来日全外国人レスラー名鑑 シ(4)
ジョー・アデール JOE
ADELL 1回 ●178センチ、100キロ ●1942年 スペイン・ヴァレンシア出身 ●セコ・バックブリーカー |
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47 6(国) ビッグ・サマー・S | |
スペイン出身のレスラーで、ヨーロッパ以外では試合をした経験がなかった為、日本では全くの無名選手だった。スペインの帝王ホセ・アローヨの秘蔵っ子といわれた。中あんこ型のレスラーだったが、セコ・バックブリーカーのような技も器用にこなした。同じスペインのセレソ・ソテーロとのコンビで小気味のいい試合を見せた。 |
ジョー・カロロ JOE
CARORO 1回 ●188センチ、116キロ ●1942年 米・モンタナ州出身 ●タックル ●アジア・タッグ |
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41 5(日) ワールド選抜・S、41 6 ゴールデン・S(残留) | |
アメフトのロサンゼルス・ラムズに所属していたレスラーでドン・チュイとのザ・ラムズとして来日するが、チュイとのコンビではタイトルに挑戦させてもらえなかった。その代わりに豊登の除名で空位となっていたアジア・タッグ王座決定戦にキラー・カール・コックスとのコンビで出場し、馬場、吉村組を破り一度は王者についている。しかし5日後にヒロ・マツダ、吉村組にタイトルを奪われた。来日当時はキャリアの浅いヤング・ボーイ(キラー・カール・コックス談)だった様だ。 |
ジョー・キーガン JOE KEEGAN 1回 ●1931年1月22日、英・ロッチデール出身 |
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43 2(国) 日欧決戦S | |
グレート東郷と喧嘩別れした国際プロの初の英国路線に乗って来日したイギリスのレスラー。ミドル級のレスラーであったこと以外は詳細不明。情報募集中。 |
ジョー・コルネリウス JOE CORNELIUS 1回 ●恐怖のゴールドマン ●183センチ、113キロ ●1932年 イギリス出身 ●パイルドライバー |
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44 1(国) ビッグ・ウィンター・S | |
「恐怖のゴールドマン」のニックネームで恐れられたラフ・ファイター。1952年にバート・アセラッティとフランク・セクストンの欧州選手権を見てプロレス入りを決意したと言う。非常にハンサムな風貌を持っており映画俳優としても活躍した。ヨーロッパでは珍しいショウマン派で、日本でもゴージャス・ジョージまがいのパフォーマンスを披露したが、これはアメリカ遠征中にコンビを組んだジョージからパクったもの。来日時はグレート草津の保持していた英国西部・南部ヘビー級選手権に挑戦したが、ストレート負けを喫している。 |
ジョー・スカルパ
JOE
SCARPA ●荒馬 ●185センチ、125キロ ●1929年 米・ニュージャージー州ニューアーク出身 ●スリーパー・ホールド ●フロリダ・タッグ |
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41 1(日)新春・S、41 2(日)インター決戦S(残留)、43 11(日) NWAチャンピオン・S | |
フットボーラーからプロレスに転向したイタリア系のラフ・ファイターでデビュー当時はレオ・ノメリーニの再来と呼ばれ大いに期待されていたが、足を負傷してからはタックル殺法を使うことが出来なくなってしまいラフファイターに転向した。後にインディアン・スタイルに変貌しチーフ・ジェイ・ストロンボーと名乗りWWWFで活躍した。 チーフ・ジェイ・ストロンボーの項も見よ。 |
ジョー・スカルペロ
JOE
SCARPELO
1回
●プロレス職人 ●172センチ、110キロ ●1923年1月16日 米・ネブラスカ州オマハ出身 1999年11月9日没 |
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46 10(国) ビッグ・チャレンジ・S | |
本名はジョセフ・スカルペロ。中西部やAWAで活躍したベテラン・レスラーでバーン・ガニアに風貌が似ているが、ガニア本人とは大の親友で、ガニア、ディック・ハットンとともにロンドン・オリンピックに出場、スカルペロだけが上位入賞を果たした。来日時は48歳というベテランだったが、試合振りは若々しくきびきびしたファイトを見せていた。ガニアが「レスリングの虫」というほどに練習好きな男だった。猪木のアメリカ武者修行時代にカンサスで何度となく対戦している。 |
ジョー・ソト
JOE
SOTO (インカ・ペルアーノ*、ブルー・デビル**、ロッキー・タマヨ
*)4回
●187センチ、110キロ ●1941年 ペルー出身 ●NWA世界タッグ(テネシー版) |
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47 3(新)旗揚げオープニング・S *、49 4(全) 第2回チャンピオン・カー二バル、49 9(全)ジャイアント・S**、52 10 (全) ジャイアント・S* | |
本名はビクター・アルバート・タマヨ・ソト。新日本プロレスの「旗揚げオープニングシリーズ」に参加したレスラーで、その時はインカ・ペルアーノというリングネームは日本向けの変名。新日本プロレスへ参加した事でアメリカマットでシャットアウトされる危険性があった為だ。このオープニング・シリーズに参加したレスラーはすべて変名を使っている。ペルアーノはアメリカではジョー・ソトと名乗っており、ソトの名で全日本プロレスの「第2回チャンピオンカーニバル」に参加、続いて覆面のブルー・デビル、続いては素顔でロッキー・タマヨ(プエルトリコ、WWFでのリングネーム)と来日するたびにリングネームを変えていた。 |
ジョー・ソルコフ
JOE
SORKOV ●南部のシューター ●186センチ、104キロ ●1955年6月4日 フロリダ州タンパ出身 ●世界ジュニアヘビー(全日本版) |
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60 5(旧U) 格闘技オリンピア | |
グレート・マレンコの長男であるジョー・マレンコの初来日時のリングネーム。パンフレットには「日本人レスラーと互角に闘えるレスラーとして期待できそう」と高い評価を得たが、それにたがわぬ実力者振りを見せた。 詳細はジョー・マレンコの項参照。 |
ジョー・ターコ
JOE
TURCO (
マリオ・レオーネ*)2回 ●イタリアの殺人鬼 ●183センチ、110キロ ●シシリー島出身 |
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46 4(日) 第13回ワールドリーグ戦 、52 9 (国) スーパー・ファイト・S* | |
WWWF地区で活躍していたレスラーで、MSGにも何度も登場しているトルコ人ギミックのレスラー。途中帰国したジョー・ルダックの代打として「第13回ワールド大リーグ戦」に途中参加したが、連戦連敗でMSGの常連の実力を期待したファンの期待を見事に裏切った。ダメ外人の典型的なパターン。2度目の来日ではイタリア人ギミックに変身していた。 |
ジョー・ディートン
JOE DEATON
3回 ●中南部の若鷲 ●185センチ、110キロ ●1957年 米・ノースカロライナ州シャーロッテ ●セントラルステーツ・タッグ、SCWヘビー、ジョージア・タッグ、アジア・タッグ |
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62 8(全) 87 サマー・アクション・S2、63 2(全) 88 エキサイト・S、63 10(全) 88 ジャイアント・S | |
本名はジョセフ・ロフトン・ジョーンズ。アメリカでは兄のデビッド(=ホス)・ディートンとのジ・アウトローズでインディー団体SCWで活躍していた。全日本プロレスの常連になるにつれ、「マイクの鬼」に変身していたラッシャー木村とのマイク合戦で中堅戦線の人気者となる。一時期は頻繁に来日していたが、ある時期からぱったりと来日しなくなった。海外サイトではJOEL DEATONと表記されている。 |
ジョー・ハミルトン
JOE HAMILTON
( ジ・アサシンズB )4回 ●185センチ、113キロ ●1938年3月 米・ミズーリ州セントジョセフ出身 ●エルボードロップ ●WWA世界タッグ(ロス版)、USタッグ(ジョージア版、フロリダ版)、IWA世界タッグ(オーストラリア版) |
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40 9 (日) ハリケーン・S *、40 11(日) インター選手権・S(残留)*、45 6 (日) 第一次ゴールデン・S *、 47 1 (日) 新春チャンピオン・S *、47 9(日) 第3回NWAタッグリーグ戦 | |
本名はジョセフ・ハミルトン。初代アサシンズとして兄のラリー(ロッキー)・ハミルトン(=ミズリー・モーラー)と活躍して名を挙げるが、日本にアサシンズとして来日した時は兄とはコンビを解消していた(来日時の1号はトーマス・リネストウ)ため、兄弟揃っての来日は昭和47年の「第3回NWAタッグ・リーグ戦」が初めてであった。すでにロートルということで下馬評では評価が高くなかったが、本命のホッジ、ロイヤル組を押さえて決勝に進出してしまい、盛り上がらなかったリーグ戦に輪をかけてしまった。このシリーズではなぜか重用され、大木の保持していたアジア・ヘビー級選手権に連続挑戦を果たしている。 公式サイト http://georgiawrestlinghistory.com/host/jodyhamilton/home.html |
ジョー・ベンチュラ
JOE VENTURA ●178センチ、97キロ ●1953年 カナダ・ケベック州モントリオール出身 ●ダイビング・ボディアタック ●GSW認定ジュニアヘビー |
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53 1 (国) 新春パイオニア・S | |
昭和51年の「ビッグ・サマー・シリーズ」に来日したホセ・ベンチュラの変名。しかし一説には同じく昭和51年の「ダイナマイト・シリーズ」にインフェルノとして来日したホセ・ベンチュラの弟のティト・サンザだとする説もあるが、当時の雑誌を見るかぎりではホセ・ベンチュラと同一人物と思われる。ちなみにティト・サンザは「新春パイオニア・シリーズ」の次の「ビッグ・チャレンジ・シリーズ」に来日が決まっていたが、キャンセルしている。この辺の推理は「昭和プロレスファイル」に詳しく掲載しているのでご覧あれ。 ホセ・ベンチュラの項も見よ。 |
ジョー・マレンコ
JOE MALENKO
(ジョー・ソルコフ*) 3回 ●南部のシューター ●186センチ、104キロ ●1955年6月4日 フロリダ州タンパ出身 ●世界ジュニアヘビー(全日本版) |
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60 5 (旧U) 格闘技オリンピア*、 63 2(全) 88 エキサイト・S、64 1(全) 89 新春ジャイアント・S | |
本名はジョー・サイモン。悪名高いクレイジー・ファイターのグレート・マレンコの息子で、ディーン・マレンコの兄。本業は薬剤師でレスラーはアルバイトに近かった。1978年にメキシコでテムジン・モンゴル(キラー・カーン)戦でデビュー。なんとメキシコではカール・ゴッチ・ジュニアを名乗っていた。初来日はミスター空中のブッキングで本名のソルコフで来日。マレンコを名乗った全日本プロレスのマットでは渕から世界ジュニア王座を獲得している。弟のディーンとのジュニア・ヘビー級選手権は話題を呼んだ。(追加情報:TMKID氏、田村慎司氏) |
ジョー・モルガン JOE MORGAN 1回 | |
31 9 (亜)プロレス国際試合 | |
素性は不明。東亜プロレス1956年9月26日大阪府立体育館で日本プロレスのユセフ・トルコと組んで大同山、安東組に0−2で敗れた。(解説:JOE HOOKER SR氏) |
ジョー・ルダック
JOE LEDUC (
カナディアン・ランバージャック *)5回 ●カナダの荒熊 ●188センチ、120キロ ●1945年8月31日 カナダ・ケベック州ラツーク出身(カルガリー説もあり) ●ベアハッグ ●インターナショナル・ヘビー、インターナショナル・タッグ(モントリオール版)、サザン・ヘビー(テキサス)、フロリダ・ヘビー、英連邦ヘビー(ニュージーランド版) |
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46 3(日) 第13回ワールドリーグ戦、47 3 (日) 第14回ワールドリーグ戦*、54 9(国) ダイナマイト・S、54 10 【特】(全)ジャイアントS(残留)、55 4(国) ビッグ・チャレンジ・S、59 4(全)グランドチャンピオン・カーニバルT | |
本名はマイケル・ピジョン。「カナダの荒熊」のニックネーム通りカナダ出身のレスラーで、長く兄ポールとのルダック兄弟として活躍した。コンビ解消後アメリカに渡りシングル・プレーヤーとして大いに売り出す。初来日の第13回Wリーグでは負傷帰国した為、翌年の第14回では「ルダックのリングネームは縁起が悪い」とばかりにカナディアン・ランバージャックと改名している。その後フロリダで正統派として活躍、昭和54年には7年ぶりの来日を果たす。同じタイプのラッシャー木村とは手があったようで名勝負を演じた。「ダイナマイト・シリーズ」終了後、全日本プロレスの「ジャイアント・シリーズ」の開幕戦に出場している。ジョー・レダックとも表記されていたが、ここではルダックとしておく。 |
ジョージ・ウエールズ GEORGE WELLS 1回
●黒いつむじ風 ●188センチ、118キロ ●1949年 米・カリフォルニア州サンフランシスコ出身 ●フライング・タックル ●インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、USヘビー(サンフランシスコ版)、ミッドアトランティック・タッグ、アラバマ・ヘビー |
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62 2(新) スプリング・フレアーアップ 93 | |
1980年にサンフランシスコ地区のUS選手権を獲得して注目を集めた黒人レスラーで、当時の別冊ゴング昭和50年9月号の「まだ見ぬフレッシュな10人の強豪」という特集にリッキー・スティムボート、ポール・オーンドーフなどとともに紹介されていた。しかし来日時はWWF地区で前座、中堅で、いわゆるテレビマッチの負け役クラスだったようだ。日本ではそれなりの活躍をし、日本勢の練習を熱心に見入るなど、まじめな一面もあったと言う。しかしその真面目さが試合にでなかったのが彼の欠点だったようだ。 |
ジョージ・グラント GEORGE GRANT 1回
●175センチ、104キロ |
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47 4(新) オープニング・S第2弾 | |
ハイスクール時代はフットボールで体を鍛え、ノースカロライナ地区でプロレス入り。ゴージャス・ジョージ・グラントの名で活躍した。得意技はフライング・タックルだったが、来日時は完全に全盛を過ぎており、タックルの威力は全くなかった。 |
ジョージ・ゴーディエンコ
GEORGE GORDIENKO 2回
●岩石男 ●182センチ、123キロ ●1928年1月7日 カナダ・マニトバ州ウィニペッグ出身 2002年5月13日没 ●ブロックバスター ●カナダ・ヘビー(カルガリー版)、パシフィックコースト・ヘビー(バンクーバー版)、英連邦ヘビー(ニュージーランド版) |
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43 9(国) ダイナマイト・S、43 11 (国) 第1回IWAワールド・S(残留)、47 3(国) 第4回IWAワールド・S、47 5(国) ワールド選抜S(残留) | |
ラッシャー木村をして「最強の男」と言わしめたカナダの岩石男。アメリカでは活躍せず、ヨーロッパやカナダを主戦場としていたため日本では知名度が低かった。最近、流智美氏が著書で彼の全盛期の強さを強調しているが、日本プロレスに来日し馬場、猪木と熱戦を展開していたなら、最強外人の一人として語り継がれていたであろう。必殺技はブロックバスター。晩年はフラッシュ・ゴードンのリングネームで活躍。引退後は画家として高い評価を受けた。2002年5月没。 |
ジョージ・スコーラン
GEORGE SKAALIND
1回 ●185センチ、126キロ ●1961年 米・ニューヨーク州ホワイトプレーン出身 |
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63 3(全) 88 チャンピオン・カーニバル | |
「ジャイアント台風」でおなじみのアーノルド・スコーラン(アーノルド・スコーランの項参照)の息子。どうしようもないしょっぱいレスラーだった。主戦場はカナダのカルガリー。(情報提供:JOE HOOKER SR氏) |
ジョージ・スチール GEORGE STEELE 3回 ●鋼鉄ゴリラ ●188センチ、132キロ ●1937年4月16日 米・ミシガン州バトルクリーク出身 ●凶器攻撃 ●NWA世界タッグ(デトロイト版) |
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46 7(日) サマー・ビッグ・S、49 7(全) サマー・アクション・S第1弾、54 6(新) サマー・ファイト・S | |
本名はウイリアム・ジェームス・マイヤース。全身毛むくじゃらの獣人キャラで売り出した怪奇派だが、リングを離れると高校の数学教諭という本業を持つ。地元では覆面を被ってザ・スチューデントを名乗ることもあった。試合振りは本当に数学教師なのか疑いたくなるほど単調な試合運びで、コーナーのターンバックルを噛み千切って中の綿で相手の目を潰すというのが得意のパターン。全盛期にはMSGでサンマルチノのトップコンテンダーとして活躍。晩年はWWFでベビーフェイスに転向し、ランディ・サベージと女性マネージャー エリザベスを巡っての抗争で人気を呼び最後の花を咲かせた。オフィシャル・サイトはこちら。サイン |
ジョージ・バーンズ
GEORGE BARNES
1回 ●豪州のプリンス ●183センチ、110キロ ●オーストラリア・シドニー出身 ●オーストラアジアン・ヘビー |
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48 6(全) サマー・アクション・S | |
本名はジョージ・クラウグシー。ニックネームからも解るようにオーストラリアで活躍した選手で、当時オーストラリアでプロモーターをしていたジム・バーネットの推薦による来日。この時期の全日本プロレスはオセアニア地区の選手を多く招聘しているが、これはPWFという団体に実を持たせるための戦略であろう。テネシーに遠征した際にはビル・ダンディとコンビを結成している。 |
ジョージ・ハリス
c1回 ●ツートン ●185センチ、138キロ ●1927年6月12日 米・テネシー州ダイアースバーグ出身 2002年11月29日没 |
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42 4(日) 第9回ワールドリーグ戦 | |
「第9回ワールド・リーグ戦」が唯一の来日だが、巨体を生かしきれず白星配給係に甘んじた。アメリカでは、ツートン・ジョージ・ハリスとして活躍。帰国後はブリンプ・ハリスと名乗り、テキサス地区で活躍し悪役人気を集め、ジョニー・バレンタインと金網デスマッチで対戦するまでのレスラーに出世している。 |
ジョージ・ボラス GEORGE BORUS ●183センチ、135キロ ●1923年9月19日 米・オハイオ州コロンバス 1977年1月没 ●ボディプレス ●ハワイ・ヘビー、ブラスナックル・ヘビー(テキサス版) |
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31 7(日)プロレス国際大試合 | |
ハワイで活躍したレスラーで、縞模様の覆面とタイツに身を包んだゼブラ・キッドとしての方が有名。決まった住居を持たず、女優並みの美人の夫人と遠征先を旅して廻るレスリング・ジプシーであった。「あんな金星(美人)を家に置いておくのが心配なんだろう」とはやっかみ半分の力道山の弁。 ゼブラ・キッドの項も見よ。 |
ジョージ・マクレリー
GERORGE McCREARY (ジョージ・マッコーリー*)
2回 ●フロリダの蛇男 ●180センチ、110キロ ●1943年 米・イリノイ州スプリングフィールド ●セントラルアメリカ・ヘビー |
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48 3(全) 第1回チャンピオン・カーニバル*、49 10(新) 闘魂S第2弾 | |
高校、南イリノイ州立大学を通じてレスリング部で活躍、1968年のメキシコオリンピックアメリカ代表チームの一員に選ばれている。大学時代はボブ・ループの次のレスリング部主将となり、卒業後は陸軍の中南部チャンピオンになっている。プロレス転向後はNWA地区でエディ・グラハム、ドリー・ファンク・シニアなどに基礎を叩き込まれ、セントラル・アメリカ・ヘビー級チャンピオンを獲得した。(みき書房「新日本プロレスリングパンフレット縮刷版」第1巻より抜粋。資料提供:佐々木英俊氏) |
ジョージ・マッコーリー GERORGE McCALLY ●フロリダの蛇男 ●180センチ、110キロ ●1943年 米・イリノイ州スプリングフィールド出身 ●セントラルアメリカ・ヘビー |
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48 3(全) 第1回チャンピオン・カーニバル | |
「第1回チャンピオン・カーニバル」のパンフではレフェリーとして紹介されているが、試合にも出場した。アマリロのテレビマッチでアントン・ヘーシンクのかませ犬をさせられた気の毒なレスラー。新日本プロレスにはジョージ・マクレリーで来日。 ジョージ・マクレリーの項も見よ。 |
ジョージ・マックウォーリー = ジョージ・マッコーリー、ジョージ・マクレリーを見よ
ジョージ・ワインゲロフ GEORGE WEINGEROFF 2回 ●若蛇 ●185センチ、114キロ ●1954年 米・テネシー州ナッシュビル出身 ●USタッグ(ICW版) |
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62 5(全) 87 スーパー・パワー・S、62 10(全) 87 ジャイアント・S | |
元モントリオールアマレス代表”候補”.初来日時、全日本プロレスは谷津のライバルとして期待していたようだ。2度目の来日時は、タイガー・ジェット・シンのパートナーがメインで、入場コスチュームはシークスタイル、試合時は迷彩軍服。アラブ人のギミックを使っていた。どちらの来日も期待外れで、アマレスの技術の片輪も見せられない、殴る蹴るだけのラフファイター。ファイト・スタイルはジェリー・ローラーの影響なのかも知れない。1960〜1970年代前半にテネシーで活躍したソウル・ワインゲロフの実子である。(情報提供 : TMKID氏) |