来日全外国人レスラー名鑑  ホ2

 

ボブ・アームストロング BOB ARMSTRONG (ジム・ドランゴ*)
人間鉄塊 189センチ、112キロ
1939年10月3日 米・ジョージア州クーガークリーク出身 フルネルソン・スウィング
メイコン・タッグ、ジョージア・タッグ、南部ヘビー(ジョージア版)、サウスイースタン・ヘビー、アラバマ・ヘビー
43 8 (日) 第二次サマー・S、47 3 (新) 旗揚げオープニング・S
本名はジョセフ・ジェームス。ブラッド、スコット、スティーブ、ブライアンのアームストロング4兄弟の父親。アトランタ出身で地元ではプロレスラーの傍ら、空軍の格闘技指導員やスポーツ・ジムでウエイト・リフティングのコーチなどもしていた。初来日の前年にはNWAのルーキー・オブ・ザ・イヤーに選出されている。対戦相手をフルネルソンにとらえそのまま回転するネルソン・スイングという荒技を公開して話題を呼んだ。初来日から4年後にはカール・ゴッチのブッキングでジム・ドランゴに名を変え新日本プロレスの旗揚げシリーズにエースとして参加している。

 

ボブ・ウィンダム BOB WINDHAM
●黒い猛牛 ●200センチ、120キロ
●1942年11月26日 米・テキサス州ルームショー出身 ●ジャンピング・エルボーアタック
●IWA世界タッグ(国際プロ版)、WWA世界タッグ(インディアナ版)、WWWFタッグ、インターナショナル・ヘビー(アマリロ版)、USヘビー(ノースカロライナ版)、EWU世界スーパー・ヘビー、USタッグ(フロリダ版)
45 11 (国) ビッグ・ウィンター・S
1970年度AWAのルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝き、その実績を買われラリー・ヘニングのパートナーとして初来日、IWA世界タッグ選手権をサンダー・杉山、グレート・草津組から奪取、わずかデビューから2年目での快挙であった。帰国後WWWF地区に転戦しブラックジャック・マリガンに改名、ペドロ・モラレスに挑戦するが敗退した。

その後の詳細はブラックジャック・マリガンの項参照。

 

ボブ・エリス → カウボーイ・ボブ・エリスを見よ。

 

ボブ・オートン BOB ORTON 3回
●ビッグO ●192センチ、118キロ
●1929年7月21日 米・カンサス州カンサスシティ出身 ●パイル・ドライバー
●ミズーリ・ヘビー、サウスウエスト・ヘビー、南部ヘビー(フロリダ版)、ネブラスカ・ヘビー、AWAミッドウエスト・ヘビー、北米ヘビー(セントラルステーツ版)
30 7 (日) プロレス国際試合、35 2 (日)プロレス春の国際試合 、35 4 (日)第2回ワールドリーグ戦(残留)、50 1 (国) 新春パイオニア・S
カウボーイ・ボブ・オートン、バリー・オートンの父親。1943年にトニー・ステッカーにスカウトされてプロレス・デビュー。地元カンサスでルー・テーズやバディ・ロジャースと熱戦を繰り広げた事で知名度を上げた。またマスクを付けたビッグ・Oとしても有名である。晩年はロス地区でマスクを被りザ・ゾディアックを名乗ってサーキットした。若手時代のヒロ・マツダにレスリングの基礎をコーチしたとも言われている。息子のジュニア、バリーもレスラーになっている。サイン

 

ボブ・オートン・ジュニア BOB ORTON JR.
●アーバン・カウボーイ ●195センチ、117キロ
●1950年11月30日 米・カンサス州カンサスシティ出身  ●バックドロップ・ホールド
●フロリダ・ヘビー、サウスウェスト・ヘビー、ICWTVヘビー、南部ヘビー(UWF版)
50 4 (全) 第3回チャンピオン・カーニバル
ボブ・オートンの長男で、初来日時にはジュニアを名乗っていた。この初来日で、ザ・ブルーザーやキラー・コワルスキーといった強豪に混じりもまれたことが飛躍につながったという。

詳細はカウボーイ・ボブ・オートンの項参照。

 

ボブ・オストン BOB OSTON 1回
28 12 (旧全)プロレス国際大試合
おそらく在日米軍兵だと思われるが、詳細などはまったく不明。

 

ボブ・カーセン  BOB CARSEN
●悪魔の使者 ●178センチ、123キロ
●1940年 カナダ・アルバータ州カルガリー ●アバランシュホールド、パイツドライバー
●インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、北米タッグ(セントラルステーツ版)、ガルフコースト・ヘビー、セントラルステーツ・ヘビー、セントラルステーツ・タッグ、USヘビー(シスコ版)、トライステート・ヘビー
46 5 (日) ゴールデン・S
ボブ・スウィータンの前身。昭和44年にKOコックスの名で国際プロレスに来日が決定しながら、スケジュールの都合でキャンセルしたが、実際には日本プロレスの妨害による来日中止だったといわれている。来日前はアリゾナを主戦場としていた。この初来日では大木のアジア・ヘビーに挑戦しているが惜敗。

ボブ・スウィータンの項参照。

 

ボブ・ガイゲル BOB GEIGEL 2回
●禿げ鷹 ●185センチ、114キロ
●1930年 米・テキサス州出身
●サウスウエスト・ジュニア・ヘビー、サウスウエスト・ヘビー、北米ヘビー(アマリロ版、セントラルステーツ版)、USヘビー(セントラルステーツ版)、AWA世界タッグ、セントラルステーツ・ヘビー、NWA世界タッグ(セントラルステーツ版)
49 1 (全)【特】新春NWA・S、51 5 (全)【特】 NWAチャンピオン・S
来日時はボブ・ジーゲルの名で紹介されていた。体中毛むくじゃらの獣人キャラだが、マニアの方はご存知のようにレスラーであると共に中西部地区のプロモーターでもあり、短期間ではあるがNWAの会長も務めたアメリカ・マット界の実力者だった。レスラーとしてはタッグが得意で、ハードボイルド・ハガティ、スタン・コワルスキーとのコンビでAWA世界タッグを獲得。アメリカ遠征中の佐藤昭男とのタッグで中西部タッグを獲得した事もある。

 

ボブ・グリフィン BOB GRIFFIN 3回
●南部の若獅子 ●180センチ、107キロ
●1944年 米・フロリダ州ジャクソンビル出身 ●パイルドライバー
●ブラスナックル・ヘビー(アマリロ版)、ガルフコースト・ヘビー
45 5 (日) 第1次ゴールデン・S、47 2 (日) ダイナミック・S、49 6 (国) ビッグ・サマー・S
ジョージア大学時代はアマレスでAAU大会のスターだった。卒業後ドン・カーチスの誘いでプロレス入り。ホームリングのフロリダではジャック・ブリスコとの死闘で名を挙げた。昭和47年のシリーズでは大木金太郎のオールアジア選手権に挑戦する待遇を受けている。性格的に控えめだったためトップにはなれなかったと言われている。

 

ボブ・ジーゲル → ボブ・ガイゲルを見よ

 

ボブ・スウィータン (ボブ・カーセン*) BOB SWEETAN 3回
●絞殺魔 ●178センチ、123キロ
●1940年 カナダ・アルバータ州カルガリー ●アバランシュホールド、パイツドライバー
●インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、北米タッグ(セントラルステーツ版)、ガルフコースト・ヘビー、セントラルステーツ・ヘビー、セントラルステーツ・タッグ、USヘビー(シスコ版)、トライステート・ヘビー
46 5 (日) ゴールデン・S*、56 1 (国) 新春パイオニア・S、59 4 (旧U) UWFオープニング・S
「絞殺魔」の異名を持つラフ・ファイターで、デビュー当時はKO・コックスと名乗り、カンサス地区でキラー・カール・コックスとのコックス・ブラザーズで売り出す。ボブ・カーセン時代はカナダで北米選手権も獲得している。後にボブ・スイータンに改名し、サンフランシスコや中西部地区で売れっ子となる。昭和56年には10年ぶりに国際プロレスに来日しルー・テーズ杯争奪戦に参加。3年後にはユニバーサルの旗揚げシリーズに来日し、若い高田あたりを痛めつけた。

 

ボブ・スタンレー → カール・ハイジンガーを見よ

 

ボブ・ダラセーラ (ザ・UFO *、カール・ステイナー**) BOB DELLA SERRA 6
●180センチ、110キロ
●1951年3月3日 カナダ・ケベック州モントリオール出身  ●ハングマンズホールド
●パシフィックノースウエスト・タッグ、北米タッグ(プエルトリコ版、フロリダ版)、WWC世界タッグ
51 7 (国) ビッグ・サマー・S*、 53 1 (国) 新春パイオニア・S、54 4 (国) ビッグ・チャレンジ・S*、59 7 (旧U) UWF無限大記念日*、59 8 (旧U) ビクトリー・ウイークス 、60 10 (新) バーニングスピリット・イン・オータム **
カナダ出身のレスラーで高校時代はオンタリオ地区のアマレスチャンピオンになっている。高校卒業後プロフットボーラーとして活躍しているところを、ブッチャー・バションにスカウトされてプロレス入り。しかし素顔を隠すためにマスクを被りザ・UFOを名乗った。以後素顔になり本名のボブ・ダラセーラを名乗るが、素顔でもザ・UFOを名乗る事もあった。1980年代にはボブ・ヘッファナン、ジョニー・ヘッファナンを名乗りドン・ケントとのニューカンガルーズで、フロリダやプエルトリコで活躍した。最後の来日では坊主頭にカイゼル髭のナチ・ギミックのカール・ステイナーに変身している。ブレーンクロー、ハングマンズ・ホールドなどダイナミックな技を得意としていた。

 

ボブ・チャンバート BOB CHAMBERT 1回
●181センチ、120キロ
●カナダ・ケベック州出身 ●原爆固め
46 10 (国) ビッグ・チャレンジ・S
カナダのケベック州出身で、高校時代には「百年に一人の逸材」と言われた天才レスラー。アマチュア時代の1962〜1965年のAAU大会に連続優勝1966年には大英帝国選手権に優勝、1967年パン・アメリカン選手権で銀メダル、メキシコプレ五輪では4位に入賞、翌年の五輪では7位入賞、生涯勝率9割と言う驚異的な記録を持っている。バーン・ガニアにスカウトされてプロレス入り。初来日でも無名ながら原爆固めを始めとするテクニックの豊富さで話題を集めた。ガニアが「彼の試合を見ないと必ず後悔するだろう」と言って将来性を大いに期待していたが、プロレスの世界にはなじめなかったようだ。忘れられた強豪の一人。

 

ボブ・バックランド BOB BACKLUND 18回
●超新星、天才児 ●193センチ、115キロ
●1950年8月14日 米・ミネソタ州ブリンストン出身 ●原爆固め、アロミック・ドロップ
●ジョージア・タッグ、フロリダ・タッグ、ミズーリ・ヘビー、WWWFヘビー、WWFタッグ、WWF世界ヘビー、
49 7 (全) サマー・アクション・S第1弾、50 1 (全) 新春ジャイアント・S、50 2 (全) エキサイト・S、53 4(新)【特】第1回MSGシリーズ、53 7(新)【特】サマー・ファイト・S、53 12(新)【特】プレ日本選手権、 54 10(新)【特】闘魂S、55 4 (新)【特】第3回MSG・シリーズ、55 8 (新)【特】ブラディ・ファイト・S、55 9 (新) 9・31ファン感謝スーパーファイト、55 11 (新)【特】第1回MSGタッグ・リーグ戦、56 4 (新)【特】WWFビッグ・ファイト・S第2弾、56 5 (新)【特】第4回MSG・シリーズ、57 1 (新) 1・1三大スペシャルマッチ、 57 7 (新)【特】サマー・ファイト・S 第2弾、59 8【特】(新) ブラディ・ファイト・S、60 5 (新)【特】 lWGP&WWFチャンピオン・S、63 12 (U) 12・22 HEART−BEAT UWF
本名はロバート・リー・バックランド。ノースダコタ大学時代はAAU大会で5回の優勝実績を誇り、1972年にドリー・ファンク・JRにスカウトされてプロレス入り。キャリアわずか3年でハリー・レイスからミズーリ州へビー級選手権を獲得し、次期世界王者の最右翼と呼ばれた。しかし1977年にWWWFに転戦、ここでスーパースター・ビリー・グラハムからWWWFヘビー級選手権を獲得、途中短期間アントニオ猪木に王座を明け渡したが、1983年にアイアン・シークに奪われるまでMSGの帝王に君臨した。パワーにテクニックをミックスした新世代の王者と評価は高かったが、地味な試合が多く地方の会場での集客力は低かったと言われている。(写真撮影;花園えびす様)

 

ボブ・ブーシェ BOB BOUCHER 1回
●カナダの流血熊 ●178センチ、105キロ
●カナダ・ケベック州出身
●プエルトリコ・ヘビー、マリタイム地区タッグ
52 11 (国) ダイナマイト・S
カナダのケベック出身で、主戦場もカナダのノーバスコシア地区が中心だった。19歳でデビューし、いきなり同地区の北米ジュニア・ヘビー級選手権を獲得した。その後プエルト・リコにも遠征し、プエルト・リコ・ヘビー級選手権者にもなっている。理想的な体格に恵まれていたが、ローカル・レスラーのまま終わった。

 

ボブ・ブラウン BOB BROWN 6回
●猛犬 ●184センチ、120キロ
●1938年10月16日 カナダ・マニトバ州ウィニペグ出身(テネシー説もあり) ●バックブリーカー
●北米ヘビー(セントラルステーツ版、マリタイム版)、セントラルステーツ・ヘビー、パシフィックコースト・ヘビー(バンクーバー版)、カナディアン・タッグ(バンクーバー版)、
48 2 (全) ジャイアント・S結集戦、50 1 (全) 新春ジャイアント・S、52 5 (全) NWAチャンピオン・S、56 2 (全) エキサイト・S、59 3 (全) グランド・チャンピオン・カーニバルT、 60 3 (全) 85激烈!スーパー・パワー・ウォーズ
ブルドッグのニックネームで知られるラフ・ファイターで中西部地区で長くトップレスラーの座にあり、16度もセントラル・ステーツ選手権を獲得している。悪党とはいえ凶器などは使わず、頑丈な体で相手を痛めつける中西部地区に多く見られるタイプのレスラーであった。ザ・ケンタッキアンズのルーク・ブラウンとは従兄にあたると言われていたがこれはギミックであった事が最近になって判明した。(追加情報 : JOE HOOKER SR氏) サイン

 

ボブ・ブラッガーズ BOB BRUGGERS 1回
●185センチ、110キロ
●1944年4月20日 米・ネブラスカ州リンカーン出身
●ミッドアトランティック・タッグ
48 9 (国) 第5回lWA・ワールド・S
本名はロバート・ユージン・ブラッガーズ。アマレス出身でバーン・ガニアにスカウトされてプロレス入り。IWAワールド・シリーズのリーグ戦では不戦勝を除いては全敗に終わったものの、気性が激しく、マッドドッグ・バションに将来性を高く評価されていた。ケン・パテラ、リック・フレアーとともにAWAの若手三羽烏と呼ばれていたが、このブラッガーズだけは大成せぬまま1975年に飛行機事故にあいレスラー人生を終えてしまった。

 

ボブ・ボイヤー BOB BOYER (ボビー・ボルト・イーグル *)4回
小型爆弾 185センチ、102キロ
1932年 カナダ・オンタリオ州トロント出身 ボーアンドアロー・バックブリーカー
●テキサス・ジュニア・ヘビー、USジュニアヘビー(ジョージア版)、ミシシッピ・ヘビー、アラバマ・ヘビー
41 9 (日) ダイヤモンド・S、44 1 (日) 新春チャンピオン・S、47 4 (新) オープニング・S第2弾、48 9 (新) 闘魂S*
カナダ出身。レスラーになる前は船乗りをしていたが、趣味で始めたレスリングの虜となりプロレスラーに転向。スピードとテクニックはなかなかのもので「小型ダニー・ホッジ」とも呼ばれた。新日本プロレスに初参加の翌年にはインディアン・ギミックのボビー・ボルト・イーグルとして再来日して関係者を驚かせた。昭和41年の来日時はゴリラ・モンスーンにポーカーでファイト・マネーをごっそり巻き上げられたと言う気の毒なエピソードも残している。

 

ボブ・マーカス BOB MARKUS 1回
●185センチ、105キロ
●1958年 カナダ・オンタリオ州バーリントン出身
53 4 (国) スーパー・ファイト・S
高校時代はアマレスとフットボールの選手として地元ではヒーロー的な存在だったと言う。卒業後トロントのプロモーターであるフランク・タニーにスカウトされてプロレス入りした。ベビーフェイスの選手なのに来日第1戦でいきなりアニマル浜口との金網でスマッチという試合を組まれたが臆することなく、これをこなしていた。帰国後はこれといって活躍したというニュースは入ってこなかった。

 

ボブ・マンフリー BOB MANFLIE 駐留軍人
29 2 (日) プロレス国際試合、30 12 (旧国) プロレス国際大試合
ピンチヒッター的にシャープ兄弟らに加わった。軍隊ではアマレスのチャンピオンであったため、スピーディで小気味よいファイトを見せた。飛び入り組では最強の男と言われている。(昭和45年別冊ゴング6月号来日外人レスラー名鑑より:情報提供管様)

 

ボブ・ミラー BUTCH MILLER ( ザ・タイガー *、ニック・カーター**、ブッチ・ミラー#) 4回
●極悪羊飼い ●180センチ、110キロ
●1944年10月21日 ニュージーランド・オークランド出身
●インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、パシフィックノースウエスト・タッグ、カナディアン・タッグ(バンクーバー版)、ミッドアトランティック・タッグ
48 1 (新) 新春バッファロー・S *、49 9 (国) スーパー・ワイド・S**、54 5 (全) スーパー・パワー・S、62 2 (新) スプリング・フレアーアップ 89 #
ニュージーランドの出身で、ボブ・ミラーが本名。この男も来日するたびに改名しているが、最終的にはブッチ・ミラーに落ちついたようだ。レスラーになる前はラグビー選手として活躍し、5年連続でナショナルチームに選抜されている。1968年にプロレス入りし当初は地元で活躍したが、1973年にカナダに渡り同郷のルーク・ウィリアムスとザ・キウィズを結成、すぐに同地区のインタータッグを獲得、その後一時タッグを解消したが、再びシープハーターズとしてチームを再結成。各地を転戦した後WWFで大ブレイクした。

 

ボブ・ラムステッド BOB RAMSTEAD 2回
●コロラドの若駒 ●190センチ、119キロ
●1943年 米・コロラド州デンバー出身
●南部タッグ(ミッドアメリカ版)、カナディアン・タッグ(バンクーバー版)、カナディアン・ヘビー(バンクーバー版)
46 2 (日) ダイナミック・ビッグ・S、48 4 (国) ダイナマイト・S
大学時代にAAUのヘビー級王者となり、バーン・ガニアにスカウトされてプロレス入り。1965年のAWAの新人王になっている。193センチ、120キロという巨体を生かしきれなかったのが致命傷だった。カナダではバック・ラムステッドの名で長く活躍した。

 

ボブ・ループ BOB ROOP 3回
●五輪の虎 ●186センチ、130キロ
●1942年 米・バージニア州ブラックスバーグ出身 ●ショルダーバスター
●南部タッグ(フロリダ版)、フロリダTV、フロリダ・ヘビー、フロリダ・タッグ、NWA世界タッグ(シスコ版)、USヘビー(シスコ版)、ICW南部タッグ、ルイジアナ・ヘビー、北米ヘビー(ミッドサウス版)
45 9 (日) 第1回NWAタッグリーグ戦、49 7 (全) サマー・アクション・S第1弾、54 1 (新) 新春黄金・S

アマレス全米五輪代表で日本へは日本プロレス、全日本プロレス、新日本プロレスの順でそれぞれ1回づつ来日。特に印象に残っているのは、昭和54年「新春黄金シリーズ」にボリス・マレンコをマネージャーに来日した時であろう。この時はエースのジョニー・パワーズを押さえて猪木のNWF王座に挑戦、がちがちのストロングファイトで猪木を大いに苦しめたが、スタミナ切れ直前でマレンコが乱入し消化不良の結末となった。文句なく強かったがファイトスタイルが余りにも地味なため、ファンの受けは悪かった。また昭和49年の来日でも馬場からショルダーバスターでフォールを奪う金星を挙げている。

 

ボブ・レムス BOB REMUS
ミネソタの新星 ●196センチ、132キロ
●1948年8月27日 米・ミシガン州デトロイト出身(コネチカット州ウィルマ出身説もあり) ●コブラクラッチ
●セントラルステーツ・ヘビー、USヘビー(ミッドアトランティック版)、WWF世界ヘビー
50 7 (全) サマー・アクション・S
ボブ・リーマスが正確な発音。ボビー・スローター時代と同じ愛国者ギミックであった。後のサージェント・スローターの若き日の姿である。

詳細はサージェント・スローターの項参照。

 

ボボ・カーン BOBO KAHN 1回
35 7 (日)プロレス夏の国際試合
昭和35年に来日した謎の黒覆面。アメリカでは素顔でファイトしていた事もあったようだが、詳細は不明。

 

ボボ・ブラジル BOBO BRAZIL 15回
●黒い魔人 ●195センチ、127キロ
●1924年7月10日 米・ミシガン州ペントンハーバー出身 1998年1月20日没 ●ココバット
●インターナショナルTV(ロス地区)、パシフィックコースト・ヘビー(ロス版)、オハイオ・ヘビー、オハイオ・タッグ、NWA世界タッグ(シスコ版、デトロイト版)、AWA・USヘビー、WWWF・USヘビー、WWA世界ヘビー(ロス版、インディアナ版)、USヘビー(デトロイト版、シスコ版、ミッドアトランティック版)、インターナショナル・ヘビー(日本プロレス版)、アメリカス・ヘビー
32 8 (日) 秋の国際試合、43 6 (日) ゴールデン・S、44 4 (日) 第11回ワールドリーグ戦、45 1 (日) 新春チャンピオン・S、 47 1 (日) 新春チャンピオン・S、47 6 (日) 【特】第一次ゴールデン・S、47 11 (日) 【特】 インター選手権・S、48 2 (全)【特】ジャイアント・S結集戦、48 8 (全)【特】ワールド・チャンピオン・S、50 2 (全) エキサイト・S、50 5 (全) ブラック・パワー・S、 51 8 (全) ブラックパワー・S、52 10 (全) ジャイアント・S、53 10 (全) ジャイアント・S、54 8 (全) ブラック・パワー・S
本名はヒューストン・ハリス。野球のニグロ・リーグを経てプロレス入りしたあたりはライバルであったジャイアント馬場を同じ経歴を持つ。黒人レスラーの地位向上に貢献し、人種差別の激しいアメリカでも一目置かれた文字どおりの超一流レスラー。日本での実績もすばらしく、日本プロの宝であるインターナショナル選手権を二度にわたって腰に巻いている。長身から繰り出すココ・バットはプロレス以上屈指の必殺技。しかし晩年はブッチャーに造反にあったり、花束にかぶり付くなどイメージを落とした。1998年1月20日に他界、日本で一般紙でその訃報が報じられた数少ない外人レスラーである。 サイン

 

ボリス・マレンコ → グレート・マレンコを見よ

 

ボロ・モンゴル BOLO MONGOL
モンゴルの巨人
196センチ、140キロ 米・ペンシルバニア州ブラウンズビル出身 ●蒙古式ベアハッグ
IWA世界タッグ(アメリカ版)
49 4 (新) 第1回ワールド・リーグ戦、51 7 (新) アジア・リーグ戦

ベポ・モンゴルの負傷でコンビを解消したジート・モンゴルが探し出したモンゴルズ3号で正体は後のマスクド・スーパースターのビル・イーディーであった。新興団体IWAやNWF、ジョージア地区で活躍した。初来日時はベーポよりも体格も大きく期待を集めたが、キャリア不足で期待を裏切った。

マスクド・スーパースターの項も参照の事。

 

ホワン・ラマス JUAN RAMUS 1回
●メキシコの虎 ●186センチ、105キロ
●1934年 メキシコ・ザカテカス出身
●ナショナル・ヘビー
43 8 (国) ワールド・サマー・S
13才の時にザカテカスからメキシコシティに移り、アマレスに興味を持つ。17才でアマレスのメキシコチャンピオンとなりそのままプロレス入り。プロ入りして直ぐにメキシコのナショナル・ヘビー級王座を獲得。ザ・デストロイヤー、フレッド・ブラッシーの挑戦も退けた実績を持っている。メキシコのほかにロスでも活躍した。

 

ホンブレ・モンタナ HOMBRE MONTANA 1回
●人間山脈 ●183センチ、158キロ
●1918年 アルゼンチン出身 ●ボディプレス
●世界タッグ(太平洋岸地区)、アルゼンチン・ヘビー
35 4 (日) 第2回ワールドリーグ戦

アルゼンチン出身の巨漢レスラーで、リングネームはスペイン語で「人間山脈」と言う意味。1936年のベルリンオリンピックのアマレス代表に選ばれたが、母国が資金不足で参加を断念したため、アメリカに渡りプロレスラーとなる。おもに太平洋岸で活躍し、レオ・ノメリーニとのコンビで世界タッグ選手権を獲得している。引退後はロスで「ホンブレ・モンタナ」なるレストランを経営していたらしい。