外国人留学生名鑑
アントン・ヘーシンク
ANTON
GEESINK ●オランダの柔道王 ●198センチ、140キロ ●1934年4月6日 オランダ・ユトレヒト出身 ●アルゼンチン・バックブリーカー |
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日本柔道帝国の牙城を崩したオランダの柔道王。昭和48年暮れに鳴り物入りで全日本プロレスに入団するが、全くプロレスのセンスがなくファンも馬場もアキレさせた。柔道ジャケット・マッチでも、相手と手が会わずもたもたした試合をやってファンにもあきれられる。昭和53年のジャンボ鶴田とのUN選手権を最後に日本のリングから姿を消す。同年暮の猪木の欧州遠征の時に対戦が決定していたが、直前に敵前逃亡している。オランダでは銅像が立てられるほどの英雄である。 |
イワン・ゴメス IVAN GOMES ●ブラジルの英雄 ●180センチ、112キロ ●ブラジル・サンパウロ出身 |
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カーウソン・グレーシーに柔術を学んだバーリトゥードの王者だった。昭和49年にブラジル遠征中の猪木に挑戦するが、猪木を試合を実際に見てプロレスに興味を持ち挑戦を取り下げて猪木に弟子入りした。バーリトゥードの王者だけあってさすがに強く、前座相手では連戦連勝。故郷に錦を飾るブラジル凱旋ではストロング小林をKOしている。帰国後しばらくして38歳でこの世を去った。必殺技は掌底攻撃からのフロント・スリーパー。サイン |
エティフィア・ジェラール → ジェリー・モローの項を見よ。
稲妻二郎 → ジェリー・モローの項を見よ。
黒潮太郎(テリー・ハーバード)
TARO
KUROSHIO aka TERRY HARBARD ●200センチ、110キロ ●トリニダードトバコ出身 |
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本名をテディー・ハーバートといい、黒潮太郎はもちろんリングネーム。レイ・ゴールデン・アポロンの依頼で国際プロレスが面倒を見る事となった。体にも恵まれ、ジャック・クレイボーンとのコンビで東南アジアに遠征して力を付け、昭和46年には「第3回IWAワールド・シリーズ」に出場するまで成長した。昭和46年末に帰国。帰国後はアポロンとともに母国のプロレス発展に力を注いだ。昭和47年「ダイナマイト・シリーズ」に2試合のみゲスト出場している。サイン |
ジョン・テンタ
JOHN
TENTA ●196センチ、160キロ ●1963年6月22日 カナダ・ブリティッシュコロンビア州サレー出身 2006年6月7日没 ●UWA世界ヘビー、UWAカナディアン・ヘビー(バンクーバー版)、WWF世界タッグ |
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昭和60年に大学を中退して来日し佐渡ヶ嶽部屋に入門。琴天太、琴天山の四股名で幕下まで昇進し注目を集めたが、相撲界のしきたりになじめず無敗のまま昭和61年に無断で廃業。新日本プロレス、全日本プロレスの両団体に入団の噂が出るが、結局、同年7月28日に全日本プロレスに入門。196センチ、160キロの巨体を生かし活躍。その後WWFでアースクウェイクのリングネームでトップクラスの仲間入りを果たし、WWF世界タッグを獲得。後にWWFを離脱しSWS、新日本プロレス、UWFインターナショナルを経て全日本プロレスに復帰。しかし2006年6月7日に膀胱がんのため若干42歳で逝去した。 |
スミス・ハート
SMITH
HART ●180センチ、95キロ ●米・ニューヨーク州出身 |
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カルガリー地区のドンであるスチュ・ハートの長男。父親の以降で国際プロに留学するが日本ではデビューを飾っていない。帰国後は短期間リングに上がったようだが、弟達に比べ体に恵まれておらずにレスラーを断念。父のプロモート業の手伝いをした。 |
ドナルド・タケシ DONARD TAKESHI ●186センチ、105キロ ●1950年4月25日 シンガポール出身 |
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本名はドナルド・レオ・シン・ボウ。父親はレオ・コン・シインという東南アジアで活躍したレスラーだった。父の指導を受けレスリングに打ち込み昭和43年に日本プロに留学。昭和46年に兵役のために一時帰国。昭和48年に新日本プロレスに再び留学。昭和48〜50年頃までは前座戦線を沸かせたが何時の間にか帰国していた。帰国後の消息は不明。(右写真撮影:花園えびす様) |
パット・タナカ PAT TANAKA ●日系の猛犬 ●182センチ、103キロ ●1963年8月13日 米・フロリダ州タンパ出身 ●CWAインターナショナル・タッグ(メンフィス版)、AWA南部タッグ、AWA世界タッグ |
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黒帯親分と呼ばれたデューク・ケオムカの三男で父が経営するプロモート会社で務めていたが、1983年にレスラーになる事を決意し、その年の暮れに新日本プロレスに留学して4ヵ月の修行期間を経て日本でデビュー。帰国後はポール・ダイアモンドとのコンビでAWA世界タッグ選手権を獲得した。受け身の上手さは絶品であった。 |
ブラック・キャット BLACK CAT ●黒猫 ●180センチ、100キロ ●1954年10月17日 メキシコシティ出身 2003年11月28日没 ●ナウカルパン・タッグ |
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本名ビクトル・マヌエル・マル。メシキコの名レスラーで元NWA世界ミドル級王者スギ・シトの甥に当たり、父親のウロキ・シトもレスラーというレスリング一家の出身。メキシコではクロネコのリングネームで活躍。昭和56年から留学生として来日し、そのまま日本に定着し中堅の重要な戦力となる。若手のコーチなども務めたが、2002年に引退し、レフェリー兼ブッカーとして活躍。しかし2003年11月28日に心不全のため急死。ファンや関係者を悲しませた。 |
プリンス・トンガ(キング・ハク)
PRINCE
TONGA aka KING HAKU ●褐色のプリンス ●189センチ、120キロ ●1959年2月3日 トンガ島ヌクアロフォ出身 ●ドロップキック ●ハワイ・ヘビー、ポリネシアンパシフィック・タッグ、プエルトリカン・ヘビー、WWC北米タッグ、WWC世界タッグ、IWAインターナショナル・ヘビー(モントリオール版)、WWF世界タッグ |
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本名 トンガ・ウリウリ・フィフィタ。トンガ出身で国王の命を受け相撲留学のため昭和48年に来日。翌年、福の島の四股名で初土俵を踏むが、所属していた朝日山部屋の内紛に巻き込まれわずか2年で廃業。しかしそのまま日本に残り、昭和52年全日本プロレスに入門。12月にはアマリロに修行に出かけ、昭和55年に凱旋し、鮮やかなドロップキックで人気を博す。その後、ふたたび渡米し、キングコング・トンガ、キング・ハク、ミングなどのリングネームで活躍。屈指のパワーファイターに変貌した。相撲時代の僚友コンガ・ザ・バーバリアンとのコンビはなかなか手強かった。サイン |
ブルース BRUICE | |
ドナルド・タケシが連れてきた中国系シンガポール人で、本名はグイ・カ・ディー。新日本プロレスの「第1回ワールドリーグ戦」のパンフに登場している留学生。猪木−小林の1度目の対戦の際にもリングサイドにその姿を確認できるが、すぐに脱退したようである。ハワイなどで活躍したキングコング・リーに似ているが、同一人物かどうかは不明。 |
ヤーン・ヘルマンソン JAN HERMANSSON ●173センチ、97キロ ●スウェーデン・ストックホルム出身 |
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スウェーデンからの留学生。昭和47年6月にデビューし、「ダイナマイト・シリーズ」「ビッグ・ウィンター・シリーズ」に出場している。以下、昭和47年の「新春パイオニアシリーズ」の紹介文から抜粋。 「昭和40年6月、合気道の修行留学生として来日、柔道初段・合気道2段を修得した。昭和45年に国際プロレスのジム練習生となる。黙々と練習に打ち込み合格点に辛い社長のお眼鏡にかなったもの。黒潮太郎、稲妻二郎に続いて留学三番手、デビュー戦が楽しみだ。」 |
P・ジェラール P.JERAR | |
昭和46年の国際プロレスの熱戦譜にその名が確認できるが、詳細は不明。 2008.6.1付記:その後の調査で、稲妻二郎の本名エティフィア・ジェラールの誤植と判明。 |