ・キッド・ファトゥ)で、アファとシカのザ・サモアンズの甥に当たる。兄のサベージ・サモアンの方がこの当時、トンガ・キッドをWWFで名乗り、キング・トンガ(ハク、現在のミング)と「ジ・アイランダース」を組んで活躍していた。日米で兄弟が同じ名前を名乗っていたため、区別するために、サベージの方をトンガ・キッド・タマと表記することもある。以後、2人はサムウ(ワイルド・サモアン)も加えたトリオで「サモアン・スワット・チーム」を組み、NWA圏で売り出す。1990年にはSWSへ兄弟で来日するが、直前にサムウが新日本プロレスに来日、グレート・コキーナ(後のヨコヅナ)とサモアン・スワット・チームを名乗ってしまったため、彼らは「グレート・サモアンズ」と称するようになる。その後ファトゥはWWFでサムウやシオーネ(コンガ・ザ・バーバリアン)との「ヘッド・シュリンカーズ」で人気を得るヘッドシュリンカーズ解散後はシングルに転向、中近東キャラでザ・スルタンを名乗った。離脱後にアルマゲドン1号としてFMWの常連となる。エディ・ファトウに改名、チーム名もニュー・ヘッドシュリンカーズ→サモアンズと改めた。WWEではリキシを名乗り活躍している(解説:黒い一羽鷹氏)