来日外国人レフェリー名鑑

 

 

アントニオ・ロッカ ANTONINO ROCCA
●ニューヨークの帝王 ●179センチ、102キロ
●1927年4月13日 イタリア・トレヴィーソ出身
●インターナショナル・ヘビー(ニューヨーク版、、モントリオール版)、テキサス・ヘビー、AWA世界ヘビー(オハイオ版)、NWA世界タッグ(ニューヨーク版)、WWC北米タッグ

1950〜1960年代にかけて「ニューヨークの帝王」の名を欲しいままにした伝説のレスラー。来日経験がなく幻のレスラーといわれたが、日本へは昭和50年10月に猪木とテーズのNWF世界戦を裁く為に来日し、ようやくその姿を日本のファンの前にあらわした。帰国後ロス地区とプエルトリコで一時現役復帰しているので、若手を相手にエキジビション試合をやって欲しかった。プロレスに立体殺法を導入した点でも重要な人物。世紀の大レスラーも私生活では謎が多く、晩年は「UFOが迎えに来た」と口走るなどの奇行が目立ち、病院で亡くなった時には体が半分にしぼんでいたという。日本では「アントニオ」と紹介されているが、実際は「アントニーノ」である。

 

アンドレ・アドレー → 来日全外国人レスラー名鑑のアンドレ・アドレーの項を見よ

 

ウォーリー堤 WALLY TSUTSUMI
●米・ハワイ州出身 
ハワイで活躍した日系二世のレフェリーで、ハワイの柔道チャンピオンからレスラーに転向しリングに上がっていた。全日本プロレスの旗揚げ「ジャイアント・シリーズ」に参加。これに先立ってホノルルで行われたジャイアント馬場VSザ・シーク戦も裁いていた。ロード・ブレアースからの派遣。インタビューで「父母の国にはじめてこれて嬉しい。これも馬場さんのおかげ」と、来日できたことを非常に感謝していたのが印象的。

 

金震植 KIM JINSIK
●韓国出身
昭和53年2月の全日本・国際・韓国プロレス三団体「全軍激突戦」に韓国側として来日したレフェリー。大阪でラッシャー木村VSジャンボ鶴田という大一番を裁いたが、エキサイトした木村に突き飛ばされてしまった。キビキビしたレフェリングで好評だった。

 

ケン・ハーバー KEN HERBER
●米・テキサス州出身 
全日本プロレスの昭和48年「第1回チャンピオン・カーニバル」に来日したレフェリーで、アメリカではアマリロで活躍。ファンク兄弟の伯父にあたる。ファンク一家の大番頭的存在だったようだ。

 

コシキ・ジーン CORSICA JEAN
●NWA世界タッグ(ミッドアメリカ版、テキサス版)、南部タッグ(ミッドアメリカ版、ガルフコースト版、ジョージア版)、南部ジュニアヘビー(テネシー版)、 テキサス・タッグ、インターナショナル・タッグ(ジョージア版)
本名はジーン・ルイス・ロイ。カール・ゴッチの推薦で昭和49年12月12日に来日しアントニオ猪木VSストロング小林の第二戦のレフェリーを務めた。試合早々小林の足がロープにかかっているのに気付かず、カウント・スリーを入れてしまうポカをやらかし、ファンを大いに興奮させた。来日当時はフロリダでレフェリーをしていたようだ。現役時代はテキサスやシカゴで活躍し、コルシカ・ジーンとして紹介されていた。コルシカ・ジョーとは別人で、ジョーとは「コルシカ・ブラザーズ」なるコンビを組んで、南部一体のタッグ・タイトルを多数保持していた。

 

ジェリー・マードック GERRY MURDOCH
●カナダ出身
ディック・マードックの叔父。WWA時代からロサンゼルスで活躍していたレフェリーで日本へは昭和46年秋に日本プロレスに初来日。47年秋に再来日しそのまま残留してシリーズに参加。吉村道明の引退試合も裁いている。日本プロレス崩壊後は全日本プロレスに移籍。昭和50年頃までサブ・レフェリーとしてマットに上がっていた。

 

ジミー・タナカ JIMMY TANAKA
●米・フロリダ州出身 
デューク・ケオムカの長男で、フロリダではエディ・グラハムの右腕として活躍していた人物。昭和50年の全日本プロレス「サマー・アクション・シリーズ」に来日し、軽快なレフェリングを披露した。

 

ジャック・クレイボーン → レスラー名鑑を見よ

 

ジン・ラーベル → レスラー名鑑を見よ

 

ダニー・プレッチェス → レスラー名鑑を見よ

 

ダニー・ホッジ → レスラー名鑑を見よ

 

ハル佐々木 HARU SASAKI
●1931年 米・ハワイ州出身 2001年5月14日没
●テキサス・ジュニアヘビー、パシフィックノースウエスト・タッグ、ネブラスカ・タッグ、
オレゴン、ワシントンを中心とする北部太平洋岸地区で活躍したレスラーで、日本へは「第2回チャンピオン・カーニバル」にレフェリーとして参加した。シリーズ中に勃発したデストロイヤーとブッチャーの抗争を裁いたが、乱闘に巻き込まれる事もしばしばあった。

 

ハロルド登喜 HAROLD TOKI
●米・ハワイ州出身 
29 2 (日) プロレス国際試合
こちらもハロルド坂田と同じく、ハワイ出身の日系人レスラー。日本名は登喜輝房。1940年にボクシングの全オワフ島フェザー級チャンピオンを獲得、翌1941年にプロに転向。1944年からはプロレスに転向。レスラーとしての足跡は日本では残せてはいないが、力道山と木村政彦の「昭和の巌流島の闘い」を裁いたレフェリーとして日本プロレス史上に名を残している。後にリキ・ボクシングジムのトレーナをを務めたが、力道山と喧嘩別れしている。

 

ビル・パターソン BILL PATERSON
昭和42年の国際プロレス「パイオニア・サマー・シリーズ」に登場したレフェリー。しかしながら経歴など詳細は不明。おそらくヒロ・マツダのルートでの来日。つまりフロリダで活躍したレフェリーではないかと思われる。

 

ボブ・ボックウィンクル BOB BOCKWINKEL
AWA世界王座に長く君臨したニック・ボックウィンクルの実弟で、ロサンゼルス地区で活躍したレフェリー。藤波のWWWFジュニア・ヘビー級選手権試合を何度も裁いており日本でも知名度はあった。日本へは昭和59年4月に旧UWF旗揚げ「オープニング・シリーズ」に参加している。

 

マックス・チェン  MAX CHAN
新日本プロレスの「旗揚げオープニング・シリーズ」に登場したレフェリー。写真から判断するにアジア系にはまちがいないのだが、詳細は不明。

 

ミスター・ヘンリー  MR.HENRY
新日本プロレスの「ニュー・ダイヤモンド・シリーズ」のパンフに登場しているレフェリー。もしかしたら、ユセフ・トルコのいとこと言われるヘンリー・ジャーニーと同一人物か?

 

ラシッド・アンワール RASID ANWARL 
昭和30年11月に行われたアジア選手権に来日したインド系レフェリー。シンガポールあたりで活躍していたレフェリーのようで、リーグ戦のメインレフェリーを務めた。反則を犯すレスラーの耳元でホイッスルをふくというコミカルなスタイルで人気を呼ぶ。これは後に阿部脩が模倣した。ほかにも反則を犯すレスラーの耳を掴んで引き剥がしたり、ドロップキックを食らわせるなど、なかなかショーマンシップの豊かなレフェリーだったようである。

 

リチャード・ムーディ  RICHARD MOODY
当時のNWAのメイン・テリトリーであったセントラル・ステート地区から来日したレフェリーで、ハリー・レイスとは犬猿の仲であったという。全日本プロレスの「ジャイアントシリーズ集結戦」に来日している。

 

ルー・テーズ → レスラー名鑑を見よ

 

レッドシューズ・ドゥーガン REDSHOES DUGAN
●1911年 米・オハイオ州クリーブランド出身 2001年3月26日没

本名はレイ・ギデアム。ロス地区の名物レフェリーで、最も多く来日した外人レフェリーでもあり、初来日は昭和47年の「第14回ワールド大リーグ戦」。その後、新日本プロレスに何度も来日を果たし猪木VSロビンソンの世紀の対決など多くの名勝負を裁いた。元警官だけあり厳粛なレフェリングが好評だったが、力道山VSブラッシーのWWA世界戦のような不透明な采配も行なっている。ライトヘビー級のレスラーとして活躍したこともあった。2001年パーキンソン病のため逝去。(写真撮影:花園えびす様)

 

ユセフ・トルコ USEF TURKO
●1930年5月23日 樺太出身
本名はユセフ・オマール。現役時代はコミカルなファイトで人気を集めた。映画俳優としても活躍。レフェリーに転向後はキビキビしたフェレリングで好評を博す。固め技に入ったときの「もっとやれ」というように腕を振るアクションは筆者のお気に入り。猪木の新日本プロ旗揚げに参加し2年ほどレフェリーと務めるが、猪木と袂を分かって脱退。昭和58年頃から新日本プロレスに再登場するもまたまた喧嘩別れ、猪木へのウラミを綴った暴露本を刊行し話題となる。その後、和解したが2009年時点では猪木と対立しているようだ。俳優のオスマン・ユセフは弟。