日本人全レスラー名鑑  ヤ行

 

八木宏 → 剛竜馬の項を見よ

 

ヤス藤井 やすふじい 国 → フリー
●はぐれ狼 ●192センチ、113キロ
●1949年4月27日 大阪府出身 ●ブレンバスター、チョップ攻撃
●カナディアン・タッグ、セントラルステーツ・タッグ、NWA世界タッグ(カンサス版)、USタッグ(ガルフコースト版、トライステート版)、北米タッグ(アマリロ版)、インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、アメリカス・ヘビー
本名は藤井康行。昭和42年春にボディビル仲間だったマイティ井上と共に国際プロレスに入門。井上より遅れて昭和43年正月のTBSプロレスの「オープニング・ワールド・シリーズ」でデビューした。井上より大型だったこともあり将来性は期待されていた。この後、豊登の命名で藤井東助、藤井三吉、ゼロ戦隼人などを名乗り改名魔と呼ばれた。昭和45年2月に初渡米。ジョージアを振り出しにヤス・フジ、ドクター・ヒロ・オオタ、カーネル・ヤンキーなどのリングネームを使い分け全米をサーキット。カンザスではハリー・レイスに師事した。昭和47年に吉原社長への批判をぶち上げて吉原社長の逆鱗に触れ、国際プロレスを除名された。昭和53年ごろにはロスに定着し、遠征した藤波や坂口にけんかを売るが、ヤス・フジイとして当時の新日本プロレスのマットにあがることはなかった。昭和54年には上田馬之助のパートナーとして因縁の国際プロレスを襲撃、同期のマイティ井上を目の敵にして暴れまくった。ストロングマシーン3号の正体とも言われている。現在はハワイで観光ガイドをしているという。

 

谷津 嘉章 やつよしあき 新 → ジ → 全
●186センチ、110キロ
●1956年7月19日 群馬県邑楽郡出身 ●ワンダースープレックス
●インターナショナル・タッグ(全日本プロレス版)、PWF世界タッグ
日本大学レスリング部在学中に全日本学生選手権、全日本選手権を制覇。モントリオール五輪にも出場。モスクワ五輪への出場も決まっていたが参加ボイコットの為、昭和55年に新日本プロレスに入門。いきなり渡米してパット・パターソンのコーチで頭角とあらわしワンダー・スープレックスを得意技に人気を獲得した。昭和56年には猪木と組んでブッチャー、ハンセン組を相手に国内デビューを果たすが大流血で惨敗。再渡米した際にはトラ・ヤツのリングネームでヒールとして南部を転戦。その後、長州軍団入りしジャパン・プロレスにも参加。全日本プロレスのリングに上がる。ジャパンプロレスの分裂後はジャンボ鶴田との五輪コンビで活躍。しかし平成2年にSWSに移籍。平成5年のSPWFを旗揚げを経て、長州のWJプロレスに参加したが、平成14年にフロントを痛烈に批判して決別。

 

山口 利夫 やまぐちとしお 旧全
●満鉄の虎 ●180センチ、115キロ
●1914年7月28日 静岡県三島市出身
早稲田大学、満州鉄道の柔道部で活躍。戦後、プロ柔道の旗揚げに参加したがすぐに崩壊し、木村政彦と共にハワイに渡ってプロレスのリングに上がった。昭和28年に大阪で清見川と日本人による初のプロレス興行を挙行。昭和29年には大阪で全日本プロレス協会を結成。吉村、ジョー樋口、ミスター珍が参加した。階級別日本選手権ではヘビー級部門の2位になるが、昭和30年に力道山に敗退してから次第に団体は衰退し山口道場に規模を縮小。昭和32年には遂に崩壊して、完全にプロレス界から身を引いた。その後の経歴は不明な点が多い。

 

山崎 一夫 やまざきかずお 新 → 旧U → U
●188センチ、103キロ
●1962年8月15日 東京都港区出身
●IWGPタッグ
玉川高校で柔道を一初段を取得。卒業後の昭和56年に新日本プロレス入りしタイガーマスクの付き人となる。入門当初はシロネコとあだ名された。昭和58年にはタイガーの後を追うように脱退。スーパー・タイガー・ジムのインストラクターとなる。昭和59年にタイガーと共に旧UWFに参加。活動停止後はタイガーと決別し前田、高田らと共に新日本プロレスに参加。ジュニアヘビー級戦線で頭角を現す。その後、新生UWF、UWFインターを経て新日本プロレスに再々登場。すっかり風格を付けIWGP王者を狙ったが、結局奪取はかなわず、1999年に引退。針灸士の資格を取得し現在は治療院を経営する傍ら、NHKでストレッチの指導をしたり、プロレスの解説をするなど幅広く活躍中。公式HPはこちら

 

山崎 次郎 やまざきじろう 旧全
●180センチ、98キロ
●1923年5月18日 東京都出身
実業団相撲の出身。山口利夫の全日本プロレスの副将格。テクニシャン・タイプだったようだ。

 

山田 恵一 やまだけいいち 
●アスナロ・ファイター ●170センチ、97キロ
●1964年11月30日 広島県広島市中区出身
●欧州レスリング連盟ミドル・ヘビー級
広島電機大学附属高校時代にアマレスを始めフリースタイルの75キロ級で国体に出場。卒業後に新日本プロレスの門を叩くが体が小さいと断られる。単身でメキシコに飛び修行を積み再び新日本プロレス入りを直訴して認められ昭和58年に晴れて入門。対格差のハンデを根性でクリアし昭和61年のヤングライオン杯では後藤達俊を下して優勝。この俊の9月にイギリスに初遠征。マーク・ロコから欧州レスリング連盟ミドル・ヘビー級王座を獲得。翌年帰国しジュニア戦線で活躍。平成元年1月に再渡英。同年4月にマスクをかぶって凱旋帰国。現在は日本のジュニア・ヘビー級を牽引する重鎮的存在となっている。

 

山本 孝一 やまもとこういち 
●鹿児島県出身
力道山時代に入門したレスラー。以下、プロレス&ボクシング昭和37年2月号より抜粋。「駒と前後して昭和37年秋にデビューした新人で鹿児島生まれの大阪育ちという準薩摩隼人である。まだ技らしい技はないが、柔道2段の実力はなかなか侮りがたいものを持っている。非常に激しい気性の持ち主だしタフなファイターとして売り出しそうだ」(資料提供:M・タナカ氏)

 

山本 小鉄 やまもとこてつ 日 → 新
●鬼軍曹 ●173センチ、110キロ
●1941年10月30日 神奈川県横浜市出身 ●ダイビングボディプレス
●NWA世界タッグ(テネシー版)、IWA世界タッグ
本名は山本勝。高校卒業後、サラリーマンをしながらボディビルで体を鍛え、昭和38年に日本プロレスに入門。昭和42年に星野勘太郎とともに渡米。ヤマハ・ブラザーズとしてロスを振り出しに暴れ回った。テキサスではフリッツ・フォン・エリックに気に入られエリックの自宅に寄宿し息子のように可愛がられたという。猪木の付き人も勤め昭和44年にはワールドリーグ戦に初参加。昭和46年の猪木追放の際に、後を追って日本プロレスを離脱。退職金を巡って日プロを訴え、退職金を分捕るという気の強いところも見せている。レスラーとして活躍したほかにも、若手のコーチ、マッチメイカーも兼ね、影から表から新日本プロレスを支えた。昭和54年には国際プロレスに乗り込み星野とのコンビでグレート草津、マイティ井上組からIWA世界タッグを獲得し健在振りを見せる。昭和55年に引退し審判部長、テレビ解説を勤めた。引退後は新日本プロレス・サービスの社長を勤めた。2010年8月28日永眠サイン

 

山本 英俊 やまもとひでとし 
●183センチ、89キロ
●1966年11月4日 静岡県出身
「サマー・アクション・シリーズ’86」のパンフで紹介されているレスラー。昭和61年3月31日「チャンピオン・カーニバル」の長岡大会でデビューしたが、体調不良のためにその後は欠場。空手経験者でキックにキレがあったというが、程なく引退したようである。(情報提供:佐藤様)

 

吉田川 よしだがわ 
●172センチ、110キロ
●1927年11月19日 山梨県出身
本名は真田清四郎。大相撲からの転向組で、時津風部屋で前頭13枚目まで昇進した。相撲時代に鍛えた怪力殺法を得意としたという。

 

吉田 光雄 → 長州力の項を見よ

 

芳の里 潤三 よしのさとじゅんぞう 
●ゲタ社長 ●172センチ、100キロ
●1928年9月27日 千葉県長生郡出身 1999年1月19日没 ●ゲタ攻撃
●日本ライト・ヘビー級、日本ジュニア・ヘビー級、NWA世界タッグ(テネシー版)
本名は長谷川淳三(古い資料では潤三)。大相撲の二所ノ関部屋から力道山をしたって昭和29年に日本プロレスに入門。日本選手権のライト・ヘビー級とジュニア・ヘビー級の2階級を制覇する偉業を成し遂げている。昭和36年に初渡米。ニューヨークではMSGに出場している。テネシーではデビル・サトのリングネームでタロー・サクローとのコンビでテネシー版NWA世界タッグを獲得しトップスターとなった。日本でもゲタを凶器につかう反則殺法で人気を呼ぶ。力道山の死後は副社長となり日本プロレスのフロント入り。昭和41年からは社長に就任、崩壊まで社長を務めるが、日本プロレスの崩壊が彼の放漫経営が原因という意見が多い。日本プロレス崩壊後は国際プロレスのテレビ中継の解説者を務めながら全日本プロレスに協力した。力道山OB会の会長も務めたが1999年に逝去。

 

吉村 道明 よしむらみちあき 旧全 → 日
●火の玉小僧、闘将 ●185センチ、104キロ
●1926年9月19日 岐阜県岐阜市出身 ●回転エビ固め
●日本ジュニアヘビー級、インターナショナル・タッグ、アジア・タッグ
本名=同じ。14歳の時に海軍に志願入隊。シンガポールで終戦を迎える。終戦後に近畿大学に入学。学生相撲では無敵で学生横綱となり国体でも個人優勝している。昭和29年に山口利夫が設立した全日本プロレス協会に入門。昭和31年10月に行われた階級別日本選手権のジュニア・ヘビー級部門に出場し準優勝の成績を上げる。全日本プロレス崩壊後、日本プロレスに入門する。まもなく日本ジュニア・ヘビー級選手権を獲得。昭和34年にはハワイに遠征し約8ヶ月間修行を積んだ。力道山、豊登、馬場、猪木、大木、坂口という歴代エースのパートナーを務め、血だるまになりながらも奮闘する姿は「火の玉小僧」と呼ばれた。力道山の死後は選手のほかに日本プロレス・フロント幹部、マッチメーカー、現場監督の4役をこなしたが、崩壊寸前の昭和48年3月に母校の近大記念体育館で引退。その後は母校に戻り相撲部の顧問として後進の指導にあたりプロレス界とのかかわりをほぼ完全に断ってしまった。吉村のようにパートナーを引き立てながら、自分も光るというレスラーは少なくなった。2003年2月15日に逝去。サイン

 

吉原 功 よしわらいさお 
●172センチ、95キロ
●1930年3月2日 北海道夕張市出身 ●スープレックス
●日本ライトヘビー級
早稲田大学のレスリング部で活躍していたところをスカウトされて昭和28年にプロレス入り。レスリング経験者がいない日本プロレスにとっては貴重な存在で力道山にもレスリングの動きをコーチしたという。現役引退後は日本プロレスのフロントに入っていたが、遠藤幸吉との確執hが原因で退社し、ヒロ・マツダの協力を得て昭和42年に国際プロレスを設立。欧州路線、デスマッチ路線、AWAとの提携などに活路を見出すが、結局、昭和56年には力尽きて解散。後に新日本プロレスの顧問として迎えられたが、昭和60年に胃がんのため逝去。吉原が心血を注いだ人情あふれる国際プロレスの思い出は昭和ファンの胸に深く刻まれている。

 

米村 天心 よねむらてんしん 
●172センチ、95キロ
●1946年12月16日 
秋田県鹿角市出身
本名=米村勉。大相撲の高島部屋から元日本プロレスの金子武雄が経営するボディビル・ジムでトレーナーをしていたが、昭和47年6月に金子の推薦で国際プロレスに入団。和製ブルーザーを目指しラフ・ファイターを目指して、前座戦線を沸かせた。顔も悪党向きだったが、海外遠征に出ることのないまま国際プロレスは崩壊。マイティ井上と共に全日本プロレスに移籍するがすぐに廃業した。現在はちゃんこ屋を営んでいるらしい。八角部屋に在籍する米村は彼の息子。