来日全外国人レスラー名鑑 コ
コーア・ティキ
KOA TIKI
1回 ●狂える土人 ●185センチ、112キロ ●1940年 米・ハワイ州・ホノルル出身 |
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47 7(新) ニュー・サマー・S | |
ハワイ出身のレスラーでジョージア地区で活躍し、ジン・アンダーソンの腕をへし折ったという触れ込みで、昭和47年新日本プロレスのニュー・サマー・シリーズにはエースとして来日したが、まったくの期待外れ。完全にブラック・ハリケーンズに食われてしまった。しかしジョージアやテネシー地区ではトップ・クラスに名を連ねる活躍をしていた事は確かなようである。その後の調査でなんとキラー・トーア・カマタの実弟であることが判明。世界最強タッグにグレート・カマタとして来日することが決まりかかったが中止となる。 |
ゴージャス・ジョージ・ジュニア
GEORGIOUS GEORGE JR. 1回
●マットの伊達男 ●186センチ、104キロ ●米・カリフォルニア州サンフランシスコ ●パワースラム ●ガルフコースト・ヘビー、ミッドアメリカ・ヘビー、ウエスタンステート・タッグ |
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44 9(国) ロイヤル・S、44 11(国)IWA世界タッグ挑戦シリーズ(残留) | |
1950年代にアメリカで一世を風靡したゴージャス・ジョージの息子という触れ込みで活躍、初代と同じく徹底したショーマン・シップでファンを楽しませたが、未亡人に告訴されている。プロレスラーになる前はロックバンドで活躍していたと言う。日本へは国際プロレスに一度だけ来日。独特のパフォーマンスで人気を集め、シリーズ終了後も残留し次期シリーズにそのまま出場している。レスラー引退後は中部地区でモンゴリアン・ストンバーのマネージャーとして活躍しストンパーと共に来日が予定されていたが、なぜかストンパーに来日を拒まれた。本名はリチャード・フェルプスだったが、ジョージ・ワグナーに改名した。 |
ゴージャス・マック
GEORGIOUS MACK 1回
ネブラスカの野牛 |
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30 1(旧国) プロレス国際大試合 | |
駐留軍人。「ネブラスカの野牛」なるニックネームで木村政彦のカムバック・シリーズ(全3戦)に参加したが、事もあろうに滞在先の帝国ホテルの自室に宝石商を呼び寄せ、そのまま監禁し宝石強盗を働くという不祥事をやらかした。本当にレスラー・ライセンスを持っていたのかも疑わしい不良レスラーであった。昭和28年、夏場所後の花相撲でまわしを締めて土俵に上がった経験もある。出羽の海部屋の幕下力士福井山と対戦、2番続けて投げ飛ばされた。(追加情報:JOE HOOKER SR氏) |
ゴーディ・シン
GURDAYE SINGH 1回
●185センチ、113キロ ●西パキスタン・ラホール出身 |
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51 7(新) アジア・リーグ戦 | ||
パキスタン代表としてアジア・リーグ戦に登場したレスラー。来日当時はカナダのバンクーバーで活躍していた。来日前の宣伝写真(左)では、迫力のある悪党面であったが、来日してみるとそれほどの迫力はなかった。実力の方もサッパリで、シングルでの勝利はリーグ戦予選での柴田戦のみ。若手にもころころ負ける始末であった。 |
ゴードン・アイビー
GORDON IVY 1回 ●186センチ、125キロ ●1942年カナダ・サスカチュワン州 出身 ●インターナショナル・タッグ(カルガリー版) |
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50 11(国) ビッグ・ウインター・S | |
後期の国際プロレスに良く見うけられる3流レスラーの一人。カナダのサスカチェワン出身でカルガリー地区を主戦場としていたレスラー。高校ではボクシングのサスカチェワン地区の王者となり、卒業後にプロボクシングに転向。しかし拳をいためてしまい、スチュ・ハートの薦めでプロレスに転向した。スチーブ・ストロングとのコンビでカルガリー地区認定のインターナショナル・タッグ選手権を獲得している。 |
ゴードン・ネルソン
( ジ・アウトロー*、ミスター・レスリング*) GORDON
NELSON 5回 ●190センチ、105キロ ●1937年3月27日 カナダ・マニトバ州ウィニペッグ出身 ●スープレックス ●アメリカス・タッグ |
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43 6 (国) ビッグ・サマー・S *、44 10 (国) IWA世界タッグ・S、46 3(日) 第13回ワールドリーグ戦、47 5 (日) ゴールデン・S*、48 1(全) 新春ジャイアント・S | |
アマレス時代は多くのタイトルを獲得し、プロ転向後はヨーロッパに遠征しロビンソンと熱戦を展開した。徳光アナが「こいつは本気でやらせたら絶対強いぞ。」と思った言う本格派レスラーで、ジャイアント馬場もそのシュート振りには一目おいていたという、隠れた実力者。特に関節技の巧さは天下一品だったと言う。後にミスター・レスリングに変身しフロリダやロスで活躍。ロスではパク・ソンとのコンビでアメリカスタッグ王座を獲得している。日本でもミスター・レスリングとして大木金太郎のアジア・ヘビー級選手権に挑戦しているが、この時は凶器をふるっての悪党ファイト専門であった。サイン |
コーリン・ジョイソン(コーリン・ジョンソン*) COLIN JOYNSON 4回 ●豆タンク ●180センチ、95キロ ●1947年 イギリス・マンチェスター ●大英帝国ミッド・ヘビー、大英帝国ウェルター |
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43 4(国) 日欧チャンピオン決戦S、44 6(国) ダイナマイト・S、50 1(新) 新春黄金S*、54 1(国) 新春パイオニア・S | ||
17歳でプロレスラーとしてデビュー。ジョイント・プロのブッキングで国際プロレスに来日。初来日当時はスマートであったが、最期の来日では別人のような体系になっていた。地味ながらも試合巧者振りを見せた。ライレー・ジムではみずからも後輩の指導に当たっていたのだから当然の事であるが。 「蛇の穴ビリー・ライレー・ジムで腕を磨き、17歳でプロレス入りして以来・・・」の記述が昭和54年2月号月刊ゴングにあり、名鑑でもこれを採用していましたが、他の資料ではジョイソンが蛇の穴出身の記述はなく、彼が蛇の穴出身である可能性は薄いと考えられます。(special thanks SAKAMOTO様) |
コーリン・ジョンソン COLIN JOHNSON ●豆タンク ●180センチ、95キロ ●1947年 イギリス・マンチェスター ●大英帝国ミッド・ヘビー、大英帝国ウェルター |
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50 1(新) 新春黄金S | ||
国際プロレスに来日したイギリスのコーリン・ジョイソンは、新日本プロレスではなぜかコーリン・ジョンソンと名乗っていた。このシリーズではピート・ロバーツとの英国コンビでテクニシャンぶりを披露。(写真撮影HARU一番様) コーリン・ジョイソンの項も見よ。 |
ゴールデン・ファルコン GOLDEN FALCON ●黄金の隼 ●187センチ、110キロ ●1940年 メキシコ出身 ●アメリカス・タッグ、ミッドアメリカン・ヘビー、インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、WWC世界タッグ |
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52 10 (新) 闘魂S第2弾 | |
なぞの大型マスクマンとして来日したが、正体は日本プロレスに数回来日しているフランシスコ・フローレスが正体だから、この時点ではかなりのロートルであった。開幕戦で坂口とのシングル・マッチに出場したが、グレート・アントニオが乱入した為、試合がぶち壊されてしまい、完全な当て馬となってしまったかわいそうな選手。プエルトリコでもマスクをかぶりメキシカン・エンジェルのリングネームで活躍している。 フランシスコ・フローレスの項も参照のこと。 |
コシロ・バジリ KOSROW VAZIRI ●中近東の魔術師 ●185センチ、108キロ ●1938年3月15日イラン・テヘラン出身 ●原爆固め ●WWFヘビー、WWF世界タッグ、PNWヘビー、PNWタッグ、ミッドアトランティック・ヘビー、英連邦ヘビー(ニュージーランド版) |
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49 4(新) 第1回ワールド・リーグ戦、 51 5(全) NWAチャンピオン・S | ||
イランではアマレスの神様的存在。カール・ゴッチの推薦でプロ転向すぐに初来日。しかしゴング誌では「セミプロという感じ」という辛口批評を受けている。体格も実際は90キロそこそこで体力負けした。AWAに転戦時はプロレス学校のコーチをつとめリック・フレアーなどを育てた。5年後にアイアン・シークに変身して大ブレーク。しかしこれほどまじめだった男が麻薬の不法所持で逮捕されるのだから人間というのは解らない。得意技は原爆固め。(写真左撮影:花園えびす様) アイアン・シークの項も参照の事。 |
ザ・コマンド1号、2号
THE COMMAND 1&2
1回 ●1号 190センチ、110キロ、2号 188センチ、108キロ ●メキシコ出身 |
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50 6(国) ビッグ・サマー・S | ||
メキシコで活躍したマスクマンコンビで、1号がアンドレス・ロドリゲス、2号がイグナシオ・ラミレス。来日前のプロフィールでは身長はそれぞれ190センチ、188センチとなっていたが、実際は180センチそこそこしかなかった。IWA世界タッグを狙っての来日だったが、ジョニー・クイン、ギル・ヘイズ組に挑戦権を奪われている。 |
ゴリラ・マコニー GORILLA MARCONI 1回 | |
37 8(日) 【特】秋のプロレス国際試合 | |
本名はフランク・マッコーニ。かなりのベテラン・レスラーで、ゴリラ男のニック・ネーム通り全身が毛に覆われた野人キャラクター。来日中はスカル・マーフィーとのコンビで大いに気を吐いた。マーフィーの本来のパートナーであるブルート・バーナードが極度の遠征嫌いであったため、代打として指名されたようだ。テレビ番組「チャンピオン太」のタイトルバックに力道山と戦う姿を見ることができる。1997年3月1日没。 |
ゴリラ・モンスーン GORILLA MONSOON (ジノ・マレラ*)
5回 ●人間台風 ●195センチ、158キロ ●1937年6月4日 米・バーミンガム出身 1999年10月6日没 ●ジャイアント・スウィング ●WWA世界タッグ(ロス版)、WWWF・USタッグ、IWA世界ヘビー(オーストラリア版)、北米ヘビー(プエルトリコ版) |
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38 4 (日) 第5回ワールドリーグ戦*、41 9(日) ダイヤモンド・S、44 4(日) 第11回ワールドリーグ戦、47 3(日) 第14回ワールドリーグ戦、49 5(全) MSG・シリーズ | ||
本名はロバート・マレラ。初来日は昭和38年の第5回ワールドリーグ戦、当時のリングネームはジノ・マレラで、帰国後辣腕マネージャー ワイルド・レッドベリーのアドバイスに満州人を名乗りモンスーンに改名、ニューヨークやロスで大いに売りがしたが、ビッグ・タイトルには恵まれなかった。馬場とは公私にわたっての親友で、フリッツ・フォン・エリック戦を前にした馬場にアイアン・クローのディフェンスをコーチしている。WWWF王者時代のペドロ・モラレスのマネージャーを経た後、1970年代後半からはビンス・マクマホンに誘われWWFのフロントに。 1999年腎不全による心臓発作のため逝去。サイン |
コルシカ・ジョー CORSICA JOE 1回
●恐怖のジプシー ●186センチ、110キロ ●1920年1月17日 コルシカ島出身 ●ミッドアメリカ・タッグ、テキサス・タッグ、テキサス・ヘビー |
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47 2(日) ダイナミック・S | |
本名はフワンソワーズ・ミケット。アルゼンチンでプロレス・デビューし、スカンドル・アクバ、ジョニー・コスタスなどとの抗争で名を挙げた。ゴリー・ゲレロとのコンビで活躍しテキサス・タッグ選手権を保持したこともある。コルシカ・ジーン(コシキ・ジーン)、ロレンゾ・パレンテとのコンビでも有名。平気でメリケンサックで相手の額を叩き割るといった悪党だった。ただし来日当時は完全にピークをすぎていた。女子レスラーのサーラ・リーと結婚している。2010年3月14日永眠。 |
コルト・スティール COLT STEELE 1回 ●荒くれ牧童2世 ●188センチ、110キロ ●1964年 米・ノースカロライナ州シャーロッテ |
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62 7(全) 87 サマー・アクション・S | |
元々はボディー・ビルダーとして鳴らした選手で、1985年にネルソン・ロイヤルに弟子入り。翌年にはデビューし、馬場がロイヤルに預けていた輪島のスパーリング・パートナーとなる。その時のお礼も兼ねて(?)全日本プロレスに一度だけお呼びがかかった。アメリカでは師匠ロイヤルのパートナーとして活躍した。 |
コロソ・コロセッティ COLOSO COLOSETTI (カルロス・コロセッティ
*) 2回 ●アルゼンチンの星 ●パンパの殺人者 ●186センチ、110キロ ●1946年 アルゼンチン・サンチャゴ出身 ●変形ゆりイス固め ●NWA世界ライトヘビー、アメリカス・タッグ |
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53 4(新) 第1回MSGシリーズ *、 57 3(新) 第5回MSGシリーズ | |
アルゼンチン出身のレスラーで、アメリカ大陸はもちろん、ヨーロッパ、パキスタンなどに遠征したさすらいのレスラーで、1969年メキシコでレイ・メンドーサからNWA世界ライト・ヘビー級王座を若干26歳で獲得し、メキシコをホーム・リングに定着する。1972年頃にはロスにも進出し、ハンサムな風貌で人気を得た。新日本プロレスへはロスからのルートで参加している。藤波のWWWFジュニア・ヘビー級タイトルに挑戦したときには乱入した上田馬之助を藤波とともに撃退するという正義漢なところも見せ付けた。第5回MSGシリーズではリーグ戦には参加しなかった |
コンガ・ザ・バーバリアン
CONGA
THE BARBARIAN 5回 ●褐色の悪魔 ●183センチ、120キロ ●1958年9月6日 トンガ島出身 ●WWF世界タッグ |
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60 10(新)【特】 バーニングスピリット・イン・オータム、61 1(新) 闘魂・S、62 1(新) ニューイヤー・ダッシュ87、62 5(新) 87 lWGPチャンピオン・S、62 1(新) 闘魂S | |
本名はシオーネ・バビア・ビラヒ。トンガの出身で幸の島の四股名で将来を期待された力士だったが、親方の不祥事のあおりを食って廃業。同じ力士出身のプリンス・トンガの活躍に刺激されてレッド・バスチェンのコーチを受けて、プロレスに転向。全米をサーキットした後、プエルトリコに定着。かなり気性が激しく、日本でもスティーブ・ウィリアムスと仲間割れを起こし、シングルで激突している。直線的ファイトの為、藤波のようなタイプにはあっさりと料理されるととこがあった。 |
コンデ・マキシミリ CONDE MAXIMILLANO 1回
●人食い人種 ●175センチ、120キロ ●1928年 ペルー出身 ●ハングマンズ・ホールド |
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45 3(国) 第2回IWAワールド・S | |
ペルー出身だが、なぜかベルギー代表として第2回IWAワールド・シリーズに参加。人食いインディアンの末裔という物騒な触れ込みでの来日だった。実際そのファイト振りも殴る、蹴る、噛み付くといった原始的なもので、人食い人種さもありなんといった印象を与えたという。シリーズ中にストロング小林の保持するUSA選手権に挑戦するが完敗している。 |
ザ・コンバット = マイク・マーテル、ピエール・マーチンをみよ
ザ・コンビクト THE CONVICT 1回
●囚人男● 214センチ、180キロ ●1937年8月16日 米・ジョージア州出身(ミシシッピ州出身説もあり) ●ベアハッグ、凶器攻撃(ベルトのバックル) |
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45 4(日) 第12回ワールドリーグ戦 | |||
今や伝説の覆面レスラーといっても良いだろう。ガススタンドで働いている所をチャック・ドノバンにスカウトされ、フレッド・ブラッシーのマネージメントでシンシン刑務所から脱獄してきたという囚人キャラクターのザ・コンビクトとしてデビューした。正体は後にザ・プラウボーイ、アンクル・エルマーとしても活躍したスタン・フレーザー(写真右)。特異なキャラクターは漫画タイガー・マスクでも残虐レスラーとして大きく取り上げられたが、実物はエース級には全く通用しない期待外れレスラーであった。当初日本の雑誌ではザ・コンベクターやカンビクトと表記されていた。 |