過去ログ名勝負集 「ダラ・シンの迷宮」 パート7

下から読み進んでください

 

パート8へ


衝撃のダラ・シン  投稿者:ミック博士  投稿日:2009年 4月 9日(木)07時51分6秒
  >当時のネール首相が大統領(あのプラサド大統領でしょう)に取り成して「恩赦」を受けた・・ということかと思います。

この部分、私が「ネールが大統領になったときに」と誤訳していました。
55年に来日したのがこの「killer」であれば、即時釈放されたとしか考えられませんね。
 

ダラ・シン  投稿者:Jumbo Aoki  投稿日:2009年 4月 9日(木)07時04分10秒    編集済
  この「衝撃の事件」については、記事によっては、「ロシア人の世界的大レスラーを破った功績により恩赦を受けた」とするものもあり、「収監中のシンが大レスラーであることに某英国人が気付いて釈放を請負った」などとするものもありますが、ミック博士様に翻訳いただいたこの記事のとおり、ダラ・シンの強さを目の当たりにし、ことの経緯を知ったロシア高官による称賛と提言、現地支援者たちの釈放嘆願を受けて、当時のネール首相が大統領(あのプラサド大統領でしょう)に取り成して「恩赦」を受けた・・ということかと思います。

1955年に晴れて恩赦を受けたダラ・シンが、そのままインドのリングに上がるよりも、まず海外への道を選び、東南アジア・日本・英国・北米へと遠征に旅立ったのは、むしろ自然なような気がします・・。

元より、東南アジアにいた巨人ゴーラ・シンではあるまいし198cmもあった訳ではありませんから、この記事を書いた方も実際にはダラ・シンに会っていないのでしょうが、この衝撃の事件の詳細を知るにつけ、ダラ・シンの「別人説」・「同一人説」にかかわる様々な疑問の一つ一つが、今、自分の中で解決されつつあります。

因みに、今回、ミック博士様が翻訳してくださったこの記事の年代的正確さは、戦時中、日本人に見初められて軍隊入りし、チャンドラ・ボースを助けて行くくだりでも窺われます。
まさに、ボースと日本軍によるあのインド国民軍と自由インド仮政府の発足と足並みを揃えており、年代記述の正確さが分かります。
 

衝撃のダラ・シン  投稿者:ヘラクレス・マーシャルヒューズ  投稿日:2009年 4月 9日(木)02時05分13秒    編集済
  ダラ・シンについて、私はそもそも55年も67年も見てない、資料も禄にないで妄言を書くArmchair-Detectiveみたいなものなので、一旦控えてマガジン17号について書こうと思ったのですが、まるで映画の如き衝撃的な新情報にふれ、我慢出来ずまた書かせてもらいます。

私も原文を見ました。何分英語が不得手につき不明な部分が多いのですが、それにしても年代がわかり難い。特に前半部はいきなり1963年まで飛んだりするので、こちらは一旦無視して、主題である殺人事件を扱った後半部について。

記事によると初代Dara Singhと思しきDara Singh Killerは1951年に死刑判決を受け、その後終身刑となり収監されたとあります。この年代が正しければ1955年に日本に来れる筈はないので、そもそも初来日のダラ・シンが“二代目”だったという事でしょうか?

一方、記事ではその後の1955年にロシアの高官の力により、インドにレスリングの競技会が組織されたとあります。
素直に読み進むと、ここでDara Singh Killerは外国人のトップレスラーAtom Bombに勝って賞賛され、釈放を求められた、というように取れます。収監中であったけど、特別に試合に出場したということでしょうか?
どちらかといえば、このAtom Bombに勝ったというのは殺人事件以前の過去の実績であり、これを理由にロシアの高官達が釈放を要求した、と捉えた方が自然のようにも思えますが。

ただ、この点がどちらであるにしろ、この51年、55年という年次が正しければ、Dara Singh Killerが55年に日本に来るのは無理そうですが。

もっとも私は英語が苦手なので、何か大きな誤りをしているかも知れません。ここは海外生活の長いJumbo Aokiさんに予断に囚われない冷静な解釈をお願いしたいものです。
 

まだまだダラ・シン  投稿者:ミック博士  投稿日:2009年 4月 8日(水)22時58分26秒    編集済
  aokiさnから貴重な情報が寄せられました。
インド・カシミール地方の新聞「Daily Excelsior」のサイトの過去ログに衝撃的な記事が! 私のつたない英語力で訳して見ました。

The Killer Dara Singh By Bansi Lal Tidyal

ダラ・シンという名前を聞いた人は多いだろう。彼の名前はレスリングを連想させる。しかしどちらのDara Singhだろう? Dara Singhは二人いた。ひとりは俳優兼レスラーのDara Singh、もうひとりは殺人者のDara Singhである。我々は二人を混同しがちだ。俳優のDara SinghはKing Kong, Dara Singh, Dhanna Jat, Jagga Dakku, Aye Tofaなどの映画や、「 Ramayan」シリーズに出演した。一方のDara Singh Pahalwanは、兄を殺した犯人を殺害したことで有名である。

Piara Singhには3人の息子と3人の娘がいた。彼らはPunjab州Amritsar 地区のDitchipur 村に住んでいた。長男Inder Singhはレスリングに秀でていた。彼の影響でDara Singhも偉大なレスラーとなった。Dara SinghはLahoreのUstaad Sohan Singhからテクニックを学んだ。そして15才の時には多くのトップ・レスラーを撃破した。

Dara Singh Killer(註:Dara Singh Pahalwanのこと)は、シーク教徒だったが、レスリングのために髪を刈っていた(註:シーク教徒は髪を伸ばしターバンを巻く)。彼は6フィート6インチ(198センチ)のパワフルなレスラーだった。17歳の時、6人のイギリス人レスラーを破ったのを認められ警察官として徴用され、数年後には警部補佐に昇格していた。日英戦争のさなか、彼は2発の銃弾を浴びて重傷を負い、健康を害して、辞職した。

ある日、Dara Singh killeが座っていると、ある日本人が彼を役人の所に連れて行った。その後、役人は陸軍に入らないかと誘った。Dara Singhは陸軍に入隊した。彼は祖国の独立のために戦い、失ったポストに返り咲いたSubash Chander Boseを助けた。彼はまたレスリングで大金を稼ぎ、アメリカ流のフリースタイルでトップレスラーを破り1945年にチャンピオンになった。

Dara Singhはマラヤ・チャンピオンにも認定された。25歳の時、インドのプロモーターはダラ・シンと戦わせるために頑丈なキングコングをブッキングした。Dara Singhの負けが予想されたが、Dara Singh Killerはキングコングを破っただけでなく、その片足もへし折った。Dara Singh はRustam-e-Hindタイトル(インド・レスリングの王座)を授与され、1963年には外国人レスラーを倒し世界チャンピオンに認定された。

ドイツ遠征時に彼の人生は暗転する。自宅で兄のDalip Singhが殺害されたのだ。その報を聞き、Ditchipur に飛んで帰った彼が見たのは、片腕を切り落とされて横たわる兄の姿であった。そのとき彼は復讐を誓った。彼は罪人を追い詰め、そのうちの一人を殺してしまったのである。Daraは逮捕され、1951年に高裁で死刑判決を受けた。控訴審で最高裁は終身刑を言い渡した。彼はDelhi とFerojpur の監獄で人生の一部をおくった。

その事実を知り、Punjab州のBhim Sen Sacha州首相と人気俳優Prithvi Raj KapoorはDaraを救おうとしたが失敗に終わった。

1955年、ロシアのKrishov とBalgaria 司令官がインドを訪問し、Jawahar Lal Nehru首相に対面した。彼らの主催でレスリングの協議会が開催された。Dara Singh KillerはAtom Bombなる外国人レスラーを撃破した。これを見たゲストたちは喜んだ。彼の逮捕された経緯を知ったゲストは彼の釈放を要求した。彼らは「我々の国に彼のような偉大なレスラーがいれば、我々は彼を尊敬し釈放する」と言った。Nehruが大統領に働きかけ彼は釈放された。収監中、彼の家族の事情は悪化していた。彼の息子は学業を断念していた。そして彼と同名の男が金を稼いでいた。その男とは俳優のDara Singhであった。

1978年にDara Singh killerはアジア王者のPahalwan Kartar Singhと共にJammuを訪れ、Mini Stadium Parade Jammuでインド相撲のウィットネスを務めた。彼は60歳になっていたが、土俵に姿を見せた。Kartar Singh はJ&K Wrestling Association主催の試合で勝利を収め、Dara Singもまた賞賛を浴びた。

俳優のDara SinghはBombayとDelhiでDara Singh Killerに勝ったと語っているが、Dara Singh Killerはこれを否定している。レスリングを辞め、Dara は故郷のDitchipur 村に戻ったが、彼の体は麻痺し自分では歩けず、寝たきりになった。Dara Singh killer はDitchipur村で80歳で亡くなった。

【記事終わり】

長いですが、初代と2代目には全く血縁がなかったことがこれで判明しました。初代の服役中に2代目が登場して有名になってしまったようです。「namesake」という単語が使われていることから考えると、2代目は初代と同姓同名だったと言うことでしょうね。
 

>まだまだダラ・シン  投稿者:ミック博士  投稿日:2009年 4月 8日(水)07時49分31秒
  ちなみに「ザ・レスラー・ベスト100」のプロフィールでは、初代は1930年生まれとあります。逆転の発想で、初代が実はSHRIの弟だったとか? まぁ、当時の雑誌のプロフィールは当てにならないんですが。

戦績の年表を作る必要がありそうですね。
 

>まだまだダラ・シン  投稿者:Jumbo Aoki  投稿日:2009年 4月 8日(水)06時43分15秒    編集済
  小生も、ミック博士様とほぼ同じ推理をしています。

ただ、さきに発見したAmitabh Bachchan氏やIndira Gandhi女史らと一緒の写真は、そのBachchan氏やRajiv Gandhi氏やSanjay Gandhi氏の生年と撮影時の推定年齢からしますと、1960年前後の写真と思われますので、1955年の日本遠征からの帰国後も「初代」は、このように元気であったことが窺われます。

そして、「それまでテーズに勝てなかったダラ・シンが1968年5月29日にボンベイで初めてテーズ(当時52歳)を破った」との記録を信じるならば、1922年生まれで33歳のとき(1955年)来日し力道山を苦しめた「初代」が、シンガポールでキング・コングと闘い、ロンドンでテーズと闘い(1957年)、北米でユーコン・エリックとタッグ・タイトルを取る(1958年)等々大活躍した・・と考えたいところです。

1974年のトロントのダラ・シンは勿論「2代目」でしょう。

「2代目」は1928年生まれで、その後、「初代」のレスラーとしての輝かしい戦歴を「何らかの理由」で引き継いだのではないでしょうか・・?


追記)あのS42年の「2代目」の実力からすると、いかに52歳とはいえテーズに勝てそうには見えないのですが、それでも、とにかく、既に40歳代半ばを過ぎた「初代」に代わって、まだ40歳になるかならぬかの「2代目」が母国でテーズを破ったのかも知れません・・。

「初代」が忽然と姿を消した「何らかの理由」について、ネール首相在任中の「とんでもない事件」に関する記事を複数見つけましたので、ミック博士様にメールさせて頂きました。
 

まだまだダラ・シン  投稿者:ミック博士  投稿日:2009年 4月 7日(火)21時37分55秒
  別人説を明記した、ゴングの「ザ・レスレー・ベスト100」の解説文を改めてチェックしてみました。

「日本遠征からの帰国後、どんな活躍を行なったか詳しいデータはない。したがって現在、どうしているのか・・・その生死に関しても全く不明」

この紹介文は無記名ですが、おそらく竹内さんの筆によるものでしょう。ここで重要なのは、竹内さんほどの情報通が「初代」のその後の活躍を知らず、生死も不明と書いているということは、インドでテーズと戦ったり、カナダに登場したダラ・シンは「初代」ではなく「2代目」であることを知っていたのでは? つまり初代は帰国後に行方不明になり、「2代目」SHRIが、その名代を継いだ・・・とは考えられないでしょうか? よって、映画に出て政治家になったのは「2代目」のSHRIだったのでは?