来日全外国人レスラー名鑑

 

サー・ダラ・シン SAR DARA SINGH 2回
●インドの若豹 ●184センチ、110キロ
●1935年 インド・パンジャブ州出身 ●コブラツイスト
35 11(日)【特】日米就航百年記念・春の国際試合、42 6(日) 【特】ゴールデン・S
インドの英雄ダラ・シンの実弟。日本へは単身で初来日。兄と同じくスピードのあるレスリングを披露した。昭和42年にはダラ・シンと共に来日し馬場、吉村組のインター・タッグに挑戦しているが、このダラ・シンは実兄とは別人だといわれている。かなりのテクニシャンでコブラ・ツイストを切り札に使い、インドレスリング特有の複合技を日本で公開した。インドのみならずヨーロッパ、カナダでも活躍した。サー・ダラもインドでは映画俳優として有名で年間10本の主演映画を撮影していたと言う。

 

サージ・デュモン SERGE DUMONT 1回
●恐怖の旋風児 ●196センチ、140キロ
●1947年 カナダ・ケベック州ドラモンドビレ出身
●インターナショナル・ヘビー(モントリオール版)
50 11(国) ビッグ・ウインター・S
フランス系カナダ人で高校時代からアマレスとフットボールをやり、大学卒業時には各方面からスカウトが殺到したという。マッドドッグ・バションにスカウトされてプロレス入り。カナダでは「未来の世界チャンピオン」とか、「ドン・レオ・ジョナサンの再来」といわれていたようだ。モントリオールのレスリングエース(ルージョー派)ではエースとして活躍し、同地区のインターナショナル選手権も獲得している。フランス語ではセルジュ・デュモン。

 

サージェント・スローター SGT.SLAUGTER ( ボビー・スローター*、ボブ・レムス) 4回
●鬼軍曹 ●196センチ、132キロ
●1948年8月27日 米・ミシガン州デトロイト出身(コネチカット州ウィルマ出身説もあり) ●コブラクラッチ
●USタッグ(トライステーツ版)、ジョージア・タッグ、AWA大英帝国ヘビー、セントラルステーツ・ヘビー、USヘビー(ミッドアトランティック版)、NWA世界タッグ(ミッドアトランティック版)、AWAアメリカス・ヘビー、WWF世界ヘビー
50 1国際 新春パイオニアS*、 50 7全日本 サマー・アクション・S、 56 5(新) 第4回MSG・シリーズ、57 8(新) ブラディ・ファイト・S

本名はロバート・ルドルフ・リーマス。1960年にバーン・ガニアにスカウトされてプロレス入り。ボブ・レムス、ボビー・スローターで来日した後、AWA地区でスーパー・デストロイヤー・マーク2に変身し、馬場のPWFヘビー級選手権に挑戦する大抜擢を受けた。夢の中に出てきたという軍曹スタイルに変身して人気爆発。WWFやAWAを股にかけボブ・バックランド、ハルク・ホーガンと抗争を繰り広げ人気を博したが、日本では本領を発揮できずに終わった。ファイトぶりは大味だが基礎はしっかりした実力派。晩年は女子プロレス団体のコミッショナーなどもやっていた。

公式サイトはこちら http://www.sgtslaughter.com/ 

 

ザイール・ビコ ZAIRE BIKO 1回
●褐色の野生児 ●190センチ、97キロ
●1957年 ザイール・キンシャサ出身
●ザイール・ヘビー
56 4(新) WWFビッグ・ファイト・S第2弾
ザイール(旧コンゴ)出身のレスラーで主戦場はヨーロッパだったが、母国でも興行を打っていたようである。日本にも提携間もないヨーロッパ・ルートで来日したが相当に女ぐせが悪く、外人係のミスター・高橋を激怒させ、見かねたダイナマイト・キッドに鉄拳制裁を受けている。ヨーロッパではビコ・ボトワムンゴの名で活躍した。(情報提供:JOE HOOKER SR氏

 

サイクロン・ソト CYCLON SOTO
●ラテンの竜巻男 ●180センチ、105キロ
●1946年 プエルトリコ・サンファン出身 ●ドロップキック
●アメリカス・タッグ
47 2(日) ダイナミック・S、48 3(新) ビッグ・ファイト・S*、 50 5 (全) ブラック・パワー・S*、52 8(全) 第2弾サマー・アクション・S
サイクロンの異名を取る長年に渡りニューヨークとロスを主戦場としたプエルトリコ出身レスラー。外人不足で悩む新日本プロにエースとして参加し、インターフェアがあったとはいえ猪木からフォールを奪った事もある。全日本プロレスへは「偽」ブラック・デビルを名乗って来日したが、デストロイヤーにマスクをはがされ、その後は素顔でファイトした。ロベルト・ソトは実弟。

 

サイクロン・ニグロ CYCRON NEGRO
●台風男 ●188センチ、116キロ
●1932年4月7日 ベネズエラ・カラカス ●ブレンバスター
●テキサス・タッグ、インターナショナル・ヘビー(アマリロ版)、アジア・タッグ、ラテンアメリカ・ヘビー、アメリカス・ヘビー
47 12(全) ジャイアント・S第2弾、58 9(全) ジャイアント・S
日本ではカリプス・ハリケーンとして有名だが、アメリカではほとんどの場合、素顔のサイクロン・ニグロ名義でで活躍していた。1973年にはキラー・カール・クラップによってフリッツ・フォン・エリックが返上したインター・タッグ・タイトルのパートナーに指名されたこともある。(クラップはカール・フォン・スタイガーを指名したという説もある)ロスではラテン・アメリカ王者を名乗りミル・マスカラスの挑戦を受けたが、来日時に同じベルトを持参しブラスナックル・タイトルと公言していたのは不可解。サイン

カリプス・ハリケーンの項も見よ

 

サイド・サイプシャー SAID SAIFSHAH 1回
●192センチ、115キロ
●パキスタン出身  ●パキスタン・ヘビー
30 11(日) アジア選手権大会
元々はプロボクサーだったが1947年にプロレスに転向。オーストラリア、エジプト、ニュージーランド、イギリスなどを転戦。シンガポールではキング・コングと並び称されたほど人気のあったテクニシャン。パキスタン出身でありながらアクラム、アスラム兄弟のボロ一族との接点は見えない。人脈的にダラ・シン寄りだったからであろう。日本遠征後(1968年以前)の動きとしては、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールのメインでダニー・リンチに破れたことくらいである。(情報提供 : JOE HOOKER SR氏)

 

サイレント・マクニー SILENT McKNEY (マスクド・X *)2回
●静かなる男 ●183センチ、110キロ
●1950年 カナダ・オンタリオ州ハミルトン出身
53 1(新) 新春黄金S、54 2(新) ビッグ・ファイト・S、56 10(全)【特】ジャイアント・S*
カナダあたりを主戦場としていたレスラーで、リングネームからも解るように聾唖者のハンデをもつが、これを乗り越え高校卒業後にフレッド・アトキンスに師事。初来日はガマ・シンの代打、2度目も予告無しの来日、3度目の来日は覆面を被ってマスクド・Xとして来日しているが、これは兄弟子であるタイガー・ジェット・シンが各団体に頼み込んで帯同したものであった。2度目の来日時にはデビュー間もない前田明にシュートを仕掛けて返り討ちにあっている。(写真撮影 : HARU一番氏)

 

サニー・マイヤース SONNY MYERS 3回
●ミネソタの砂嵐  ●185センチ、105キロ
●1924年1月22日 米・ミズーリ州セントジョセフ出身  ●回転エビ固め
●NWA世界ジュニアヘビー、ミズーリ・ヘビー、テキサス・ヘビー、セントラルステーツ・ヘビー
35 4(日) 第2回ワールドリーグ戦、35 5(日) プロレス選抜戦(残留)、38 8(日) 【特】夏の国際試合、38 9(日)プロレス秋の国際試合(残留)、41 10(東) ビッグ・マッチ・S
本名はハロルド・カルヴィン・マイヤース。「ミネソタの砂嵐」というニックネームで知られる元NWA世界ジュニア・ヘビー級チャンピオンで、バーン・ガニアとは宿命のライバル関係にあった。アメリカ遠征中のアントニオ・猪木のコーチ役を務め、教え子猪木が東京プロレスを旗揚げした際には、ブッキングも含め全面協力する義理堅さをみせた。日本では力道山のインター選手権に連続挑戦し、一度目は引き分け、二度目は反則負けという成績を残している。カンサスあたりではかなり晩年まで現役選手として活躍していた。

 

サパタ・マルチネス ZAPATA MARTINEZ (ザ・モンゴリアン*)2回
●メキシコの荒熊 ●175センチ、120キロ
●生年月日不明 米・テキサス州エルパソ出身
●USタッグ(デトロイト版)、オクラホマ・タッグ
47 7(新) ニュー・サマー・S、53 4国際 スーパー・ファイト・S *
本名はペドロ・サパタ。メキシコ系レスラーで、覆面レスラーでなければトップになれないメキシコマット界に失望してアメリカに進出したらしい。デトロイト地区でルイス・マルチネスとのコンビでUSタッグを保持していたこともある。1970年以降はテネシーなどでオキ・シキナを名乗って活躍。小鹿、大熊とオリエンタル・トリオで活躍していた。来日当時もオキ・シキナを名乗っていたが、さすがに日本でこの名前を名乗るのは無理があったのだろう、サパタ・マルチネス、もしくはザ・モンゴリアン名義での来日となった。

 

ザ・サベージ THE SAVAGE
●幽霊男 ●188センチ、115キロ
●1938年 チリ・チャチャポヤス(ペルー出身説、メキシコ出身説もあり)
42 1(日)【特】 新春・S
アンデス山脈チャチャポヤスの出身と自称している怪奇派レスラーで、デューク・サベージの前身。カナダのカルガリーを本拠地にしていた。日本での成績はさっぱり。

デューク・サベージの項参照。

 

サミー・バーグ → サムソン・ヘラクレスを見よ

 

サム・スティンボート SAM STEAMBOAT 2回
●褐色の豹 ●180センチ、104キロ
●1934年5月4日 米・ハワイ出身 ●コブラツイスト
●ハワイ・タッグ、テキサス・タッグ、NWA世界タッグ(フロリダ版・ミッドアトランティック版)、南部ヘビー(フロリダ版)、北米ヘビー(ハワイ版)
41 5(日) ゴールデン・S、42 7(国) パイオニア・サマー・S
本名はサミュエル・モクアヒ。エディ・グラハムとのコンビで南部地区の世界タッグ・タイトルを長く保持していたハワイ出身のテクニシャン。ルー・テーズに手ほどきを受けた本格派で、ヒロ・マツダとの因縁が深く、初来日時はアジア・タッグを巡って熱戦を展開したが、二度目の来日では日本人選手不足の国際プロレスの台所事情を目の当たりにして、日本側でファイトしマツダを助けた。シリーズを通して日本陣営に加わったった最初のレスラーである。リッキー・スティムボートはこの男の甥に当たる・・・と公言していたが、実は無関係である事が判明している。(追加情報:TMKID氏)

 

サム・バス → フレッド・バスを見よ

 

サムソン・ヘラクレス SAMSON HERCULES 1回
●偉丈夫 ●186センチ、115キロ
●1926年 カナダ・ケベック州モントリオール出身
39 2(日)【特】春の国際大会
アメリカではサミー・バークとしての方が知名度は高い。ボディ・ビルの出身でミスター・ユニバース・コンテストにも出場した経験がある。なかなかの美男子で映画俳優としても活躍した事があり、女性ファンの人気が高かった。イタリアの女優イボン・デ・カルロと駆け落ちして蒸発したこともある。来日時は完全に全盛期を過ぎており、大した活躍は出来なかった。

公式サイトはこちら http://www.samsonburke.com/

 

サムライ・ウォリアー SAMURAI WARRIOR 1回
●侍戦士 ●194センチ、120キロ
●1960年7月11日 米・ペンシルバニア州フィラデルフィア出身
63 2(新) 88 ビッグ・ファイト・S
来日時はキャリア僅か1年未満グリーンボーイ。ヒロ・マツダにスカウトされて期待されていた。名前からすると、パワー一辺倒のレスラーとして誤解をうけるが、アキレス腱固めなど器用にこなしていたが、キャリア不足を露呈。どの技をするにも中途半端で、唯一、ベアハッグからのフロントスープレックスだけが、プロとして認められる技であった。それもそのはずで、高校時代ペンシルバニア州アマレスチャンピオンであり、外見はS・ウィリアムスとそっくりで、自身も意識してウィリアムスと同じ技を出してた節がある。残念な事に、真似してはいけないウィリアムスの不器用さが一番似てしまったのが、後に来日しなくなった原因の一つではないだろうか。(解説:TMKID氏)

 

ザ・サモアンズ1号、2号 THE SAMOANS # 1&2 5回
●南海の殺し屋 ●1号(アファ)= 188センチ、137キロ、2号(シカ)= 189センチ、130キロ
●1号=1942年11月21日、2号=1945年4月5日 米・東サモア出身 ●ヘッドバット、サモアンスープレックス
●フロリダ・タッグ、WWWFタッグ、IWA世界タッグ(国際プロレス版)、インターナショナル・タッグ(カルガリー版)
52 6(国) ビッグ・チャレンジ・S、53 1(国) 新春パイオニア・S、54 3(国) スーパー・ファイト・S、56 1(新) 新春黄金S、56 11(新)【特】第2回MSGタッグ・リーグ戦
本名は1号がアファ・アノアイ、2号がシカ・アノアイ。カナダやWWWF地区で活躍した何代目かのザ・サモアンズ。アメリカ上陸当初はジ・アイランダーズを名乗り、サンフランシスコやIWAなどで活躍。当時はひげは生やしていなかったようである。日本へは国際プロレスに初来日し圧倒的強さを見せた。2度目の来日では草津、浜口組からIWA世界タッグを強奪。WWWF地区に転出してからは新日本プロレスに移籍し、必殺技サモアン・スープレックス(バックフリップ)で中堅どころを次々と料理したが、北米タッグ奪取はならなかった。見てる方が嫌になるほどタフなコンビだった。よく似ているが双子ではなかったようだ。サイン

 

サル・ベロモ → ベルモ・サルバトーレを見よ

 

サルバトーレ・ロザリオ SALVATORE LOTHARIO 1回
●メキシコの鮫 ●185センチ、110キロ
●生年月日不明 メキシコ出身 ●アメリカス・タッグ
47 3(日) 第14回ワールドリーグ戦
テキサスで人気を博したホセ・ロザリオの実弟で、第13回ワールド・リーグ戦に兄弟揃って来日しているが、白星配給係に甘んじた。アメリカではロス地区でアメリカス・タッグを獲得しているほかは、目立った活躍をしていない。崩壊寸前のロスマットで活躍し「マスカラス2世」と日本でも話題を呼んだキッスは実の息子である。

 

サングレ・フリアー SANGRE FRIA 1回
冷血仮面 183センチ、105キロ
生年月日不明 メキシコ出身
50 4(新) 第2回ワールド・リーグ戦
本名はローマン・サカリアノ。新日本プロレスの第2回ワールド・リーグ戦にメキシコ代表で来日。冷血仮面のニックネームはカッコ良かったが、実力の方はさっぱりで2勝13敗の不甲斐ない成績を残し、猪木の逆鱗に触れ「二度と新日本のリングには上げない!」と宣告されている。それもそのはずメキシコでもローカル・サーキットを続ける3流レスラーであった。シリーズ中に柴田勝久にマスクをはがされているが、素顔を見ても誰も正体は分からず。帰国後、10月にメキシコでもチカノ・パワーと組んだタッグマッチでガジョ・ダパト&アス・チャロに敗れてマスクをはがされている。その後はヘルマノ・ムエルテ1号となるが、これも1978年にマスクをはがされている。

 

サンダー・アレキ SANDOR AREX 1回
28 12(旧全) プロレス国際大試合
詳細は全く不明。情報募集中。

 

サンダー・コバックス SANDOR KOVACS 1回
●雷男 ●181センチ、105キロ
●1915年7月7日 ハンガリー出身 2004年6月30日没
●ハワイ・タッグ、USタッグ(シスコ版)、インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、カナディアン・タッグ(バンクーバー版)
45 2(日) ダイナミック・S、45 2 (日)アイアンクロー・S(残留)
来日時はキャリア20年のベテランで、ハワイ、サンフランシスコといった太平洋岸のマーケットを主戦場としており、海外武者修業中の力道山や遠藤幸吉と闘った事もあるという。当時アメリカではレフェリーとしてリングに上がることも多かったようだ。シングル・プレーヤーとしてよりもツアナ・ヤンダーなる選手とのタッグでの実績の方が上回っていたようだ。昭和55年の全日本プロレス「新春ジャイアントシリーズ」に参加が予定されていたが、キャンセルしている。このときは同じくシリーズ参加が決定していたブロディそっくりの風貌に変身(写真右)していた。経歴はコバックスのものに間違いなかったが、年齢を考えるとこのときのコバックスは別人だったように思われる。

 

サンダー・ザボー SANDOR SZABO 1回
●雷男 ●183センチ、107キロ
●1908年 ハンガリー・ブタペスト ●フロントネック・チャンスリー、ジャイアントスウィング
●世界ヘビー(ミネアポリス版)、パシフィックコースト・ヘビー(シスコ版)、パシフィックコースト・タッグ(シスコ版)、ハワイ・ヘビー
38 4(日) 第5回ワールドリーグ戦
本名レオ・ケレオテス。「雷帝」と呼ばれたハンガリー出身の選手で、1941年6月4日にセントルイスでブロンコ・ナグルスキーを破り、第20代 NWA世界ヘビー級王者になっている。王座転落後はプリモ・カルネラや、ロニー・エチソンとのコンビで西海岸版の世界タッグ王者になっている。来日時は峠を過ぎていたが、さすが元世界王者の貫禄はあったという。フロント・ネック・チャンスリーの元祖で若き日の猪木にもこの技をコーチ。猪木はアントニオ・ドライバーと名づけてフィニッシュにしていた。

 

サンダーボルト・ウイリアムス THUNDERBOLT WILLIAMS 1回
●黒い稲妻 ●187センチ、118キロ
●1944年 トリニダートドバコ出身 ●トリニダードトバコ・ヘビー
56 1(全) 新春ジャイアントS
トリニダート・トバコ出身で、カルロス・コロンのブッキング来日したという無名レスラーで、実力の方も押して知るべし・・・というレスラーだった様だ。トリニダードトバコ・ヘビー級選手権者を自称していたが、タイトル自体存在していたのかも疑問。帰国後の消息はまったくわからない。サイン

 

サンダーボルト・カノン THUNDERBOLT KANNON 1回
●185センチ、130キロ
●生年月日不明 カナダ・オンタリオ州ウインザー出身
48 5(全) ブラック・パワー・S
アブドーラ・ザ・ブッチャーの弟子という触れ込みで来日したが、キャリア不足でまったく話にならなかった。帰国後も消息は聞かれず。恐らくテレビマッチ要員だったと思われる。

 

サンディ・スコット SANDY SCOTT 1回
●空飛ぶ人間爆弾 ●183センチ、105キロ
●1935年 イカナダ・オンタリオ州ハミルトン説 ●コブラツイスト
●インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、カナダ・タッグ(カルガリー版)、NWA世界タッグ(セントラルステーツ版)、IWA世界タッグ(オーストラリア版)
49 7(全) サマー・アクション・S第1弾
本名はアンガス・スコット。イギリス・スコットランド出身といわれたが、実際はカナダ出身だったようである。兄のジョージとのスコット兄弟でアメリカタッグ戦線を荒らしまわった正統派。フット・ボール界からの転向で、本人はフットボールを続けたかったようだが、兄のジョーによって強引にプロレス界に引き込まれたという。来日時は完全に全盛期を過ぎていたものの、渋いレスリングでファンを唸らせたという。1962〜1964年の間にインター・タッグ王者になっている。圧倒的に女性ファンが多かった。来るのが10年遅かったといえよう。2010年3月11日永眠。(情報提供:JOE HOOKER SR氏)