来日全外国人レスラー名鑑 シ(1)
ザ・シーク
THE SHEIK 12回
●アラビアの怪人 ●183センチ、110キロ ●1926年6月9日 米・ミシガン州ランシング出身 2003年1月18日没 ●キャメルクラッチ、火炎攻撃 ●テキサス・ヘビー、USヘビー(シカゴ版・デトロイト版)、アメリカス・ヘビー、UNヘビー、ハワイ・ヘビー |
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47 9(日) 【特】第2次サマー・ビッグ・S、48 3(全)【特】第1回チャンピオン・カーニバル、49 11(新)【特】闘魂S第2弾、52 12(全) 世界オープン・タッグ選手権大会、53 12(全)【特】世界最強タッグ決定リーグ戦、54 7(全)【特】 サマー・アクション・S、54 11(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦、55 3(全)【特】第8回チャンピオン・カー二バル、55 11(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦、56 1(全)【特】新春ジャイアントS、56 5(全) スーパー・パワー・S、56 11(全) 世界最強タッグ決定リーグ戦 | |
本名はエドワード・ファーハット。ヨルダン・アンマン出身といわれているがこれはギミック。我々が知るザ・シークはほとんど場外で暴れまくっていた印象しかないが、その昔はジュニア・ヘビー級ランキングの常連で、1969年にはデトロイトでビッグ・サカの挑戦を受けたUS選手権で60分フルタイムの引き分け試合を行なっている。全日本プロレスに頻繁に来日していた頃には完全に峠を過ぎていたが観客を追いまわす姿は鬼気迫るものがあった。1960年代にはニューヨークを始めロスやアメリカ各地で活躍したが、1970年代にデトロイト地区の興業権を手に入れてからは同地区から出ることはあまりなくなった。日本では倉持アナに暴行を働き血だるまにした事件が印象的。新日本プロレスに参加した時は、猪木の凶器攻撃に試合放棄し、そのまま帰国しているが、これはデトロイトで興業戦争が勃発したための緊急帰国であった。後年、自己破産したといわれている。2003年1月に逝去。甥がサブゥであることは有名だが、息子のエド・ファーハット・ジュニアも「キャプテン・エド・ジョージ」としてデビューしていたことはあまり知られていない。サイン |
シーク・アリ
SHEIK
ALI ●181センチ、107キロ ●1957年11月14日 西ドイツ出身 |
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63 7(全) 88 サマー・アクション・S | |
昭和59年10月の旧UWFストロング・ウィークスに参加したスティーブン・ペティパスの変身。2002年11月に発売された「全日本プロレス来日外人選手パーフェクト・カタログ」では「ドン・セラノことスティーブン・ペティパス(ピットパス)の変身」としているが、当研究室の写真を見比べていただければわかるようにセラノとペティパスは明らかに別人。 スティーブン・ペティパスの項も見よ。 |
シーク・エルマンソー SHEIK ELMANSO 1回
●中近東の魔術師 ●176センチ、117キロ ●1936年 ヨルダン・ベイルート出身 ●原爆固め ●レバノン・タッグ |
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44 10(国) 【特】IWA世界タッグ・S | |
エミールとの兄弟コンビで来日した中近東出身のレスラー。全身の強靭なばねを生かしたスピーディーなテクニックを披露した。当時としては数少ない原爆固めの使い手でもあった。アラビア人のギミックで正統派だったのはこの双子の兄弟ぐらいであろう。来日前は凶悪なタッグ・コンビと紹介されていた。相手を原爆固めで投げて、そのまま起き上がるというギミックでファンを沸かせた。 |
シーク・オブ・シークス・オブ・バクダッド SHEIK OF SHEIKS OF
BAGDAD ●バグダッドの怪酋長 ●186センチ、109キロ ●1936年 イラク・バグダッド出身 ●世界タッグ(テキサス地区)、パシフィックノースウエスト・ヘビー、USヘビー(ハワイ版)、IWA世界ヘビー(オーストラリア版) |
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49 8(新) 闘魂S | |
白狼酋長ことチーフ・ホワイト・ウルフの変身で、バグダッドというのはイギリスにおけるギミックらしい。日本ではニコリ・ボルコフとのコンビで日本勢を苦しめた。帰国後はWWFエリアに入りインディアン・スタイルに戻りベビーフェイスのジェイ・ストロンボーとのインディアン・コンビで人気を博するが、AWAエリアに転出しシーク・アドナン・アル・ケイシーを名乗り再び狂暴なアラビア人のギミックに戻って、以後はそれを貫き通し、マネージャー業に専念した。湾岸戦争勃発時は大もうけしたに違いない。 チーフ・ホワイト・ウルフの項も見よ。 |
ジート・モンゴル GEETO MONGOL (ブラックジャック・ダニエル
*)4回 ●蒙古の怪人 ●185センチ、115キロ ●1931年7月12日 カナダ・ノバスコシア州スプリングヒル ●蒙古式ベアハッグ ●南部タッグ(フロリダ版)、WWWFインターナショナル・タッグ、NWF世界タッグ、IWA世界タッグ(アメリカ版) |
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42 2 (日) MSGシリーズ*、47 7(日) サマー・ビッグ・S、49 4(新) 第1回ワールド・リーグ戦、51 7(新) アジア・リーグ戦 | ||
本名はニュートン・タットリー。1960年代後半にニューヨーク地区で人気を呼んだ大型タッグ「ザ・モンゴルズ」の片割れ。チームのリーダー的存在でWWWF世界タッグ王座にも君臨しているが、日本ではインター、アジアともに挑戦権は与えられていない。正体はブラックジャック・ダニエルである事を来日早々ゴング誌にすっぱ抜かれている。ベーポ、ボロとパートナーを変えてWWWF、NWF、IWA、ジョージア、そしてプロモーターも兼ねたピッツバーグで10年近くジート・モンゴルで通した。 |
シープハーダーズ = ブッチ・ミラー、ルーク・ウィリアムスを見よ
ジーン・マリノ GENE MARINO 1回 ●185センチ、115キロ ●1937年 プエルトリコ出身 |
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51 2(国) スーパー・ファイト・S | |
プエルトリコ出身のレスラーで、来日時はプエルトリコの大親分のカルロス・コロンのボディ・ガード的役目を果たす。アメリカンフットボールからの転身で、アメリカのプロ・フットボール・チームに在籍の経験もあった。デビュー当時はユージニオ・マリンなるリング・ネームを使っていた。シングルより、むしろタッグを得意としていたようだ。 |
シーン・リーガン SEAN REGAN 4回 ●ヨーロッパ闇の帝王 ●188センチ、115キロ ●1936年 北アイルランド・デリー出身 ●スープレックス ●北アイルランド・ヘビー、パシフィックコースト・ヘビー(バンクーバー版)、 |
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46 3(国) 第3回IWAワールド・S、47 9(新) ニュー・ゴールデン・S、48 7(新) サマー・ファイト・S、54 6(新)【特】サマー・ファイト・S | |
初来日時はイギリス・マット界が裏切り者のロビンソン潰しに送り込んだ刺客という物騒な触れ込みであった。テクニックはもちろんラフ・ファイトも得意にしており、「ヨーロッパ闇の帝王」とも呼ばれたほど。新日本プロレス移籍後は昭和48年8月に足立区体育館で行われた猪木とのシングル・マッチがベスト・バウトとしてマニアの間で語り種になっている。本国の他ではカナダのバンクーバーで活躍した。最後の来日では藤波のWWF認定ジュニア王座に挑戦し、全盛期はすぎていたとは言え藤波を子供扱いにしている。(写真撮影:花園えびす様)サイン |
ジェイ・ヤングブラッド JAY YOUNGBLOOD
3回 ●赤き狼 ●184センチ、100キロ ●1955年1月21日 米・テキサス州アマリロ 1985年9月1日没 ●トマホークショップ ●NWA世界タッグ(ミッドアトランティック版)、パシフィックノースウエスト・ヘビー、パシフィックノースウエスト・タッグ、USタッグ(ミッドアトランティック版) |
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52 10(全) ジャイアント・S、57 5(全) エキサイト・S、57 11(全) 82世界最強タッグ決定リーグ戦 | |
本名はスティーブ・ロメロ。リッキー・ロメロの実子でマークとクリスの兄。初来日ではワフー・マクダニエルとのコンビで戦ったが、帰国後リッキー・スティムボートとのコンビで大人気を取った。、昭和56年のエキサイト・シリーズにコンビで初来日して日本でも高い人気を獲得し、大仁田の保持していたインターナショナル・ジュニア王座にも挑戦している。成長が楽しみなレスラーだったが、1985年に遠征先のオーストラリアで内臓疾患のため死亡。 |
ジェイソン・ザ・テリブル
JASON
THE TERRIBLE ●恐怖の殺人鬼 ●192センチ、121キロ ●1958年 カナダ・オンタリオ州ウインザー ●グランプリ・タッグ(マリタイム版)、カリビアン・ヘビー |
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62 5(全) 87 スーパー・パワー・S | |
本名はカール・モファット。新日本プロレスに2度来日している丸坊主のパワー・ファイターであったザ・ジャッカルの変身。当時話題を呼んだ「13日の金曜日」主人公をモチーフにしたキャラで、後にインディー系団体に常連として参加したのは全くの別人。この後、奇しくも同じくアイスホッケーのマスクを付けた海賊男バリー・ガスパーに変身して新日本プロレスにUターンしている。 ザ・ジャッカルの項も見よ。 |
ジェーク・スミス JAKE SMITH (グリズリー・スミス*)
2回 ●灰色熊、恐竜 ●213センチ、159キロ ●1925年 米・ケンタッキー州ハザード出身 ●スタンプホールド ●ジョージア版世界ヘビー、南部タッグ(ジョージア版)、WWA世界タッグ(ロス版)、テキサス・ヘビー |
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42 1(国) パイオニア・S、 46 8 (日) サマー・ミステリー・S * | |
本名はアレリアン・スミス。2メートルを超える大型コンビ「ザ・ケンタッキアンズ」の片割れ。(パートナーはルーク・ブラウン)国際プロレス来日時はザ・ケンタッキアンズとして来日し、アントニオ猪木、ヒロ・マツダ組の保持するNWA認定世界タッグ選手権に2度に渡って挑戦しているが、いずれもストレートで敗退している。2メートル13センチの巨体で「恐竜」とよばれていたが、どちらかといえば木偶の坊だったのでは? 引退後はMSWA地区でマッチメーカーを務めた。2010年6月12日永眠。サイン |
ジェーク・ロバーツ
JAKE
ROBERTS 3回 ●恐竜2世 ●195センチ、125キロ ●1955年5月30日 米・テキサス州 ●DDT ●パシフィックコースト・タッグ(バンクーバー版)、北米ヘビー(カルガリー版・MSWA版)、ルイジアナ・ヘビー、プエルトリコ・ヘビー |
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54 1(国) 新春パイオニア・S、55 2(国) スーパー・ファイト・S、55 6(国) ビッグ・サマー・S | ||
本名はアレリアン・スミス・ジュニア。ジェーク・スミスの長男でデビュー当時は父と同じくきこりスタイルで巨体を生かした豪快なラフファイターだった。DDTを最初に使い始めた選手でもある。MSWA地区でトップスターとなり、WWFに移籍後はペットの大蛇「ダミアン」とリングに持ち込むギミックで人気を呼び、「ザ・スネーク」のニックネームでトップ・スターとなる。この男はこの手の際物ギミックが好きなようで、二度目の来日時はマイク・ボイエッティとともに当時はまだ珍しかったペイントを施して登場し、ファンの度肝を抜いた。(左写真提供:HARU一番様)サイン |
ジェシー・ジェームス JESSE JAMES 1回 ●177センチ、103キロ ●1919年 米・テキサス州ヒューストン(メリーランド州出身説もあり) ●スタンディングクラッチ ●南部タッグ(ジョージア版)、ミッドサウス・ジュニアヘビー |
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47 6(新) オープニング・S第3弾 | |
本名はクリス・ペイパス。ジェシー・ジェームスとは西部劇の悪役の名前である。幼年から荒馬乗り、射撃の名手として数々の大会優勝の実績あり。ジェームス一家はまれなプロレス一家であり、父親がプロモーター、妻が女子レスラー、弟のジャニー・ジェームスもレスラーだった。20年のキャリアの中ではルー・テーズと渡りあった実績もある。来日当時はかなりの老齢だったが、いぶし銀のテクニックを披露した。昭和45年に国際プロレスが行った「あなたがプロモーター」という読んで欲しい外人レスラーの人気投票では156票獲得(総数39652票)し26位になっている。 |
ジェシー・バー
JESSE BARR (
ジミー・ジャック・ファンク*) 2回
●南部の荒獅子 ●189センチ、112キロ ●1960年1月28日 米・オレゴン州セーラム ●フロリダ・ヘビー、南部ヘビー(フロリダ版)、パシフィックノースウエスト・タッグ |
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60 11(全) 85 世界最強タッグ決定リーグ戦、63 5 (全) 88スーパー・パワー・S * | |
本名はフェーリン・バー。アート・バー(ラブ・マシーン)は実弟。オレゴンの出身で、ドリー・ファンク・ジュニアにスカウトされてプロレス入り。オレゴンでデビューし、フロリダに転戦しスコット・マギーからフロリダ・ヘビー級王座を獲得。翌年ハーリー・レイスのパートナーとして世界最強タッグに参戦し、なかなかの素質を見せる。帰国後、ドリー・ファンク・ジュニアの誘いでWWFに移籍。ファンク一家の末弟、ジミー・ジャック・ファンクとして暴れた。その後オレゴンで独立団体を興し、剛竜馬の興した団体と提携を結び何度となく来日している。 |
ジェシー・ベンチュラ JESSE THE BODY VENTURA 2回 ●ザ・ボディ ●193センチ、118キロ ●1951年7月15日 米・ミネソタ州ミネアポリス ●カナディアン・バックブリーカー ●パシフィックノースウエスト・ヘビー、パシフィックノースウエスト・タッグ、AWA世界タッグ |
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57 4(新) 4・21特別興行、58 1(新)【特】新春黄金・S | |
本名はジェームス・ジョージ・ジャノス。AWAでアドリアン・アドニスとのコンビ「イーストウェスト・コネクション」でAWA世界タッグを獲得し、MSGに乗り込みバックランドをKOした実績を買われて来日したが、ビリー・グラハムと同じく外見とファイト内容が反比例するショッパイ筋肉派レスラーだった。懲りずに藤波の飛竜10番勝負の相手として再来日したが、全く成長していなかった。日本での評価は相棒のアドニスとは雲泥の差である。晩年は解説者や俳優として活躍し人気を博す。引退後ミネソタ州ブルックリンパーク市の市長に当選し、昭和ファンを驚かせた。 |
ジェス・オルテガ
JESSE ORTEGA 5回 ●メキシコの狂える巨象 ●193センチ、145キロ ●1922年 米・カリフォルニア州セントジョセフ ●フライング・ボディプレス ●中米ヘビー、中南米タッグ |
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30 7(日) プロレス国際試合、34 5(日) 第1回ワールドリーグ戦、34 6(日) 夏の国際選抜戦(残留)、37 11(日) プロレス冬の国際試合、38 1 (日)春の国際大試合(残留)、42 7(日) 第一次サマー・S、42 8(日) 第二次サマー・S(残留)、43 4(日) 第10回ワールドリーグ戦、43 5(日)ゴールデン・S(残留) | |
力道山時代の外人スターで「メキシコの狂える巨象」と呼ばれた大型ラフ・ファイター。西海岸を中心に活躍していたが、エル・トロやブル・オルテガ、マイティ・ウルサスなどのリングネームで東海岸に登場し、WWWF王者時代のブルーノ・サンマルチノを苦しめた事もある。日本では力道山にボーナスを握らされ、力道山の目の上のタンコブであった東富士にリンチまがいの攻撃を加えた事もある。引退後はカナダでスチュ・ハートのアシスタントとして働いていたが、体調を崩し余生は恵まれないものだったという。 |
ジェフ・ポーツ
GEOFF PORTZ
4回 ●不死身の旋風 ●185センチ、112キロ ●1936年 イギリス・ブラッドフォード出身 ●エアープレン・スピン ●大英帝国ヘビー、北米ヘビー(カルガリー版)、インターナショナル・タッグ(カルガリー版) |
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43 6(国) ビッグ・サマー・S、48 1(新) 新春バッファロー・S、50 5(国) ビッグ・チャレンジ・S、51 5(新) ゴールデン・ファイト・S | ||
イギリス時代は大英帝国選手権を争うビル・ロビンソンのライバルで、ルー・テーズの英国遠征の際も大いに苦しめた。初来日は国際プロだったが、昭和48年にカール・ゴッチのブッキングで新日本プロレスにエースとして来日、猪木と連日ストロング・スタイルの熱戦を展開した。イギリスからアメリカに渡り、カナダのカルガリー(NWA系)やウィニペッグ(AWA系)で活躍した。欧州ストロング・スタイルの継承者。スコット・マギーは実の息子。 |
ジェリー・エストラーダ
JERRY ESTRADA 1回 ●山猫戦士 ●178センチ、87キロ ●1958年1月10日 メキシコ・コアウィラ州モンクローバー出身 ●メキシコ・ナショナル・ミドル、CMLL世界ライトヘビー |
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59 10(全) ジャイアント・S | |
二代目タイガーマスクの相手として全日本プロレスが招聘したEMLL系ルチャドールの一人。エローデスの付き人として下積みを経験し、1978年に念願のデビュー。4年後にメキシコ・シティに進出、ラ・フィエラとのコンビで人気者となる。後にピラタ・モルガン、オンブレ・バラと海賊トリオを結成し、ピラタ・モルガンを真似た海賊風コスチュームで活躍。 |
ジェリー・オーツJERRY OATES (ジェリー・オーティス*) 8回 ●カンサスの暴れん坊 ●192センチ、115キロ ●1945年 米・ジョージア州コロンバス出身 ●ブレンバスター ●アジア・タッグ(全日本版)、世界タッグ(カンサス版)、ナショナル・タッグ(ジョージア版) |
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47 1(国) 新春パイオニア・S*、51 9(全) ジャイアント・S、56 7(国) ビッグ・サマー・S*、57 7(全) サマー・アクション・S、58 7(全) グランド・チャンピオン・カー二バル3、62 3(全) 87 チャンピオン・カーニバル、63 2(全) 88 エキサイト・S、63 8(全) 88 サマー・アクション・S 2 | |||
ジョージア州の出身で、中西部地区を主戦場にしており同地区ではテリー・ファンクとライバル関係にあった。大型のラフ良しテクニック良しのオールラウンド・プレーヤーで、弟のテッドを帯同した2度目の来日では、大熊、小鹿の極道コンビからアジア・タッグを強奪しているが、初防衛戦で高千穂、クツワダの豪州コンビにタイトルを奪われている。玄人好みの渋いレスラーだった。 |
ジェリー・オーティス JERRY OATES ●カンサスの暴れん坊 ●192センチ、115キロ ●1945年 米・ジョージア州コロンバス出身 ●ブレンバスター ●アジア・タッグ(全日本版)、世界タッグ(カンサス版)、ナショナル・タッグ(ジョージア版) |
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47 1(国) 新春パイオニア・S、56 7(国) ビッグ・サマー・S | ||
国際プロレスがジェリー・オーツに登場した時のリングネーム。国際プロレスは「オーツ」ではなく、なぜか「オーティス」と表記していた。 詳細はジェリー・オーツの項を見よ。 |
ジェリー・オルスキー
JERRY ODROSKI
2回 ●電工アポロ ●188センチ、120キロ ●米・テキサス州サンアントニオ出身 ●サンアントニオ地区タッグ |
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59 8(旧U)ビクトリー・ウイークス、59 10(旧U)ストロング・ウイークス | |
第一次UWFにしては珍しくシリーズ連続参戦。素質を見込まれ日本に住み込むという話もあったが立ち消えになったようだ。もともと前田のイギリス修行時代の対戦相手で、コーチを受けたこともあったようだ。UWFのブッカーがカール・ゴッチからウェイン・ブリッジの線に移ったことで来日が途絶えてしまったが、UWF側は「もっとあちこちで経験を積ませたい」と期待していた。故人。(情報提供:黒い一羽鷹、JOE HOOKER SRの両氏) |
ジェリー・クリスティー
JERRY CHRISTY (ザ・ビジランテス1号
*、ジェロム・クリステンセン*、ザ・スコーピオンズ2号
*)
4回 ●187.5センチ、107キロ ●1947年米・カリフォルニア州ビッグサー出身 ●インターナショナル・タッグ(カルガリー版) |
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41 8 (日) 第二次サマー・S*、47 9 (日) 第3回NWAタッグリーグ戦 *、51 4 (国) ダイナマイト・S *、52 4(国) ダイナマイト・S | |
来日するたびにスタイルを変えていた珍しいレスラーで、日本ではビジランテスとしての来日時が唯一のエース格としての来日であった。毎回リング・ネームを変えていた為かジェリー・クリスティーとしての知名度はきわめて低い。ゴングの二度と来て欲しくないレスラーランキングで常に上位を占めていたとんでもレスラーである。カナダから太平洋岸をホームグラウンドとしていたようだ。弟のボビーのほうが「まし」だったそうだ。 |
ジェリー・グレイ JERRY GREY 3回 ●183センチ、110キロ ●1963年7月9日 米・フロリダ州オーランド出身 ●フロリダ・タッグ、パシフィックノースウエスト・タッグ、WPW世界ヘビー |
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61 8(新) チャレンジ・スピリット 86、62 2(新) スプリング・フレアーアップ 91、63 2(新) 88 ビッグ・ファイト・S | |
本名も同じ。フロリダの出身で、プロレス好きが高じて高校卒業後にヒロ・マツダのレスリング教室に入門。1981年に18歳でデビューした。1985年にオレゴンのPNW地区に転戦し、ランス・フォン・エリックとの抗争で名を売った。日本でツームストン・ドライバーなどの大技を習得して将来を期待されたが、期待通りの成長を遂げる事はなかった。 |
ジェリー・コザック
JERRY KOZAK
4回 ●ロシアの鉄人 ●176センチ、105キロ ●1928年 カナダ出身 ●サマーソルトキック ●テキサス・タッグ、テキサス・ジュニアヘビー、NWA世界タッグ(テキサス版) |
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47 10(全) 旗揚げジャイアント・S、48 2(全) ジャイアント・S結集戦、48 8(全) ワールド・チャンピオン・S、50 5(全) ブラック・パワー・S | |
ファンク一家の大番頭で、アマリロ地区のマッチ・メーカーとして活躍した。ドリー・ファンクシニアの司令で、テリー・ファンクと共に全日本プロの旗揚げシリーズに参加している。テクニシャン振りを馬場に惚れ込まれ、天龍のコーチも任された。弟のニックとのコンビでも来日している。プロレスラーになる前は体操選手も経験しており、サマーソルト・キックなどの派手な大技も使いこなした。馬場に気に入られ初期の全日本プロレスに頻繁に来日している。(写真撮影:花園えびす様) |
ジェリー・ノバック JERRY NOVAC 1回 ●チェコの虎鮫 ●185センチ、125キロ ●1949年 アリゾナ州トゥーソン出身 ●ベアハッグ ●カリビアン・タッグ、USタッグ(テネシー版) |
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55 1(全) 新春ジャイアント・S | |
サンダー・コバックの代打としてシリーズの開幕直前に参加が決定したレスラーで、ニコリ・ボルコフを一回り小さくしたようなレスラーだった。この解説でだいたいの彼の力量を察して頂けると思う。しかし力はなかなかのもので、タイガー戸口あたりの大型レスラーを軽々とバック・ブリーカーに担ぎ上げていた。1976年ごろにテネシーでダビッド・ノバックとのバウンティ・ハンターズとして活躍、ジョージアで知り合ったアブドーラ・ザ・ブッチャーに気に入られ共にプエルトリコに遠征。カルロス・コロンのブッキングで来日を果たした。プエルトリコではチェコ出身を名乗った。 |
ジェリー・ブラウン
JERRY BROWN
6回 ●黄金の人間爆弾 ●188センチ、113キロ ●1943年 米・ミネソタ州 ●マウスクロー ●フロリダ・タッグ、AWA認定USタッグ、アメリカス・タッグ、セントラルステーツ・タッグ、NWA北米タッグ(新日本プロレス版)、トライステート・タッグ |
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46 10(国) ビッグ・チャレンジ・S、46 11(国)ビッグ・ウインター・S(残留)、49 1(国) 新春パイオニア・S、50 8(新) 闘魂S、51 5(新) ゴールデン・ファイト・S、53 1(新) 新春黄金S、54 8(新) ブラディ・ファイト・S | ||
昭和プロレス史上に残る名コンビ「ブロンド・ボンバーズ」(ロス地区ではハリウッド・ブロンドス)のリーダー格。若いパートナーのバディ・ロバーツ(初代のパートナーはジャック・ドノバン)を使ったタッグ戦術は一級品で、北米タッグ王座決定戦で結成間もない坂口、小林の怪力コンビを手玉に取った試合などはこのチームのベスト・バウトであろう。シングル・プレーヤーとしてははっきり言って2流だったが、タッグ・チームとしては超一流のコンビであった。 |
ジェリー・ブリスコ
JERRY BRISCO 4回 ●中西部の若駒 ●187センチ、105キロ ●1946年9月19日 米・オクラホマ州タルサ出身 ●ドロップキック ●フロリダ・タッグ、イースタンステート・ヘビー、ジョージア・タッグ、NWA世界ジュニアヘビー、NWA世界タッグ(ミッドアトランティック版) |
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44 7(日) 第一次サマー・S、49 1(全) 新春NWA・S、50 7(全) サマー・アクション・S、51 7(全) サマー・アクション・S | ||
本名はジェラルド・ブリスコ。元NWA世界チャンピオン、ジャック・ブリスコの実弟で、主にフロリダを中心に活躍した。体格的にはジュニアヘビー級で、レス・ソントンあたりとし烈な王座争いを演じ、1981年に世界タイトルを獲得して階級こそ異なるものの兄弟での世界王座制覇の快挙を成し遂げた。兄と同じくテクニシャンタイプだったが、気性の荒い兄に比べると、ややひ弱な感じがした。WWFでパット・パターソンと共に悪役幹部のギミックでたまにリングに登場していた。サイン |
ジェリー・モロー
JERRY MORROW 6回 ●黒い稲妻 ●180センチ、107キロ ●1949年 フランス領マルチニク出身 ●ヘッドバット ●パシフィックコースト・ヘビー(バンクーバー版)、インターナショナル・タッグ(カルガリー版) |
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58 7(全) グランド・チャンピオン・カー二バル3、58 89(全) 【特】スーパー・パワー・S、59 2(全) エキサイト・S、59 8(新) ブラディ・ファイト・S、59 11(新) 第5回MSGタッグ・リーグ戦、60 6(新) バーニング・スピリット・イン・サマー | ||
ご存知のように国際プロレスに留学生として来日した稲妻二郎で、ジャック・クレインボーンの実弟である。国際プロレス在籍中にはマスクをかぶってブラック・シャドー、ザ・ワイルド・ヌウとしてリングに上がったこともある。カナダのモントリオール地区に遠征し、兄とのコンビでモントリオール地区のインターナショナル・タッグ選手権も獲得している。国際プロレス崩壊後は全日本プロレスに参加。後にフランス語が話せるというだけでアンドレ・ザ・ジャイアントのパートナーとして新日本プロレスに参加、黒人嫌いのアンドレには差別的扱いを受け、タッグ・マッチではタッチしてもらえず、一度も試合に参加できない事もあった。新日本プロレスではレフェリーも務めた。(左写真提供:花園えびす様)
来日記録は国際プロレス崩壊後のもの・・・ブラック・シャドー、ザ・キラー、ザ・ワイルド・ヌウの項も見よ。 |
ジェリー・モンティ
GERRY MONTI ●183センチ、110キロ ●1940年1月2日 米・カリフォルニア州オークランド出身 1999年12月3日没 ●セントラルツテーツ・ヘビー |
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48 4(日) アイアンクロー・S | ||
昭和45年8月に初来日したゲーリー・モンティの変身。パンフを見ると素顔時代の写真に手書きでマスクを書いた写真(写真右)が掲載されているので、どうやら日本プロレスが話題つくりのために急遽マスクを被らせたような感じである。 ゲーリー・モンティの項も見よ。 |
ジェリー・ローラー
JERRY LAWLER
1回 ●無頼漢 ●185センチ、115キロ ●1949年11月29日 米・テネシー州メンフィス出身 ●スクリューパンチ ●トライステート・ヘビー、USジュニアヘビー、AWA世界ヘビー、AWA世界タッグ、CWA世界ヘビー、南部ヘビー(テネシー版)、WCWA世界ヘビー、USWA世界ヘビー |
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60 1(全) 【特】85激突!オールスター・ウォーズ | |
メンフィス出身で地元のメンフィスで「南部の帝王」と呼ばれ、CWA世界王者に長く君臨した。スクリュー・パンチといわれるアッパーカットを武器に南部各地のブラスナックル王者を総なめにした喧嘩屋でもある。長らく「まだ見ぬ強豪」の一人に数えられていたが、遂に全日本が招聘に成功。しかし予想通りの期待外れだった。後にAWA王者として来日し藤波となかなかの名勝負を演じるが、あの試合は相手が藤波であってこその名勝負だった。現在はWWFでコメンテーターとして活躍中。サイン 公式サイトはこちら http://www.kinglawler.com/ |
ジェリー・ロンドン JERRY LONDON 1回
●178センチ、102キロ ●1929年 カナダ・オンタリオ州ハミルトン出身 1970年8月20日没 ●NWA世界ミドル級 |
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43 1(日) 新春チャンピオン・S | |
イギリス出身のテクニシャンで、シリーズ中にはカール・ゴッチのエキジビション・マッチの相手も勤めている。来日する2年前の1966年にはメキシコに遠征し、当時「大帝」と呼ばれミドル級では無敵を誇ったレネ・グァハルドを破り48日間ながらNWA世界ミドル級王者になっている。喧嘩には強く、ふたり組の郵便強盗をまとめてKOしたこともある。しかし1970年にロイ・シャイアーと口論になり、その直後に控え室で自殺。 |
ジェロニモ・クアネイド JERONIMO KUANEID 1回 | |
30 12(旧国) プロレス国際大試合 | |
日本に初めてやってきたインディアン・レスラー。完全なショーマン・レスラーで、肩書きは凄かったが羽飾りも粗末でいわゆるセミプロ程度の実力しかなかった。(昭和45年別冊ゴング6月号来日外人レスラー名鑑より:情報提供 管様) |
シエン・カラス CIEN CARAS 1回 ●100の顔をもつ男 ●182センチ、99キロ ●1949年10月18日 メキシコ・ハリスコ州サンアンタニア出身 ●メキシカンストレッチ ●NWA世界ライトヘビー、アメリカス・タッグ、テキサス・タッグ、メキシコ・ナショナル・ヘビー、CMLL世界ヘビー |
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51 10(新) 闘魂S第2弾 | |
本名はカルメロ・レジェス。デビュー当時はミル・カラスを名乗り、ミル・マスカラスの弟かとも言われたが、全くの誤報。メキシカンにしては大型のマスクマンで期待を集めて来日するが期待はずれに終わる。百の顔を持つ男と呼ばれたが実力もマスカラスの10分の1だったようだ。帰国後はナショナル・ヘビー級王者を獲得してトップ・スターとなり、ロス、テキサスにも進出。1987年にはMS1からNWA世界ライト・ヘビー級選手権を獲得する迄に成長した。1990年にはラヨ・デ・ハリスコ・ジュニアにマスクをはがされ、それ以降は素顔で活躍。マスカラ・アニョ・ドスミル、ウニベルソ・ドスミルは弟に当たる。また長男がシエン・カラス・ジュニアとして活躍中。 |