日本人全レスラー名鑑 戦前レスラー編

 

キラー・シクマ
●182
センチ、95キロ
●1905年 米・ハワイ州出身 1960年没
本名は志熊俊一。お孫さんから情報提供を頂くまでは全く幻だった日本人レスラー。ハワイに生まれ少年時代に帰国。大正6年から小学校の教員を務め柔道の指導も行っていた。昭和5年にハワイの日本人学校に招かれて渡航。柔道を指導する傍らでプロレスのリングに上がるようになる。日本人初の重量級レスラーとして昭和11年にはアメリカ・マットに進出。ロス、テキサス、カナダなど北米大陸をサーキット。ルー・テーズがはじめて戦った日本人レスラーである。引退後は山口県で小学校の校長を務めた。

さらに詳細を知りたい方はこちら(情報提供:KA様)

 

キング・ロー
田鶴浜弘氏の「プロレス血風録」で紹介されている人物で「フランク・ゴッチの公式試合記録の中に出てきて、はっきりと日本人と国籍が明示されているが、本名はわからない」とある。その公式記録では1904年にシアトルでゴッチと戦い、敗戦しているという。

 

コンデ・コマ
●166
センチ、94キロ
●1878年 青森県弘前市出身 1941年没
本名は前田光世。漫画にもなったので、ご存知の方も多いだろう。コマの場合は、レスラーというよりもプロ柔術家と呼ぶべきかもしれない。講道館の柔道特使として渡米。試合のほとんどは柔道着でリングに上がり、異種格闘技戦のようなことをやっていたという。しかし明治41年(1908年)にはロンドンで行われた「世界レスリング選手権大会」に出場。ミドル級で準決勝進出、ヘビー級で2位になる好成績を収め、この年、スペインの伯爵号である「コンデ」を授与されている。大正14年(1915年)には、ブラジルに遠征。ここでガスタオン・グレイシーに柔術の手ほどきをしたが、これがグレイシー柔術の元祖である。コマはブラジルに帰化。昭和16年に帰らぬ人となり、柔道を広めた実績が評価されて講道館より7段を授与された。

 

ソラキチ・マツダ
●182
センチ、95キロ ●福井県出身
本名は松田幸次郎。日本人プロレスラーの第1号といわれるレスラー。伊勢ヶ浜部屋に所属し荒竹寅吉(光二郎時代もあり)の四股名で相撲を取っていた(序二段で廃業)が、明治16年(1883年)の秋に単身渡米しレスラーとなった。寅吉がなまって、もしくはマツダ自身が署名を間違えて、ソラキチとなる。ウィリアム・マルドーン、エドウィン・ビッピーなどの当時の強豪と対戦した記録が残っている。特にビッピーとの賞金マッチは「開花新聞」でも報じられた。アメリカで「マツダ」イコール強い日本人の代名詞となった。フィラデルフィアでアメリカ人女性と結婚し、アメリカに永住した。

 

タロー三宅
●岡山県出身
本名は三宅多留次。武徳会系の柔道家で大阪の中学で柔道教師をしていたが、1920年代に柔道教師としてイギリスに招かれる。ここでレスリングを身につけ、プロレスのリングに登場。グレート・ガマとも対戦したという。その後、渡米し東部、中西部、太平洋岸など各地を転戦。マジソン・スクエア・ガーデンにも出場したという。エド・ルイス、ディック・シカット、ジム・ロンドスといった世界王者級の選手と戦っている。昭和3年(1928年)にはベルソート(カナダ)、ベルダラメン(イギリス)、アスバードル(アメリカ)というレスラーたちを帯同して帰国。これを受けて「大日本レッスリング普及会」が発足し、プロレスの普及を試みるが、当時の日本にはプロレスはなじまなかったようだ。アメリカではメケ三宅との名乗り、マティ・マツダとも一緒に試合に出場していた。

 

ヒガシ
田鶴浜弘氏の「プロレス血風録」にて紹介されている人物で、1905年11月ニューヨークのグランド・セントラル・パレスで当時の人気レスラー、ジョージ・ボスナーと戦った記録が残っているという。ボスナーは著書でヒガシを「起倒柔術のチャンピオンで、危険きわまる武術」と紹介していたという。

 

マティ・マツダ
●170
センチ、85キロ
●1887年 熊本県八代市出身
●世界ジュニア・ウェルター級
本名は松田万次郎。少年時代から柔道相撲で身体を鍛え、ケンカも強かったという。17歳の時(明治37年=1904年)に単身渡米。レスラーとして名を上げ、1923年ごろには世界ジュニア・ウェルター級王者となる。日本人初の世界王者はマティ・マツダということになる。白人女性と結婚し、1920年からはエルパソに在住。1929年6月に逝去。毒殺説も流れたが、これは間違いで、ジャッキー・レナウドとの試合で膝を痛めたのが元で骨髄炎になり、これが原因で死亡した。