日本人全レスラー名鑑 チ、ツ、テ、ト

 

長州 力 ちょうしゅうりき 新 → ジ → 新
●若獅子、革命戦士 ●184センチ、115キロ
●1951年12月3日 山口県徳山市(現・周南市出身) ●さそり固め、バックドロップ
●NWA北米タッグ(新日本プロレス版)、UWA世界ヘビー、同タッグ、WWFインターヘビー(新日本プロレス版)、IWGPヘビー、IWGPタッグ、インターナショナル・タッグ(全日本プロレス版)、PWFヘビー
本名は吉田光雄。専修大学時代にアマレス日本選手権ジュニアヘビー級部門で優勝、ミュンヘン五輪にも出場するという輝かしい経歴を引っ提げて新日本プロレスのスカウト入団第一号となる。昭和49年にエル・グレコ戦でデビュー。その後すぐにフロリダに遠征。ゴッチ道場で修業を終えカナダなどを転戦。昭和52年の第4回ワールドリーグ戦に帰国、第2位の好成績を残す。その後は北米タッグを獲得したが伸び悩む。しかし昭和57年のメキシコ遠征から帰国後に藤波に造反。ここから長州人気は爆発。昭和60年には全日本プロレスに殴りこむなど、積極的な行動でプロレス新世代のリーダーとなる。新日本プロレスにUターン後は現場責任者として活躍。しかし平成14年に首脳陣を批判して再離脱し、WJを旗揚げするが、2005年に新日本プロレスに復帰。現在は長州小力とテレビ出演する機会が多い。

 

蝶野 正洋 ちょうのまさひろ 
●188センチ、102キロ
●1963年9月17日 米・ワシントン州シアトル出身 ●STF
●セントラルステーツTV、WWA世界ヘビー(トライステート版)、北米タッグ(マリタイム版)、CWFタッグ(テネシー版)
アメリカ生まれの帰国子女。中学高校時代はサッカーに熱中し、サッカー選手を目指していた時期もあったようだが、昭和59年に新日本プロレスに入門。当時は練習熱心なことと丸坊主に髭という風貌のため「藤原二世」というニックネームがつけられていた。この頃の新日本プロレスは選手の大量離脱で崩壊の危機を迎えており、蝶野、橋本、武藤らには大きな期待をかけられた。格闘技の経験がなかったため出遅れるが、昭和62年のヤングライオン杯に優勝。同年6月にドイツに遠征。翌年からアメリカ、プエルトリコをサーキット。昭和63年に橋本、武藤と闘魂三銃士を結成し一時帰国。平成元年にはSTFを引っさげて帰国。日本に定着し、G1に二連覇、NWA世界王座を獲得するなどビッグマッチに強い面を見せる。平成6年には「武闘派」を宣言。天山、ヒロ斎藤と狼軍団を結成。のちに増殖しNWOとなり大ブレイク。その後は、現場責任者を務めた。

 

月影 四郎 つきかげしろう 旧国 → ア
●180センチ、105キロ
●1927年8月19日 奈良県出身
本名は高木清晴。プロ柔道から木村政彦の国際プロレス団に入団。木村が清美川と組んで設立したものの放棄したアジア・プロレスのエースとなる。日本選手権にも重量級部門で出場しているが敗退。その後、東亜プロレスと対抗戦を行うなどしたが、プロレス界からフェイドアウト。

 

鶴田 友美 → ジャンボ鶴田の項を見よ

 

鶴見 五郎 つるみごろう 国 → フリー
●178センチ、115キロ
●1948年11月12日 神奈川県横浜市鶴見区出身 ●ゴロー・スープレックス
●NWA世界ライトヘビー
東海大学時代はアマレスで活躍。その実績を買われて昭和46年に国際プロレスに入門。昭和48年に清美川の引率でドイツに遠征。その後メキシコ入りしドクトル・ワグナーを破りNWA世界ライトヘビー級選手権を獲得。しかしウェイトオーバーが発覚し剥奪される。昭和51年に凱旋帰国するが全くブレイクできず。以後、中堅にくすぶるが昭和54年11月に吉原社長ともめ独立愚連隊を宣言。大位山、ミスター珍を巻き込んで外人側で出場し、日本人レスラーに牙を向いた。国際プロレス崩壊後は一時ドイツに遠征していたが、全日本プロレスのリングに登場。シン、上田やラッシャー木村と共闘して存在感をアピールした。その後、SWS、NWO、レスリングユニオンを渡り歩き、IWA格闘志塾を結成。屋台プロレスに活路を見出す。生き馬の目を抜くプロレス界の中にあって数少ない常識人だといわれている。国際プロレス時代の愛称は「どぶちゃん」。(情報提供:放浪の殺し屋氏)

 

デビル紫 でびるむらさき 
●178センチ、100キロ
●1942年4月30日 大阪府大阪市出身
本名は村崎昭男。海上自衛隊を除隊後の昭和42年に国際プロレスに入門。一時は村崎鬼三を名乗ったが、デビル紫に落ち着く。昭和47年にテネシーに遠征、大位山とのコンビで活躍。この後WWA、メキシコをサーキット。各地でトップヒールとして活躍。昭和50年にスペインに転戦した際にマスクマンに変身した。昭和51年10月に帰国。寺西勇のIWA世界ミッド・ヘビー級王座に挑戦するなど注目を集めるが、その後は同じマスクマンのマッハ隼人の台頭などもあり尻すぼみ。昭和55年に引退して国際プロレスの営業部員となった。正体の割れている日本人レスラーがマスクマンに転向した最初のケースだともわれる。

 

寺西 勇 てらにしいさむ  →国 → ジ → 全
●和製マットの魔術師 ●175センチ、100キロ
●1946年1月30日 富山県西砺波郡出身 ●原爆固め
●IWA世界ミッドヘビー、アジア・タッグ
本名は寺西等。昭和41年に立浪部屋から東京プロレスに入門、旗揚げ戦の蔵前国技館でデビュー。東京プロレス分裂後は国際プロレスに合流。マイティ井上と共に若手テクニシャンとして注目を浴び、両者の対戦は名物カードとなった。昭和50年にはIWA世界ミッド・ヘビー級王者となる。国プロ崩壊後は新日本プロレスに登場。新・国際軍団としてヒール人気を獲得。タイガーマスクとの試合ではテクニシャンとしての本領を発揮し、タイガーマスクを大いに苦しめた。その後ジャパン・プロに参加し全日本プロレスに登場。ここでアジア・タッグを獲得。平成2年には頚椎をいため引退するが、その後スポット的に復帰しリングに上がったこともある。

 

寺西 等 → 寺西勇の項を見よ

 

輝昇 てるのぼり 
●175センチ、100キロ
●1922年1月26日 北海道留萌市出身 1967年2月20日没
大相撲時代は関脇まで昇進したが、力道山の相談役として日本プロレスに入社。プロレスラーに転向したが試合は行っていない。退団後はTBSの相撲解説者となるが、45歳で急逝。

 

天龍 源一郎 てんりゅうげんいちろう  
●昇り竜 ●190センチ、125キロ
●1950年2月2日 福井県勝山市出身 ●DDT、パワーボム
●ミッドアトランティック・タッグ、UNヘビー(全日本プロレス版)、インターナショナル・タッグ(全日本プロレス版)、世界タッグ(全日本プロレス版)
本名は島田源一郎。大相撲のニ所ノ関部屋から昭和51年に突然廃業し、髷を結ったまま全日本プロレス入り。日大講堂のリング上で断髪式を行った。体格もプロレス向きで期待を集めた。アメリカ修行中には覆面を被りライジングサンズ(写真右)に変身したこともあるが、中々ブレイクできず、三度目の凱旋帰国の際ディック・スレーターの代打としてビル・ロビンソンと組んで馬場&鶴田のインター・タッグに挑戦、大善戦してようやくブレイク。ジャパン・プロ殴り込みの際は鶴田とのコンビで活躍。ジャパンプロの離脱後は天龍同盟を結成し、鶴田に牙を向いた。平成2年にはSWSに参加。その後WARを設立し、新日本、Uインター、FMWなどと交流戦を行う。現在はフリーとして数多くの団体で活躍中。昭和世代の心意気を持つ数少ないレスラーだ。(左写真提供:HARU一番様) サイン

 

ドクター・ヒロ・オオタ → ヤス・フジイを見よ

 

戸口 正徳 → タイガー戸口を見よ

 

土佐の花  → 竹村正明を見よ

 

戸田 和雄 とだかずお 亜→旧新
●178センチ、90キロ
●1931年5月13日 北海道出身
戸田武雄の長男といわれているが、生年月日を照らし合わせると弟ではないかというような気もする。大相撲からの転向。

 

戸田 武雄 とだたけお 国際→亜→旧新
●168センチ、96キロ
●1913年7月15日 北海道三笠町出身
北海道柔道選手権大会に於いて数回優勝。全日本選手権大会に北海道代表として出場。得意技は左一本背負、縦四方、横四方(以上、日本選手権パンフより)木村政彦に誘われて国際プロレス団に入団。その後、東亜プロレスに参加するもこれも崩壊。北海道に戻り新日本プロレス(後の猪木の団体とは別)を創設したが、これといった活動もせぬまま解散している。

 

豊登 道春 とよのぼりみちはる 日→国→新
●怪童 ●174センチ、114キロ
●1931年3月21日 福岡県田川郡金田町出身 1998年7月1日没 ●逆エビ固め
●アジア・タッグ、WWA世界ヘビー(ロス版)、TWWA世界タッグ、IWA世界タッグ
本名は定野道春。終戦後すぐに立浪部屋に入門。前頭15枚目まで進んだが、力道山に誘われて昭和29年に日本プロレス入り。途中蒸発事件などもおこすが力道山に可愛がられパートナーに起用されアジア・タッグを獲得した。力道山没後は日本プロレスの代表&エースとなりWWA世界選手権を獲得。しかし昭和40年に放漫経営の責任を負わされ日プロから追放される。昭和41年には猪木を誘って東京プロレスを設立。しかしここでも金銭面でのトラブルを起こし東京プロレスは崩壊。昭和42年からは国際プロレスに入団。TWWA、IWAの両世界タッグを獲得。昭和45年に引退するが、昭和47年に猪木に口説かれて新日本プロレスの旗揚げに参加。テレビ放送が決まる昭和48年4月まで現役を続けた。その後も猪木、大木戦のレフェリーを務めるなどしていたが、晩年は故郷に戻る。1998年7月1日に急性心不全で逝去。

 

ドン荒川  → 荒川真を見よ