日本人全レスラー名鑑 サ
斎藤弘幸 → ヒロ斎藤を見よ
斎藤昌典 → マサ斎藤を見よ
栄勇 → スネーク奄美を見よ
坂口 征二 さかぐちせいじ 日 → 新 ●荒鷲 ●196センチ、125キロ ●1942年2月27日 福岡県久留米市出身 ●アトミックドロップ、ジャンピングニーパット ●USタッグ(デトロイト版)、UNヘビー、インターナショナル・タッグ、アジア・タッグ、NWA北米タッグ、NWF北米ヘビー、WWF北米ヘビー |
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昭和40年の柔道日本選手権制覇という栄光を引っさげて昭和42年にプロレス入り。この入団が原因で日本プロレスと柔道連盟の関係が険悪になった。入団後すぐに渡米しカール・ゴッチのコーチを受けロスをりち出しにテキサス、デトロイトを転戦、ビッグ・サカの名で人気を博す。この間日本とアメリカをまたにかけていたが、昭和47年には猪木が抜けた穴を埋めるために日本に定着。UNヘビー、インタータッグを獲得、馬場が脱退後は大木との2枚看板となるが、団体の将来を憂い猪木と握手するが、ほかの選手の反対で単身新日本プロレスに移籍。非常に温厚な性格で新日本プロレス移籍後も猪木を立てて常にNo.2の座に甘んじたが、新日本プロレスが発展を遂げた裏には坂口の献身的な貢献があったことを忘れてはならない。次男の憲二が俳優として活躍中。平成14年にカムバックしファンを驚かせた。サイン |
桜田一男 → ケンドー・ナガサキを見よ
笹川 弘康 ささがわひろやす 国 ●180センチ、105キロ ●1954年4月3日 東京都墨田区出身 |
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昭和54年10月に国際プロレスに入門した選手。大相撲・出羽の海部屋からのプロレス入りで、大相撲を廃業した後はしばらくボディビルで身体を作り直し、25歳の時に国際プロレスに入門した。身体にも恵まれて期待されたが、年齢的な問題もあってかデビュー前に国際プロレスを退団している。 |
佐々木 健介 ささきけんすけ ジ → 新 ●180センチ、110キロ ●1966年8月4日 福岡県福岡市出身 ●ストラグル・ホールド ●カリビアン・タッグ、IWGPヘビー、IWGPタッグ、WCW認定USヘビー |
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昭和60年にジャパンプロに入門。昭和62年に長州らとともに新日本プロレスに移籍。前座で新日本、UWFの若手との連日の激戦で力をつけ、平成元年に海外遠征。プエルトリコやカナダを転戦した。翌年帰国し馳とのコンビでIWGPタッグを獲得。平成4年にはパワー・ウォリアーに変身、再びIWGPタッグを獲得。チーム解散後はシングルプレーヤーに専念し、IWGPヘビーも獲得。新日本プロレスのエースとなった。長州のWJに参加したが、2003年に袂を分かち現在はフリー。平成7年には女子プロレスラーの北斗晶と結婚。タレントとしても活躍している。 |
笹崎 伸司 ささざきしんじ 新 → ジ ●185センチ、95キロ ●1965年8月2日 神奈川県川崎市出身 |
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昭和58年に新日本プロレスに入門するが、デビューまもなく長州のジャパンプロに移籍。戦場を全日本プロレスに移す。昭和62年にはカナダに遠征したが、帰国後すぐにレスラーを引退。その原因は全日本プロレスの体質に失望したとも言われている。恵まれた体格を持っていただけに残念な逸材であった。引退後はUWFインターナショナルのブッカーとして活躍していた。 |
佐藤 昭雄 さとうあきお
日 → 全 ●180センチ、105キロ ●1953年12月13日 北海道川上郡弟子屈町出身 ●スープレックス ●NWA世界タッグ(カンサス版)、アジア・タッグ |
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昭和45年に日本プロレスに入門。馬場の付け人になる。昭和47年に全日本プロの旗揚げに参加。貴重な前座、中堅の戦力となる。昭和49年には初渡米し、カンサスを中心とするセントラルステート地区で人気を獲得。昭和54年のオールスター戦にあわせて一時帰国。その後は石川孝志とのコンビでアジア・タッグ王座にもなったが、あまりにも地味なレスリングスタイルでぱっとした人気は出なかった。昭和60年に再渡米したが、そのまま全日本プロレスを離脱し、平成元年にWWFのフロントに入り、裏方として実力を発揮した。現在はアメリカで長距離トラックの運転手をしているとのこと。 サイン |
佐藤 一生 さとうかずお 新 ●176センチ、88キロ ●1947年9月30日 大阪府出身 |
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創立間もない新日本プロレスの第1期入門レスラーの一人。関西大学のアマレス部出身で、即戦力と期待されたが、まもなくレスラーを廃業。引退後は警察官になっている。 |
佐野 浅太郎 さのせんたろう 国 ●188センチ、90キロ ●1948年3月30日 滋賀県出身 |
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本名は佐野実。相撲からの転向組。東八→浅太郎→先風の順に改名している。昭和44年には東南アジア遠征にも参加したが昭和46年ごろに引退している。以下、昭和45年「新春チャレンジ・シリーズ」のパンフより「瀬田工業高校卒業後大相撲朝日山部屋に入門、昭和43年3月国際入社、同年5月初マット。完全なソップ型の筋肉質な体は、相撲よりボディ・ビルダーといった感じ。ちょっと気の弱いところがあるが、有望株の一人だ。」 サイン |
佐野先風 → 佐野浅太郎を見よ
佐野東八 → 佐野浅太郎を見よ
佐野 直喜 さのなおき 新 ●180センチ、100キロ ●1965年2月2日 北海道苫小牧市出身 ●ローリングソバット ●メキシコ・トリオ、IWGPジュニアヘビー |
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昭和58年に新日本プロレスに入門。昭和62年には畑浩和とともにメキシコに遠征し、浅井(現在のウルティモドラゴン)を加えたトリオで活躍した。帰国後、獣人ライガーからIWGPジュニアヘビーを獲得する。平成2年にはSWSに移籍。ここでもなんとリック・マーテルを破りSWSジュニアヘビー級王者となり売り出されるがSWSが崩壊。その後はUWFインターを経て、現在はNOAHに参戦している。佐野友飛(ゆうひ)と名乗った時期もあるが、現在は佐野巧真(たくま)。 |
サムソン・クツワダ
日 →
全 ●190センチ、121キロ ●1947年5月1日 北海道江別市出身 2004年10月12日没 ●アジア・タッグ、オーストラアジア・タッグ |
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昭和42年に大相撲の朝日山部屋から日本プロレスに入門、ジャイアント馬場の付き人となる。韓国遠征時はマスクをかぶってタイガーマスクに変身し人気を得た。馬場の全日本プロレス創設に参加。遠征先の豪州では軍人ギミックで大ブレイク。昭和51年の韓国遠征ではタイガーマスクに変身し人気を博した。エース候補として期待を受けるが、ジャンボ鶴田の台頭で精彩を欠くようになり、昭和52年末にレスラーを引退している。グレート・カブキの証言では鶴田とともに新団体設立に動いたが、それが馬場にばれての解雇だったという。レコードをリリースするなど芸達者でもあった。2004年10月12日急性骨髄性白血病のため逝去。57歳だった。 |
サムソン冬木 さむそんふゆき 国 → 全 ●181センチ、110キロ ●1960年5月4日 東京都出身 2003年3月19日没 ●アジア・タッグ、WAR世界6人タッグ |
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本名は冬木弘道。昭和54年に国際プロに入門。昭和56年の国際プロレス崩壊後はマイティ井上らとともに全日本プロレスに移籍。昭和59年には海外初遠征、帰国後サムソン冬木に改名し天龍同盟に参加。川田とのコンビ「フットルース」でアジア・タッグを獲得するが、SWS入りのため全日本プロレスを離脱。SWS崩壊後はWARに移籍。ここでリングネームを本名に戻す。ここで理不尽大王を自称し人気爆発。邪道、外道とのトリオで活躍した。闘病の末、2003年逝去。 |
佐山聡 さやまさとる 新
→ 旧U ●173センチ、96キロ ●1957年11月27日 山口県下関市出身 ●キック攻撃、ジャーマンスープレックス ●NWA世界ミドル |
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本名も同じ。中学、高校時代はアマレスと柔道に打ち込み、格闘技熱が嵩じて高校を1年で中退して昭和50年に新日本プロに入門。昭和52年には「格闘技大戦争」に出場しマーシャルアーツのマーク・コステロの猛攻を受けぼろ雑巾のように崩れ去った。翌年メキシコに遠征、現地でNWA世界ミドル級を獲得する快挙を成し遂げ、昭和55年にはイギリスに遠征しサミー・リーのリングネームで、プロレスにマーシャルアーツをミックスしたスタイルを完成させる。昭和56年にはタイガーマスクに変身して爆発的な人気を得た。 タイガーマスクの項も見よ。 |
サンダー杉山
さんだーすぎやま 日
→ 国 → 全 → フリー ●雷電 ●178センチ、125キロ ●1940年7月23日 新潟県糸魚川市出身 2002年11月22日没 ●雷電ドロップ、ソバット ●TWWA世界タッグ、IWA世界タッグ、ヨーロッパ・タッグ、IWA世界ヘビー |
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本名 杉山恒治。明治大学在学時はレスリング日本選手権を制覇、昭和39年の東京オリンピックにも出場。昭和40年に日本プロに入門、(マサ)斎藤、(グレート)草津とともに明大三羽烏と呼ばれたが、昭和41年に草津とともに国際プロレスに移籍し同時に初渡米、トーキョー・ジョーのリングネームで血の雨を降らせた。帰国後はメインエベンターとして活躍、昭和45年にはIWA世界ヘビー級を獲得しエースに。昭和47年にはトレードで全日本プロレスに移籍するが、条件面で馬場と決裂して退団。昭和52年に国際プロレス、昭和53年に新日本プロレスに登場している。事業家として活躍したが、糖尿病が悪化し両手両足を切断。闘病の末、平成14年11月に逝去。サイン |