来日全外国人レスラー名鑑 シ(2)
シカ・アノアイ → サモアンズ1号、2号をみよ
ジジ・ザ・グリーク GIGI THE GREEK 1回
●人間空母二世 ●180センチ、180キロ ●1948年 ギリシャ出身 ●フライングソーセージ |
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51 5(国) ビッグ・チャレンジ・S | |
ギリシャ出身の巨漢レスラーで、180センチ、180キロというドラエもんのような巨漢。ヘイスタック・カルホーンの亜流ギミックだが、このグリークはアマレスの経験もありレスリングも出来、スピードもかなりのものだった。カナダにかなぜかこの手のお化けレスラーが多かったようだ。 |
シスコ・グリマルド
CISCO GRIMALDO 1回
●火の男 ●183センチ、102キロ ●1943年 メキシコ・ソノラ州ヘルモシロ出身 ●メキシカンストレッチ |
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48 7(新) サマー・ファイト・S | |
本名はロベルト・グリマルド。メキシコの大ボスサルバトーレ・ルッタロス・ジュニアにスカウトされてデビューしメキシコで活躍。エル・スコルピオ、デモニオ・ブランコを名乗ったこともある。その後、アメリカに進出。主にジョージア、フロリダ等の南部地区で活躍していたメキシコ系のベテラン。メキシカンにしては長身で地味なレスリングを見せた。日本へはテレビ中継がついて間もない新日本プロレスに一度だけやってきて、藤波辰巳の記念すべきTVデビューの相手を勤めている。メキシコではカルニセロ・グリマルドのリングネームで活躍した。 |
ジノ・バグノン GINO VAGNON 1回 | |
26 10国連軍 朝鮮国連軍慰問プロレス大会 | |
ブランズ一行に遅れて来日した。「電光男」とニックネームがつけられ、小型だがスピーディな選手だった。練習中に力道山や遠藤幸吉にドロップキックを伝授した。ボビー・ブランズに次ぐ実力者だった。カナダのアルバータ州では、マスクをかぶってミスターXを名乗り、1952年にカナダ・ヘビー級王者になっている。(参考資料「昭和45年別冊ゴング6月号来日外人レスラー名鑑」:情報提供 管様) |
ジノ・ブリット
GINO
BURITO 1回
●暴れ獅子 ●185センチ、107キロ ●1941年5月18日 カナダ・ケベック州モントリオール出身 ●足4の字固め ●北米ヘビー(マリタイム版)、インターナショナル・タッグ(モントリオール版)、WWWF世界タッグ |
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43 7(日) 第一次サマー・S | |
本名はルイス・ジノ・アセコラ。イタリア系カナダ人で、日本では特別参加したブルーノ・サンマルチノに気に入られ、帰国後も可愛がられた。カナダではかなりのビッグ・ネームで、NWA世界選手権にも何度となく挑戦している。晩年にWWFが新設したインターナショナル選手権を藤波辰巳と争い日本のファンを驚かせたが、完全に全盛を過ぎており、藤波の相手ではなかった。1970年代にはルイス・セルダンの名前でアントニオ・プグリシーとのコンビでWWWFタッグ選手権を保持したこともある。 |
ジノ・ヘルナンデス
GINO HERNANDEZ
2回 ●閃光狼 ●185センチ、108キロ ●1957年8月14日 米・テキサス州ヒューストン 1986年2月2日 ●ドロップキック ●USヘビー(デトロイト版)、テキサス・タッグ、テキサス・ヘビー、アメリカン・ヘビー、NWAインタージュニアヘビー |
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53 4(全) エキサイト・S、56 8(全) スーパー・アイドル・S | ||
本名はチャールス・ウォルフ。日本で客死したルイス・ヘルナンデスの実子といわれていたが、実際はルイスの再婚相手の連れ子で血のつながりはない。19歳で継父の遺志を継ぎプロレス入り、すぐにデトロイト地区でUSチャンプとなり、天才出現と騒がれた。昭和53年に全日本プロレスに初来日。昭和56年の再来日ではマスカラス兄弟を相手にイキのいいところを見せた。帰国後はサンアントニオ地区でタリー・ブランチャードとのタッグで活躍、チャボ・ゲレロからNWAインター・ジュニア王者も獲得、昭和61年にはクリス・アダムスとのダイナミック・デュオで新日本プロレスへの参加が決定していたが、来日直前に28歳の若さで謎の急死。他殺説、麻薬中毒説、内臓疾患説が上がったが真相はいまだ不明。(右写真撮影:HARU一番氏) サイン |
ジノ・マレラ
GINO MARERA ●195センチ、158キロ ●1937年6月4日 米・バーミンガム出身 1999年10月6日没 ●ジャイアント・スウィング ●WWA世界タッグ(ロス版)、WWWF・USタッグ、IWA世界ヘビー(オーストラリア版)、北米ヘビー(プエルトリコ版) |
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38 4(日) 第5回ワールドリーグ戦、38 5(日)世界選手権シリーズ(残留) | |
ゴリラ・モンスーンの前身で、ワールドリーグ戦では若手とはいいながら好成績を収めた。日本帰りは出世するのジンクス通り、帰国後WWA(ロサンゼルス)で大スターとなる。 詳細はゴリラ・モンスーンの項参照。 |
シバ・アフィ
SIVA AFI 1回
●南国の平原児 ●183センチ、105キロ ●1953年4月28日 西サモア諸島出身 ●ダイビング・ボディプレス ●ニュージーランド・ヘビー、ハワイ・ヘビー、ポリネシアン・ヘビー |
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60 8(新) チャレンジ・スピリット85 | |
本名はパパリイレテ・マックス・アタマ。タオガガ。1974年にニュージーランドでデビュー。ニュージーランドのタイトルを総ナメにした後にハワイに転戦し、崩壊寸前のハワイ・マットでメインを張った。1985年に新日本プロレス勢が参加したホノルルでのビッグマッチでも、メーンでリック・フレアーに挑戦している。その後スヌーカ離脱後のWWFで、後釜として「スーパーフライ」を名乗ったようだが、すぐに姿を消した。(情報提供:黒い一羽鷹、JOEHOOKER SRの両氏) |
ジプシー・ジョー GYPSY JOE (パンチョ・ロザリオ*) 2回
●吸血鷹 ●180センチ、108キロ ●1936年 メキシコ出身 ●ニューイングランド・ヘビー |
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45 7 (国) ビッグ・サマー・S*、47 6(国) ビッグ・サマー・S | |
本名はイサック・ロザリオ。パンチョ・バルデスのリングネームでも活躍したレスラーで、メキシコではピューマ狩りの名人だったと自称している。骨折する度に鯨の髭で補強し、2センチの板を叩き割るという肘が武器。二代目のジプシー・ジョーと同じく反則攻撃を得意としたが、二代目ほど徹底したものではなかったらしい。胸に大きな鷲の入れ墨があり、怪奇ムードを盛り上げていた。ボストンではブルーノ・サン・ナルチノなるリングネームを名乗っている。 |
ジプシー・ジョー
GYPSY JOE 20回
●放浪の殺し屋 ●176センチ、110キロ ●1933年12月2日 プエルトリコ出身 ●ダイビング・ニードロップ ●グランプリ・ヘビー(モントリオール版)、セントラルステーツ・ヘビー、インターナショナル・タッグ(カルガリー版) |
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50 9(国) ビッグ・ゴールデン・S、51 10(国) 勇猛シリーズ、52 2(国) 第6回IWA・ワールド・S、52 6(国)【特】ビッグ・チャレンジ・S、53 4(国) スーパー・ファイト・S、54 4(国) ビッグ・チャレンジ・S、54 11(国) デビリッシュ・ファイト・S、55 1(国) 新春パイオニア・S、55 6(国) ビッグ・サマー・S、56 6(国) ダイナマイト・S、56 7(国) ビッグ・サマー・S、56 8(全) スーパー・アイドル・S、57 1(全)【特】 新春ジャイアント・S、57 10(全) ジャイアント・S、58 1(全) 新春ジャイアント・S、58 3(全) 【特】グランド・チャンピオン・カーニバルT、58 7(全) グランド・チャンピオン・カー二バル3、59 1(全) 新春ジャイアント・S、59 5(全) グランド・チャンピオン・カーニバル2、60 1(全) 85激突!オールスター・ウォーズ、60 6(全) 85 熱風!サマー・アクション・ウォーズ | ||
本名はヒルベルト・ペペ・メレンデス。究極のB級レスラー。メキシコではアズテック・ジョーを名乗り活躍、1975年にモントリオールのグランプリ派に登場した際にジプシー・ジョーに改名したようである。タフネスが売りのラフ・ファイターで、国際プロレスにぴったりの外人だった。体はジュニアクラスだったが、金網のてっぺんからのニードロップで相手の肋骨を折るなどその暴れっぷりは凄まじかった。いすで叩かれてもケロリとしているというタフネスぶりは想い出深い。国際崩壊後は全日本プロレスに転出したが、馬場とのシングル・マッチでデッドリー・ドライブであっさり負けた時にはがっかりした。スペイン出身と言われていたが、実際はプエルトリコ出身だったようだ。(左写真提供:HARU一番氏) サイン |
ジミー・ジャック・ファンク JIMMY JACK FUNK ●南部の荒獅子 ●189センチ、112キロ ●1960年1月28日 米・オレゴン州セーラム ●フロリダ・ヘビー、南部ヘビー(フロリダ版)、パシフィックノースウエスト・タッグ |
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63 5(全) 88 スーパー・パワー・S | |
ジェシー・バーがWWF入りに際し変身したカウボーイ・キャラクター。ジミー・ハートをマネージャーに付けて活躍したが、結局このローンレンジャーのギミックで活躍したのは一年足らずで、WWFを離脱し、素顔のジェシー・バーに戻っている。 ジェシー・バーの項も見よ。 |
ジミー・ジョーンズ
JIMMY JONES
1回 ●183センチ、96キロ ●経歴詳細不明 |
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52 9(国) スーパー・ファイト・S | |
ダニー・ホッジのコーチを受けてプロレスラーとなった男で、ジョージアやアラバマ地区で活躍していたようだ。体つきはブヨブヨしたおおよそレスラーと呼ぶにふさわしくないものであった。キャリア不足で日本勢に軽くあしらわれている。 |
ジミー・スヌーカ
JIMMY SNUKA
(グレート・スヌーカ *)16回 ●スーパーフライ ●183センチ、105キロ ●1945年5月18日 フィジー出身 ●ダイビング・ヘッドバット ●パシフィックノースウエスト・ヘビー、テキサス・ヘビー、NWA世界タッグ(ミッドアトランティック版)、USヘビー(ミッドアトランティック版) |
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46 9 (日) 第2回NWAタッグ・リーグ戦*、49 11 (全) NWAチャンピオン・S *、56 5(全) スーパー・パワー・S、56 10(全) ジャイアント・S、56 11(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦、57 4(全) グランド・チャンピオン・S、57 10(全)【特】ジャイアント・S、60 5(新)【特】 lWGP&WWFチャンピオン・S、60 6(新) 【特】バーニング・スピリット・イン・サマー、60 11(新) 85 IWGPタッグ・リーグ戦、61 5(新) 【特】86 IWGPチャンピオン・S、61 11(新) 86 ジャパンカップ争奪タッグ・リーグ戦、62 11(全) 87 世界最強タッグ決定リーグ戦、63 3(全)【特】 88 チャンピオン・カーニバル、63 8(全) 88 サマー・アクション・S2、63 11(全) 88 世界最強タッグ決定リーグ戦 | |||
本名はジェームス・レイハー。フィジー出身で、ディーン・ホーにスカウトされてプロレス入り。ラニー・ケオロハのリングネームでデビュー。その後インディアン・スタイルのグレート・スヌーカに変身し1969年に初来日を果たす。帰国後、原住民スタイルになりオレゴン地区でダッチ・サベージとのコンビで売り出し、長く同地区のUSヘビー、タッグの両タイトル戦線に絡んだ。その後、ミッド・アトランティック地区に転戦し、リッキー・スティムボートとの抗争で日本でも注目を浴びるようになり、ザ・シークのパートナーとして来日。日本でもリッキーとの名勝負を展開した。後にブルーザー・ブロディとコンビ結成、全日本、新日本の両団体で猛威を振るった。WWFに移籍して一時期日本マットから遠ざかった。1967〜1969年の3年連続でボディビルのミスター・ハワイになったこともある。 サイン |
ジミー・ダラ
JEMMY DULA 1回
●黒いミサイル弾 ●185センチ、113キロ ●1936年 フランス出身 ●パンチ攻撃 |
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45 3(国) 第2回IWAワールド・S | |
プロレスラーになる前はプロボクサーとして鳴らし、ヨーロッパ・ライト・ヘビー級王座にも就いている。その名残りかプロレス転向後も試合ではマウスピースを着用していた。ヨーロッパで活躍したレスラーだった為、来日時もほとんど無名だったが、かなりのテクニシャン振りを見せリーグ戦ではビル・ロビンソンの対抗馬と評された。 |
ジミー・バーグ → ジ・アサシンズAを見よ
ジミー・バリアント
JIMMY VALIANT
3回 ●金髪の流血魔 ●192センチ、115キロ ●1942年 米・イリノイ州シカゴ ●エルボードロップ ●WWWFタッグ、WWA世界タッグ(インディアナ版)、AWA南部ヘビー、AWA南部タッグ、ミッドアトランティックTV、USWA世界ヘビー |
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47 6(日) 第2次ゴールデン・S、47 7(日)第1次サマー・ビッグ・シリーズ(残留)、51 5(全) NWAチャンピオン・S、60 1(全) 【特】85激突!オールスター・ウォーズ | |||
本名ジェームス・ベイレン。「ニューヨークの新星」と呼ばれ大いに期待されて初来日を果たすが、中堅どころにも手が出ないショッパイレスラーだった。後に同じようなタイプのジョン・L・サリバンと意気投合しバリアント兄弟としてWWF、WWAを股にかけて人気爆発、全日本プロレスに来日しインター・タッグに挑戦するがここでもストレート負けを喫している。タッグ解消後は「ブギウギ・マン」としてテネシーあたりで長くカルト的な人気を集めた。アメリカでは爆発的な人気をもつが日本では全く駄目だったという典型的なレスラー。サイン |
ジム・ウィルソン
JIM WILSON
1回 ●192センチ、117キロ ●1942年6月12日 米・ジョージア州アトランタ ●タックル |
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47 8(日) 第2次サマー・ビッグ・S | |
ジョージア州の大プロモーター、ポール・ジョーンズのドル箱レスラー。高校時代からフットボールとアマレスリングをやり、大学フットボール界の実力校ジョージア大学在学中の1964年には全米オールスターズのタックルに選出され、同時に「フットボールの名誉殿堂」入りしている。卒業後ロサンゼルス・ラムズ入りし、プロレスリングと両刀使いをしたあと1968年からプロレスリング一筋に進んでいる。オーストラリアで活躍した後、1975年にはIWAの旗揚げにビッグ・ジム・ウィルソンとして参加している。(参考資料:サマービッグ・シリーズ・パンフ。資料提供D・L・じょな様) |
ジム・オズボーン
JIM OSBORNE
( ミスター・X *) 3回 ●殺人パンチャー ●181センチ、105キロ ●1933年 米 ・オクラホマ州タルサ出身 ●殺人パンチ ●NWA世界ジュニアヘビー |
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44 2(日) ダイナミック・S、45 2(日) ダイナミック・S、45 2 (日)アイアンクロー・S(残留)、48 1 (日) 新春チャンピオン・S* | |
ボクサー出身のレスラーでワンパンチ・オズボーンと呼ばれた無頼漢。非常に短気な性格でファイト振りも非常に荒く、ゴング誌のランキングで不人気レスラーの上位に名を連ねた。素顔での来日時は2回ともシングル・タイトル挑戦のチャンスは与えられず癇癪を起こしたが、覆面のミスター・Xとして来日してようやく坂口のUN選手権に挑戦の晴れ舞台を与えられた。ミスター・XとしてはNWA世界ジュニア・ヘビー級選手権も獲得している。3度目の来日から帰国後、サーキット中の車中で発作を起こし死亡したと伝えたれたが、これは誤報であった。 |
ジム・ガービン
JIM GARVIN 2回 ●野獣男爵 ●180センチ、110キロ ●1952年9月25日 フロリダ州タンパ出身(カナダ・アルバータ州出身説もあり) ●USタッグ(フロリダ版)、南部ヘビー(フロリダ版)、フロリダ・ヘビー、アメリカン・ヘビー、AWA世界タッグ |
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55 10(新) 闘魂S、59 8(全) スーパー・パワー・S | |
本名ジェームス・ウィリアムス。カナダの出身でスチュ・ハートにスカウトされてプロレス入り。テリーとロニーのガービン兄弟の末弟という触れ込みでデビュー。実際はテリーの息子であったといわれている。当初はフロリダ地区でバディ・ロジャースをマネージャーに正統派として活躍する。初来日のあとダラスに転戦、プレシャス、サンシャインといった女性マネージャーを付けて人気を得る。AWAではスティーブ・リーガルとのコンビでロード・ウォリアーズから世界タッグを奪取する活躍を見せ、再びダラスに戻りテリー・ゴディの抜けたフリー・バーズに参加しトップ・スターとなった。 |
ジム・グラブマイヤー
JIM
GRABMIRE 3回
●ヘビ男 ●198センチ、110キロ ●1932年6月26日 米・ケンタッキー州ルイビル 1999年11月24日没 ●サウスイースト・ヘビー |
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41 3(日) 第8回ワールドリーグ戦、47 6(新) オープニング・S第3弾、49 2(新) ビッグ・ファイト・S | |||
本名はウイリアム・ボーダーズ。学生時代からアマレスに打ち込み、卒業後にオハイオのプロモーター アル・ハフトにスカウトされてプロレス入り。「ヘビ男」の異名を取り198センチ、110キロという巨漢だったが、これといった技もない木偶の坊だった様だ。初来日は昭和41年の「第8回ワールド・リーグ戦」だからかなりのベテランであった。本業のプロレスよりもクラッシック・カーのコレクターとしてのほうが有名。父親のフレッド・グラブマイヤーは戦前の名レスラーだったらしい。昭和47年に一緒に来日したジョン・ファーは実弟だが、アメリカでは兄弟であることを隠していたようで、シングルで対戦した記録が残っている。(右写真撮影:花園えびす様) |
ジム・ゴールデン
JIM GOLDEN 1回
●アラバマの金獅子 ●195センチ、106キロ ●1950年8月1日 米・テネシー州バックスノート出身 (アラバマ州モンゴメリー、ジョージア州サバンナ説もあり) ●アラバマ・ヘビー、フロリダ・タッグ、サウスイースタン・ヘビー、WCW世界タッグ |
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46 11(日) 【特】ワールド・チャンピオン・S | |
アラバマのプロモーターであったビル・ゴールデンの息子。アメフト時代はマイアミ・ドルフィンズに在籍したがチームメイトに暴行を働き解雇され、フロリダでプロレス・デビュー。ヒロ・マツダとはライバル関係にあった。その後テネシーに転戦、フレッド・バスとのコンビで暴れた。その後はサンフランシスコ地区で活躍。1994年にバンクハウス・バックの名でWCWと契約。ディック・スレーターとのコンビでWCW世界タッグを獲得し最後の一花を咲かせた。 |
ジム・サベージ JIM SAVAGE 1回 | |
59 11(旧U)イヤーエンド・スペシャル | |
詳細不明だが、欧州系レスラーであることは間違いなかろう。初来日ではミスター空中に1勝1敗、マッハ隼人(初代)に2敗という成績であり、当然2度と呼ばれることはなかった。(解説:黒い一羽鷹氏) |
ジム・スター JIM STARR (ジ・インターンズ2号
*) 2回 ●ハングマン ●178センチ、115キロ ●1938年 米・テキサス州 ●エルボードロップ ●セントラルステーツ・タッグ、ロッキーマウンテン・ヘビー、ミッドアメリカ・ヘビー |
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50 3(国) ダイナマイト・S*、56 1(国) 新春パイオニア・S | |
ルイジアナやカンサスあたりで活躍したラフ・ファイターで全国的な知名度はない典型的なローカル・レスラーであった。社運を賭けたテーズ杯争奪戦に、この様なローカル・レスラーを招聘せざるを得なかった当時の国際プロレスの苦しい台所事情は察するにあまりある白覆面を被ってインターンズ2号としても活躍した。昭和50年に国際プロレスに来日したインターンズ2号はジェリー・クリスティーの偽者というのが定説だったが、その後の調査でジム・スター本人であることが判明。決め手はゴリラのような胸毛である。サイン |
ジム・ソーレンセン JIN SORENSEN 1回 | |
34 9(日) プロレス秋の国際試合 | |
詳細不明。情報募集中。 |
ジム・ダルトン
JIM DULTON
1回 ●強盗兄弟 ●179センチ、109キロ ●米・テネシー州サバナ出身 ●NWA世界タッグ(テキサス版)、テキサス・タッグ、パシフィックノースウエスト・タッグ、USタッグ(トライステート版、ガルフコースト版) |
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46 9(日) 第2回NWAタッグ・リーグ戦、53 6(国) ビッグ・サマー・S | ||
本名はジム・バーガス。ジャックとのダルトン兄弟で活躍したレスラーで、来日前にテキサスでブル・カーリーと「ペンキ塗りデスマッチ」という奇妙な試合をした事が紹介されていた為に、マニアの間では知名度は高かったが、日本にやってきたのは、このダルトン兄弟とは別のいわば3代目(この辺の詳細については「未来日外国人レスラー名鑑」のフランク・ダルトンの項を見よ)。主に南部地区で活躍した。リーグ戦では土壇場で馬場、吉村組の足を引っ張ったのが唯一の仕事。昭和53年にはランディ・ダルトン(ランディ・コーレイ)とのコンビで来日予定だったが、ランディが負傷したため単独で来日している。 |
ジム・ディラン
JIM DILLON 7回
●金髪の冷血鬼 ●193センチ、122キロ ●1942年6月26日 ニュージャージー州トレントン出身(カナダ・ノーバスコシア州出身説もあり) ●インターナショナル・タッグ(ノバスコシア版、アマリロ版)、フロリダ・ヘビー、フロリダ・タッグ、セントラルステーツ・ヘビー、セントラルステーツ・タッグ |
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49 1(全) 新春NWA・S、50 1(全) 新春ジャイアント・S、52 4(全) 第5回チャンピオン・力ー二バル、52 11(全) 全軍対抗戦、56 1(全) 新春ジャイアントS、58 2(全) エキサイト・S、59 10(全) ジャイアント・S | ||
本名はジム・モリソン。アメリカではJ・J・ディランとしてマネージャーとして活躍していた男で、グレート小鹿をカンフー・リーに、桜田をケンドー・ナガサキに変身させ売り出した実績を持つが、彼の最大のヒットはザ・シークとアブドーラ・ザ・ブッチャーの最凶コンビであろう。この様な手腕を買われてビンズ・マクマホン・ジュニアの右腕としてWWFの幹部となった。レスラーとしては三流の実力であった。 |
ジム・ドゥガン → ハクソー・ジム・ドゥガンを見よ
ジム・ドランゴ
JIM
DURANGO ●189センチ、112キロ ●1936年 米・ジョージア州クーガークリーク |
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47 3(新) 旗揚げオープニング・S | |
カール・ゴッチのブッキングで新日本プロレスの旗揚げオープニングシリーズに「弟」のジョー・ドランゴと共にエースとして来日した選手だが、正体はジョージア地区で活躍していたボブ・アームストロングであった。 詳細はボブ・アームストロングの項参照。 |
ジム・ナイドハート
JIM NEIDHART
1回 ●未完の大器 ●183センチ、125キロ ●1956年8月2日 米・フロリダ州タンパ出身(ロードアイランド州ニューポート出身説もあり) ●パワースラム ●インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、WWF世界タッグ、USタッグ(フロリダ版)、南部ヘビー(フロリダ版) |
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57 4(新)【特】 ビッグ・ファイト・S、58 1(新)【特】新春黄金・S、59 3(新) ビッグ・ファイト・S 第1弾 | ||
プロレス転向前はプロ・フットボーラーとして鳴らし、名門のダラス・カウボーイズやオークランド・レイダースに在籍した実績を持つ。カルガリーでプロレス・デビュー。来日後はフロリダに遠征しクラッシャー・クルスチェフとのコンビでUSタッグを獲得。1985年にジミー・ハートをマネージャーにカルガリー時代の僚友ブレッド・ハートとハート・ファウンデーションを結成して大ブレイク。これまたカルガリー時代の僚友ダイナマイト・キッド、デイビーボーイ・スミス組からWWF世界タッグを獲得する。以後WWFでは貴重な中堅として活躍した。 |
ジム・ハジー
JIM HUSSEY
1回 ●英国の虎 ●177センチ、108キロ ●1932年 イギリス出身 ●ドロップキック ●英国北部ヘビー |
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43 9(国) ダイナマイト・S | |
英国北部選手権者としてエース扱いで来日だったが、成績は振るわなかった。ドロップキックと得意とし、ゼブラ・キッドを3メートルふっとばし失神させた事もあるとうそぶいていた。ローラーボール・マーク・ロコ(初代ブラック・タイガー)の親父。ゴング増刊「マスク・コレクション」には昭和50年国際プロレスの「ダイナマイト・シリーズ」に来日したインターンズ2号の正体だと紹介されているがこれは誤り。2011年11月30日没。 |
ジム・ブランゼル
JIM BRUNZELL
4回 ●ミズーリの隼 ●186センチ、115キロ ●1949年8月13日 米・ミネソタ州ホワイトベアレイク出身(ミズーリ州カンサスシティ説もあり) ●ドロップキック ●NWA世界タッグ(セントラルステーツ版)、AWA世界タッグ、ミッドアトランティック・ヘビー、UWF世界タッグ |
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49 3 (国) チャレンジ・S、 55 11(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦、57 5(全) 【特】エキサイト・S、59 3(全)【特】 グランド・チャンピオン・カーニバル1 | ||
プロレス転向前はハイジャンプのオリンピック代表になりかけた事もあるスポーツマンで、バーン・ガニアのレスリング教室に入学し1973年にデビュー。デビュー間もない昭和49年に早くも初来日を果たしている。帰国後はミズーリ地区でマイク・ジョージとのコンビで売り出す。1970年代後半にはAWAに定着しグレッグ・ガニアとのハイ・フライヤーズでAWA世界タッグ王座となり、素晴らしいドロップキックでファンを魅了した。AWAが衰退し始めるとグレッグとのコンビを解消しWWFに転出、ブライアン・ブレアーとキラー・ビーズを結成しタッグ戦線を沸かせた。 (なお初来日当時はボブ・ブランゼルのリングネームを使用としていたが、これは別冊ゴングの誤記であったことが判明。訂正させていただきます) |
ジム・ライト
JIM WRIGHT 2回 ●アリゾナの殺人鬼 ●193センチ、129キロ ●1917年 米・アリゾナ州出身 (アラバマ州出身説もあり) ●パンチ攻撃 ●インターナショナル・タッグ(カルガリー版) |
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34 11(日)【特】プロレス秋の国際試合、36 4(日) 第3回ワールドリーグ戦、36 6(日)プロレス夏の選抜戦(残留) | ||
「アリゾナの殺人鬼」といわれたラフ・ファイターで、昭和34年の初来日では力道山の保持するインターナショナル選手権に連続挑戦、特に大阪でのタイトルマッチでは反則勝ちを含んでいたとはいえ、無敵の快進撃を誇っていた力道山に土を付けた。昭和36年の第3回ワールド・リーグ戦では初来日時に比べやや精彩を欠いたが、アイク・アーキンスとのコンビで力道山、豊登組の保持するアジアタッグに挑戦して引き分けている。(情報提供 : JOE HOOKER SR 氏) |