来日全外国人レスラー名鑑 ア(2)

 

ジ・アラスカン THE ALASKAN 2回
アラスカの熊男  190センチ、115キロ
1934年米・アラスカ州出身 1995年没 バックブリーカー

39 4(日) 第6回ワールドリーグ戦、48 4(日) アイアンクロー・S、48 5(全) ブラック・パワー・S(残留)

本名はジェイ・ヨーク。1960年にアラスカ祭りで熊を殴り倒し、その腕力を買われてレスラーになったという。バディ・オースチンをチェーン・デスマッチで半殺しにした事もある狂暴なレスラー。ジーパンをコスチュームとして着用していた。日本プロレス最後の「アイアンクロー・シリーズ」に来日し、そのまま残留して全日本プロレスの「ブラックパワー・シリーズ」にも参加しているが、このときは完全に全盛期を過ぎており精彩を欠いた。晩年はロス地区で活躍。来日中は日本の食生活になじめずにわがままをいい外人係のジョー樋口を泣かせたという。1995年に肝不全で死亡。

 

ジ・アラスカンA&B THE ALASKAN A & B1回
カナダの暴走コンビ A =197センチ、135キロ、B=194センチ、130キロ
カナダ出身

60 8(ジ) サマー・ドリーム・フェスティバル

本名はA(写真右)がリック・レンスロー、B(写真左)がリック・ストーキー。エディー・シャーキーが第2のロード・ウォーリアーズとしてコーチしたが練習嫌いがたたりシャーキーの目論見は外れてしまった。それぞれ197センチ、194センチという巨漢だったが、ほとんど実戦経験がなかったようで、どうしようもないデクの坊であった。

 

アリ・ババ ALIBABA オザーク・モルナー*) 2回
怪人アリババ 183センチ、120キロ
ハンガリー・ブタペスト出身 フロント・スープレックス

50 7(新) サマー・ファイト・S* 、51 7(新)アジア・リーグ戦

ハンガリー生まれだが、新日本プロレスに登場したジョセフ・モルナーとは特に関係はない。少年時代からグレコローマンレスリングを習い、西ドイツベルリンで開催されたジュニア・オリンピックのグレコローマン(ヘビー級)にハンガリー代表で出場した実績もある。その後プロ入りし、欧州各国を転戦し、1970年にアメリカへ移りロスでデビューした。1975年当時はカナダのケベック州をホームリングにしていたが、後にIWAにも参加している。日本では風貌がそっくりのブル・グレゴリーとのコンビで評判を得た。テレビ中継では終始「アリババ」として紹介されていた。( 資料提供:佐々木英俊氏

 

アリババ・マルスターニ ALI BABA MARISTANI 1回
レバノンの殺人鬼 182センチ、125キロ
レバノン・ベイルート出身 キャメルクラッチ
レバノン・ヘビー、中近東ヘビー

47 3(国)第4回IWAワールド・S、47 4(国)第4回IWAワールド選抜S(残留)

16歳の時に家出してプロレスラーになったといわれ、レバノン選手権、中近東選手権を獲得したあと、ヨーロッパに進出。1971年にはハノーバー・トーナメントに出場して上位に入賞している。国際プロレスの第4回ワールドシリーズに中近東代表として来日し、ザ・シークにならって試合前に祈りを捧げるデモンストレーションで話題を呼んだ。実力の方はさほどでもなかったようでリーグ戦でも白星配給係となった。

 

アル・グリーン AL GREENE 1回
猛犬野郎 183センチ、115キロ
米・テネシー州出身
テネシー地区世界タッグ、南部タッグ(テネシー地区)、テキサス・タッグ

40 4(日) 第7回ワールドリーグ戦

本名はアル・デニー。グリーン4兄弟の3男という触れ込みだが、血縁関係があったかは疑わしい。ワールド大リーグ戦では遠藤幸吉からの不戦勝を除いては全敗。白星配給係に甘んじ、タッグ・マッチなどでも狙い撃ちにされていたようだ。力任せのラフ・ファイトを得意としていた。テネシー地区では弟のドン・グリーン(未来日)との「ザ・ヘブンリー・ボディーズ」で南部タッグを長く保持していたタッグの名手である。

 

アル・コステロ AL COSTELLO 3回
カンガルー男 176センチ、108キロ
1925年12月14日 イタリア出身 2000年1月22日没 オースイ・スープレックス、ロメロ・スペシャル
●オーストラリア・ヘビー、インターナショナル・タッグ(アマリロ版)、WWA世界タッグ(ロス版&インディアナ版)、TWWA世界タッグ、USタッグ(NY版)、

43 1(T) ワールド・タッグS、47 11 (日) インター選手権S、54 8 (全) ブラック・パワーS

本名はジアコモ・コスタ。ザ・カンガルーズのリーダーで、日本へは2代目のパートナーであるドン・ケントを帯同して来日した。(初代パートナーはアル・ヘッファナン=未来日)イタリアの出身で、カンガルーズとしてニューヨークへ殴り込んで一時代を築いた。典型的なタッグ専門屋でドン・ケントと別れてからは、ぷっつりと消息を絶った。一方のドン・ケントはデトロイト地区でシングル・プレイヤーとして活躍している。オースイスープレックスやロメロスペシャルなど一風変わった技を使いこなしたテクニシャンである。 サイン

 

アル・バフェト → アンドレ・アドレー、ジ・エクスキューショナーの項を見よ

 

アル・プルジョー AL BOURGEOIS 1回
180センチ、110キロ カナダ・ケベック州出身

51 9(国)ビッグ・ゴールデン・S

若干20歳で国際プロレスに初来日するもキャリア不足を露呈し、開幕戦でミスター・セキ(ミスター・ポーゴ)のフライング・ソーセージで押しつぶされた。結局まったくいいところなく帰国。1978年ごろにはジャック・ロジャースのリングネームでフロリダに出現したがここでも前座に甘んじていた。

 

アル・ヘイズ LOAD AL HAYES 2回
青い目の三四郎 182センチ、102キロ
1928年8月8日 イギリス・ロンドン出身 2005年7月21日没 アイリッシュ・ホイップ
世界ミッドヘビー(イギリス版)、ウエスタン・ヘビー、ウエスタン・タッグ(アマリロ版)、テキサス・タッグ、セントラルステーツ・タッグ

43 9(国)ダイナマイト・S、51 5(全)NWAチャンピオン・S

国際プロレスに初来日した頃は、イギリスで「ジュードー」の二ック・ネームで呼ばれた正統派レスラーだった。日本でも「英国の姿三四郎」などと呼ばれていた。アメリカに渡ってからはAWA地区で活躍。「ロード・アル・ヘイズ」と名乗って悪役に転向し、クラッシャー・リソワスキーと対等に渡り合うほどのラフ・ファイターになっている。イギリス時代にはマスクをつけてケンドー・ナガサキを名乗ったこともあるといわれている。引退後はWWF(現在のWWE)のフロント、コメンテーターを務めた。

 

アル・ホブマン AL HOBMAN 1回
マオリの英雄  188センチ、112キロ
1929年ニュージーランド出身  エアプレーンスピン
ニュージーランド・ヘビー

44 2(国)国際ゴールデン・S

パット・オコーナーのコーチを受けてプロレス入り。地元で材木会社で勤務するうちに体がビルドアップされボディビルに専念、1950年度のミスター・ニュージーランドとなり、その後プロレスラーに転向。1961年にニュージーランド選手権を獲得して以来8年間無敗を誇った。英連邦王者のジョン・ダ・シルバとはライバル関係にあった。1967年には師匠のパット・オコーナーと対戦し好勝負を展開した。ニュージーランドでは英雄だが、日本ではさっぱり活躍できずに終わる。

 

アル・マドリル AL MADRIL 2回
ラテンの彗星 182センチ、107キロ
1952年米・カリフォルニア州サンフランシスコ出身(スペイン・マドリード説もあり)  フライングクロスチョップ
カナディアン・タッグ(バンクーバー版)、NWA世界ジュニアヘビー、テキサス・ヘビー、アメリカス・ヘビー

51 7(全)サマー・アクション・S、53 4(全)エキサイト・S

ロス、テキサスで絶大な人気を誇ったメキシコ系アメリカ人。特にテキサスでの人気は凄まじかった。全日本プロレスの昭和51年「エキサイト・シリーズ」に来日した際にネルソン・ロイヤルのNWA世界ジュニア選手権に挑戦。このときはタイトル奪取ならなかったが、2年後にはヒューストンでロイヤルから同タイトルを奪取している。ジュニア時代の藤波とぜひ闘って欲しかったレスラーの一人である。デビュー当時はレオ・マドリルのリングネームを使って、太平洋岸地区で活躍していた。

 

アルゼンチン・アポロ ARGENTINA APOLLO 2回
空飛ぶ弾丸 180センチ、106キロ
1941年アルゼンチン・ブエノスアイレス出身 1984年8月10日没  アルゼンチン・バックブリーカー
USタッグ(NY地区)、フロリダ・タッグ、ジョージア・タッグ

48 1(全)新春ジャイアント・S、49 3(国)チャレンジ・S

本名はヴィンセント・ベニグリス。1960年代にビットリオ・アポロのリングネームでニューヨークで爆発的人気を博したアルゼンチン出身のレスラー。同郷のアントニオ・ロッカと同じく裸足で闘い、アクロバット殺法を得意としていた。幻の強豪といわれたが昭和48年の「新春ジャイアント・シリーズ」に来日した時は、全盛期は過ぎていたが、アクロバチックなファイトぶりは人気を呼んだ。プロレス入り前は体育教師をしていたという。現役中から画家としても有名だったらしい。

 

アルゼンチン・ズマ ARGENTINA ZUMA 1回
南米の人間ロケット 178センチ、102キロ
1932年 アルゼンチン・トリノ出身  エアプレーンスピン

49 4(新)第1回ワールド・リーグ戦

本名はマヌエル・チャイジ。外人不足に悩んでいた初期の新日本プロレスは良くパンフで外人の経歴を詐称していた。ズマの紹介にも「アントニオ・ロッカのライバル」と書かれており、これもでっち上げと思いきや、1960年1月にはマイティ・ズマの名でMSGに登場しアントニオ・ロッカとメインエベントで2連戦を戦っている。昭和44年のゴング誌でもまだ見る強豪88人に選ばれた強豪であった。日本へは新日本プロレスが総力を挙げて(?)行なった、「第1回ワールド・リーグ戦」にアルゼンチン代表としてようやく来日。肝心の成績は柴田からの1勝のみで残り7試合は全敗という悲惨な成績で予選落ち。完全に全盛期を過ぎていた。来日はこの一回のみ。(写真撮影:花園えびす様)

 

アルバート・ウォール ALBERT WALL 2回
ドンカスターの岩男  185センチ、110キロ
1934年イギリス・ドンカスター出身 フライング・ヘッドバット
大英帝国ヘビー

43 5(国)ワールド選抜S、44 3(国)ワールド選抜・S

ロビンソンと並んでイギリスを代表するレスラー。いわゆるランカシャー・レスリングの継承者で、試合のも派手さがなかった為、日本ではあまり人気が出なかった。かたくなにショーマン・スタイルを拒んだ頑固者である。ロビンソンがアメリカに遠征してからはイギリスの重量級の第一人者となり、一度もアメリカには遠征する事もなく引退していった。得意技はフライング・ヘッドバットで若手時代のラッシャー木村をKOしている。私生活では競馬に没頭していたといわれ馬主でもあったようだ。リングには未練がなかったようであっさり引退。

 

アルバート・トーレス ALBERT TORRES 1回
黒豹 191センチ、112キロ
1934年1月2日 カリフォルニア州サンフランシスコ出身(メキシコ出身説もあり)、1970年1月13日没  フライング・ヘッドシザース
WWA世界タッグ(ロス版)、ジョージア・タッグ、オクラホマ・タッグ

40 10(日)【特】ハリケーン・S、40 11(日)インター選手権・S(残留)、40 12(日)ウインター・S(残留)

高名なトーレス3兄弟(長男エンリキ、次男ラモン=未来日)の末弟。フライング・ヘッドシザースを得意とし馬場を失神させたほど。インター選手権争奪戦にも登場した強豪である。帰国後はラモンとのコンビで活躍。残念な事に来日5年後の1970年にオマハでオックス・ベーカーと戦った際にハート・パンチ(日本ではハートパンチが定説)を浴び、試合後に心臓マヒの為帰らぬ人になった。(情報提供:TMKID氏)

 

アルバート・ランズノー → ティンカー・トッドの項を見よ

 

アルビン・スミス ALVIN SMITH 1回
南部の輝ける新星 183センチ、103キロ
1955年米・ジョージア州メイコン出身 パワースラム
ジョージア州タッグ、ウエスタンステーツ・タッグ、サウスイースタン・ヘビー、テキサス・ヘビー

53 5(全)スーパー・パワー・S

ジョージア地区でテッド・デビアスとのコンビでジョージア州タッグなども獲得し、一部では次期世界王者有力候補といわれたレスラー。昭和53年全日本プロレスの「スーパー・パワー・シリーズ」に初来日、アマレス出身らしく素晴らしいレスリング技術を披露して鶴田のライバルとして期待された。しかし帰国後、ぱったりと消息を断ってしまった。膝の故障が原因といわれているが、引退したことが残念な逸材だったと惜しむファンも多い。パワースラムを日本で初公開したレスラーでもある。アメリカでのリングネームはアルビンではなく、アーウィン(ERWIN)で、日本のファンが発音しやすいように日本ではアルビンと名乗ったという。アメリカではリップ・スミスとも名乗った。

 

アルフォンソ・ダンテス ALFONSO DANTES 1回
ルチャの教授 170センチ、92キロ
1941年4月13日メキシコ・ハリスコ州グアダラハラ出身 2008年7月30日没 メキシカン・バックブリーカー
NWA世界ライトヘビー、アメリカス・タッグ

57 1(全)【特】新春ジャイアント・S

本名はホセ・ルイス・アメスカ・ディアス。メキシコNWA系ライト・ヘビー級の第一人者で、ミル・マスカラスやレイ・メンドーサより以前にロスで活躍したベテラン。フランシスコ・フローレスとのコンビでWWAの世界タッグも獲得している。昭和53年に新日本プロレスへの参加が内定し、藤波の挑戦を受けることになっていたがこれは実現せず。日本では長く幻のレスラーとなっていたが、マスカラスのライバルとして全日本プロレスが昭和57年に招聘に成功。若手や中堅クラスには圧倒的な強さを見せていたが、マスカラスには完敗した。アポロ・ダンテスは実子。

 

アレックス・スミルノフ ALEXIS SMIRNOFF (マイク・デュボイス*) 15回
流血怪人 195センチ、125キロ
1947年2月9日カナダ・ケベック州モントリオール出身 ブレンバスター
IWA世界ヘビー、IWAインターナショナル・ヘビー(モントリオール版)、USヘビー(シスコ版)、セントラルステーツ・ヘビー、ジョージア州タッグ

49 2(全)エキサイト・S*、52 9(国)スーパー・ファイト・S、53 6(国)ビッグ・サマー・S、54 1(国)新春パイオニア・S、54 6(国)ビッグ・サマー・S、54 11(国)デビリッシュ・ファイト・S、55 9 (国)第2次ダイナマイトS、 55 11(国)デビリッシュ・ファイト・S、56 10(全)ジャイアント・S、57 3(全)第10回チャンピオン・カーニバル、58 3(全)【特】グランド・チャンピオン・カーニバルT(残留)、 58 7(全)グランド・チャンピオン・カー二バルV、59 2(全)エキサイト・S、59 7(全)グランド・チャンピオン・カーニバルV、61 7(新)【特】バーニングスピリット・イン・サマー、62 5(新) 87lWGPチャンピオン・S

本名はミシェル・ラマーシュ。「流血怪人」と呼ばれた大型ラフ・ファイターで、ジプシー・ジョーと共に中期〜末期の国際プロレスを支えた外人エース。初来日時はマイク・デュボイスというフランス系の地味なレスラーだったが、帰国後サンフランシスコでロシア系のスミルノフに変身し、いきなり同地区の英雄パット・パターソンを血祭りに挙げ、ファンの度肝を抜いた。昭和54年のデビリッシュ・ファイト・Sでは木村を倒しIWA世界王者となるが、4日後に奪回されている。国際プロ崩壊後は、全日本、新日本と二重契約を交わし関係者のヒンシュクを買い、それが影響したのかどうか、国際プロレスで見せたような活躍は見られなくなってしまった。 サイン

 

アレックス・ペレス(ザ・シャドー*) ALEX PEREZ 2回
爆弾戦車  178センチ、105キロ
1929年11月11日米・テキサス州ダラス出身 2001年6月27日没 ●パンチ攻撃
サウスウエスト・タッグ、南部タッグ(テネシー地区)、南部ジュニアヘビー(テネシー地区)、英連邦ヘビー(オーストラリア版

48 1(全)新春ジャイアント・S、52 8(全)【特】第2弾サマー・アクション・S*

昭和47年の全日本プロレス「新春ジャイアントシリーズ」に急遽参加したメキシコ系レスラー。テキサスでデビューし、その後はテネシー地区で頭角をあらわす。初来日当時の主戦場はアマリロで、スタン・ハンセンのデビュー戦でパートナーを務めている。かなり悪辣な反則を得意としていたようだが、いかんせん体が小さく中堅クラスにも通用せず。1977年にはKOペレスの名でロスに登場しボクシング・マッチをチャボ・ゲレロあたりと繰り広げ人気を博したこともある。

 

アレックス・ヤコビデス ALEX JACOBIDES 1回

34 9(日)プロレス秋の国際試合

詳細不明。情報募集中

 

アンジェロ・ポッフォ ANGELO POFFO (ザ・クエスチョン*) 2回
腹筋男 180センチ、102キロ
1925年4月10日 米・イリノイ州シカゴ出身
WWA世界タッグ(インディアナ版)、ミッドウエスト・ヘビー、USヘビー(デトロイト版)、ICW認定TV

43 4(日)第10回ワールドリーグ戦、46 2(国)AWAビッグ・ファイト・S *

イタリア系のアメリカ人でシカゴ出身。現代アメリカン・プロレスのトップ・スターであるランディ・サベージの父親といった方が、今のファンには分かりやすいだろう。AWA地区でクリス・マルコフとのコンビで売り出し、ブルーザー、クラッシャー組との抗争で同地区のスターとなった。息子のランディ同様に派手なコスチュームを好んで付けていた。腹筋運動6000回と言う世界記録保持者であったが、ワールドリーグ戦では全敗の白星配給係となった。大学時代にはチェスのチャンピオンになったと言う珍しい経歴も持っている。2010年3月4日永眠。

 

アンジェロ・モスカ ANGELO MOSCA 3回
キングコング 190センチ、130キロ
1938年3月13日 米・マサチューセッツ州ボストン出身 タックル攻撃
北米ヘビー(カルガリー版)、ジョージア州ヘビー、カナダ・ヘビー(トロント版)、南部ヘビー(フロリダ版)

46 3(日)第13回ワールドリーグ戦、48 2(国)ビッグ・チャレンジ・S、55 1(全)新春ジャイアント・S

「キングコング」のニックネームで有名な怪力男。日本へは日本プロレスの「第13回ワールド大リーグ戦」に初来日。予想以上の実力を見せて関係者を驚かせた。昭和55年には全日本プロレスの「新春ジャイアント・シリーズ」に来日して同じく「キングコング」を名乗るブルーザー・ブロディとのコンビで馬場、鶴田組の保持するインター・タッグに挑戦し、両者リングアウトの引き分けに持ち込んでいる。これが日本における彼のハイライトであった。アメリカではカナダ、ニューヨーク、ミッドアトランティック地区を飛び回った超売れっ子だった。

 

ジ・アンダーテーカー THE UNDERTAKER
怪腕仮面 180センチ、130キロ
1942年西ドイツ出身 パワースラム

51 4(国) ダイナマイト・S

昭和47年に日本プロレスに初来日したドイツ系の強豪ハンス・シュローダーの変身。ラッシャー木村のIWA世界選手権に挑戦し、内容を不服とした木村が王座返上、金網デスマッチによる王座決定戦に臨んだが、木村の逆エビ固めにギブアップし覆面をはがされている。

ハンス・シュローダーの項も参照のこと。

 

アンディ・スキミッツ ANDY SKIMITS 1回

30 12(旧全) 日米対抗厚生大臣賞争奪試合

キングストン・ケリーらと来日。静かなる暗殺者のニックネームで、試合以外でもほとんど口をきかない不気味な人物であった。実は大変な口下手だった。(昭和45年別冊ゴング6月号来日外人レスラー名鑑より:情報提供管様)

 

アントニオ・プグリシー ANTONIO PUGLIESE ( トニー・パリシー*)3回
●MSGの星 ●186センチ、123キロ
●1941年イタリア・サンタマリノ出身 2000年8月19日没  ●アルゼンチン・バックブリーカー
●WWA世界タッグ(ロス版)、USタッグ(NY版)、WWWF世界タッグ、IWA世界タッグ(オーストラリア版、モントリオール版)

42 7(日)第一次サマー・S、48 3(全)第1回チャンピオン・カーニバル、58 3(新)ビッグ・ファイト・S 第1弾 *

本名も同じ。ブルーノ・サンマルチノの従兄弟と称して、ニューヨーク地区でサンマルチノのパートナーとして売り出した。スパイロス・アリオン、ビクター・リベラ、ルイス・セルダンらをパートナーにしてWWWFタッグ王座も獲得している。後にトニー・パリシーと改名しているが、プグリシーというのがアメリカでも発音しにくかったためらしい。サンマルチノ派のレスラーにしては珍しく新日本プロレスに参加している。2000年8月19日に逝去。

 

アントニオ・ロッカ → 来日外国人レフェリー名鑑を見よ

 

アンドレ・アドレー ANDRE ADOREE ( ジ・エクスキューショナー*) 3回
●188センチ、95キロ
●19
06年3月30日(1895年説もあり) カナダ出身 1989年10月3日没 ●コブラクラッチ

26 9 朝鮮国連軍慰問プロレス大会、 38 1(日)【特】春の国際大試合 *、43 5(国)ワールド選抜シリーズ(レフェリーとして)

本名はアル・バフェト。日本初のプロレス興行に参加したフランス系カナダ人の古豪レスラー。2度目の来日時は58歳(もしくは68歳!)の高齢で、史上最弱のマスクマンと酷評された。昭和43年には国際プロレスにレフェリーとして登場している。どうやらスタントマンとして成功したようで、スタントマンの殿堂入りを果たしている。

ジ・エクスキューショナーの項も見よ。

 

アンドレ・ザ・ジャイアント ANDRE THE GIANT (モンスター・ロシモフ*、ジャイアント・マシーン)27回
巨人 ●223センチ、230キロ
●1946年5月19日フランス・カンタブリア出身
1993年1月27日没 ●18文キック、ヒッププッシュ
●WWF世界ヘビー、IWA世界タッグ(国際プロレス版)

45 1(国)新春チャレンジS*、46 3(国)第3回IWAワールドS*、47 3(国)第4回IWAワールドS*、49 2(新)ビッグファイトS、49 6(国) 【特】ビッグ・サマー・S、49 10(新)【特】闘魂S第2弾、50 5(新)【特】ゴールデン・ファイト・S、51 9【特】(新)闘魂S、52 5(新)【特】ゴールデン・ファイト・S、52 10(新)【特】闘魂S 第2弾、 53 4(新)【特】第1回MSGシリーズ、54 5(新)【特】第2回MSG・シリーズ、54 6(国)【特】 ビッグサマー・S、55 4(新)【特】第3回MSGシリーズ、55 11(新)第1回MSGタッグリーグ戦、56 8(新)【特】ブラディ・ファイト・S、56 11(新)第2回MSGタッグリーグ戦、57 3(新)【特】第5回MSGシリーズ、57 6(新)サマー・ファイト・S 第1弾、57 11(新)第3回MSGタッグ・リーグ戦、58 5(新)lWGP決勝リーグ、58 11(新)第4回MSGタッグ・リーグ戦、59 5(新)84 IWGP、59 11(新)第5回MSGタッグ・リーグ戦、60 5(新) lWGP&WWFチャンピオン・S、60 8(新)チャレンジ・スピリット85、61 4(新)ビッグ・ファイター・S、 61 5(新)86 IWGPチャンピオン・S(残留)

ご存知「世界の大巨人」。彼を知らないプロレス・ファンははっきり言ってモグリだ。スペインのエンリケ・エドにスカウトされ、ジーン・フェレの名でフランスを中心にあばれた。一時は覆面を付けて活躍。モンスター・ロシモフに改名したのはIWA世界タッグ王座決定トーナメントに出場した時で、この試合の模様が日本でも紹介され、初めて日本のファンにその姿をあらわした。国際プロレスで知り合ったバーン・ガニアの誘いでアメリカに渡りアンドレ・ザ・ジャイアントに改名するが、その後の活躍はご存知の通り。日本人嫌いとして知られているが、実は親日家であった。マスクを付けてジャイアント・マシーンに変身したのは、昭和プロレス史上最高のジョークだったといえよう。1993年パリで急性心不全のため死去。

 

アンドレ・ボレー ANDRE BOLLET 1回
●188センチ、115キロ
●1918年フランス出身 ●欧州タッグ、テキサス・タッグ

44 1(国)ビッグ・ウィンター・S

アマレス時代はグレコローマン・スタイルの第一人者として知られた。ハンブルグをはじめとするヨーロッパ各地で行なわれたトーナメントで常に上位に名を連ねた強豪。1959年にはフランク・バロワと渡米。テキサス・タッグを獲得している。日本へはロベルト・ガステルとのコンビでヨーロッパ・タッグ選手権者として来日するが、草津、木村組の挑戦を受けたがストレート負けし、タイトルを日本に置いての帰国という屈辱を味わった。IWA世界タッグ挑戦シリーズにフランク・バロワのパートナーとして来日が決定していたが、キャンセルしている。その後、交通事故にあい引退し、プロモーターになっている。

 

アントン・ヘーシンク → 外国人留学生名鑑を見よ

 

アントン・ラスロ ANTONE LASZLO 1回
●スウェーデンの新星 ●173センチ、102キロ
●1942年スウェーデン・エブレ出身 ●スウェーデン・ミッドヘビー

44 7(国)ビッグ・サマー・S

スウェーデン出身のレスラーで、来日時はスウェーデン・ミッドヘビー級チャンピオンだった。高校、大学とアマレスの全スウェーデン・チャンピオンだったというエリートで、デビュー戦には1万8千人の観衆が詰め掛けたという。スピードとテクニックを武器にした正統派でロビンソンに次ぐ世界王者候補と期待されたが、いかんせん小柄すぎた。プロフィールによれば来日当時27歳のはずだが、頭も禿げ上がっており、とても27歳には見えなかった。

 

アンヘル・ブランコ ANGEL BLANCO 1回
●白い天使 ●182センチ、98キロ
●1936年8月2日 メキシコ出身 
1986年4月26日没 ●メキシカンストレッチ
●NWA世界ライトヘビー、アメリカス・タッグ

55 2(新)ビッグ・ファイト・S

本名はホセ・アンヘロ・ヴェルガス・サンチェス。元は「白い天使」と呼ばれた覆面レスラーで、エル・ソリタリオのパートナーとして活躍したが、そのソリタリオにマスクをはがれる。昭和54年にメキシコ・シティで藤波のWWWFジュニア王座に挑みジャーマンを押しつぶし、両者カウント・アウトの引き分けに持ち込んだ試合は強く印象に残っているが、翌年の初来日緒戦で坂口と当たり、場外で鉄柱に打ち付けられ座り込んでしまった姿には失望した。同じ白覆面のドクトル・ワグナーとのコンビはロス・ブランカスとよばれ、メキシコでは無敵を誇り、ロスでもアメリカス・タッグを獲得している。1986年巡業中に交通事故で死亡。どうでもいいことだが、遠藤幸吉に似ている。

 

アンヘル・ブランコ・ジュニア ANGEL BLANCO JR. 2回
●白い天使2世 ●180センチ、97キロ
●メキシコシティ出身

59 7 (旧U)UWF無限大記念日、62 10 (全)87ジャイアント・S

本名はサロモン・メサ。アンヘル・ブランコの実子ではなく娘婿で、クロス・デンジャーの名でデビュー、エル・クルセロ2号、レイ・サロモンを経て、1983年にブランコの娘と結婚してアンヘル・ブランコ・ジュニアを名乗るようになった。プロレス入り前はボディービルダーとして活躍し、準ミスター・メキシコになっている。初代ブランコの娘と離婚した事により、アンヘル・ブランコ・ジュニアの名前を返上し、サロモン・メサとして活躍するようになる。現在活躍しているアンヘル・ブランコ・ジュニアは初代の実子である。