日本人レフェリー&リングアナ名鑑

 

レフェリー

 

阿部 脩 → 日本人レスラー名鑑「ア」を見よ

 

海野 宏之 うんのひろゆき 
●1967年2月16日 埼玉県鳩ヶ谷市出身
1988年7月4日の桑名大会でデビューしたレフェリー。天龍がSWSを旗揚げした際に移籍。その後、WARを経て新日本プロレスに移籍。現在はレッドシューズ海野を名乗り、審判部長を務めている。

 

遠藤 光男 えんどうみつお 
●1942年9月13日 東京都千代田区出身
日本ボディビルディング界の第一人者で、昭和41年度のボディビル・ミスター日本となる。日本アームレスリング連盟副理事長、日本パワーリフティング協会理事を務め、錦糸町ボディビルセンターも経営していたが、昭和53年に国際プロレスに入団。当初はレスラーとして入団の予定だったという。キビキビとしたレフェリングはなかなか評判が良かった。国際プロレス崩壊後はしばらくプロレスを離れたが、昭和59年ごろに旧UWFのレフェリーを短期間務めている。現在も時々テレビで姿を見かける。

遠藤ジム公式サイトはこちら http://www.endogym.com/index.html

 

 識名 おきしきな 
1904年 沖縄県出身 1983年12月15日没
本名は識名盛夫。沖縄出身でハワイに移住。ハワイ相撲の横綱を経てメケ三宅に入門してプロレスに転向。アメリカ本土にも進出し、インターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者にもなっている実力者。力道山のコーチを務めてから日本プロレス協会とかかわりを持ち、長年にわたりレフェリーを務めた。エキサイトした外人レスラーにシャツを破かれるというのが定番のシーンであった。昭和48年3月に引退。日本プロレス史を語る上で欠かせない功労者。すでに故人。サイン

 

川崎 信男 かわさきのぶお 
当時、全日本プロレスのリングを輸送していた東和運輸株式会社の御曹司。昭和47年に中央大学法科を卒業。レフェリーになる事を熱望して全日本プロレスに入団。ジョー樋口の指導を受け昭和48年8月から前座のレフェリーを務めたが昭和49年中には退社している。

 

九州山 義雄 きゅうしゅうざんよしお 
●1913年10月20日 福岡県山田市出身 1990年5月30日没
本名=大坪義雄。大相撲の出羽の海部屋に所属し小結まで昇進した名力士。日本プロレス設立に際し、沖識名に師事してレフェリーとして参加。レスラーの経験はないようだ。また英語で20カウントを数えられなかったという伝説も持つ(実際には数えられた)。崩壊後も猪木対大木戦の際に、大木のセコンドに付くなどしている。昭和40年頃にはすでにレフェリーも引退しておりフロント業務に専念。しかし給料以外にコーチ料の名目で新人レスラーのギャラよりはるかに高い手当てを受け取っていたという。すでに故人。

 

桜井 公正 さくらいきみまさ(?) 
●1957年12月27日 東京都出身 
昭和55年ごろに全日本プロレスに在籍していたレフェリー。以下「80サマー・アクション・シリーズ2」パンフより抜粋。「昭和32年12月27日生まれ。東京都出身。1980年新春ジャイアント・シリーズでデビュー。樋口、和田の両先輩を目標にスピーディーな動きが身上」

 

柴田 勝久 → 日本人レスラー名鑑「シ」を見よ

 

ジョー樋口 じょーひぐち 旧全→ 日 → 全
●178センチ、98キロ
●1929年1月18日 神奈川県横浜市出身
少年時代から柔道をはじめ、終戦後に駐留軍で柔道を教えるようになり英語をマスター。昭和29年に旧全日本プロレスに入門。階級別日本選手権には山口道場所属としてライト・ヘビー級部門に出場。2回戦では金子武雄の腕をへし折るシュート振りを見せ付けたが、準決勝で吉原功に敗退。結局、日本ライト・ヘビー級レーティングスの3位にランキングされた。昭和35年に引退するが、昭和38年に外人係として日本プロレスに復帰。昭和40年からはレフェリーも兼任する。ちなみに旧全日本プロレス時代にもレフェリーの経験はあったようだ。昭和47年の全日本プロレス旗揚げに参加。NWA公認レフェリーとしてキールオーデトリアムで世界戦を裁いたこともある。NOAHでコミッショナーを務めた。2010年11月8日永眠。

 

田中 米太郎 たなかよねたろう 日→新
●1928年1月2日 ●高知県出身

大相撲の二所ノ関部屋時代から力道山の付き人(当時の四股名は桂浜)となり、昭和29年に力道山の後を追ってプロレスに転向。ジャイアント馬場のデビュー戦の相手としても有名だが、レスラー時代はこれと言った活躍はなかった。力道山の死後にレフェリーに転向。昭和48年に坂口征二とともに新日本プロレスに移籍し、メインレフェリーとなる。ファンをいらいらさせるレフェリングは天下一品。業を煮やした猪木に制裁を加えられることもあった。この人の作るちゃんこは最高にうまかったそうだ。

 

タイガー服部 たいがーはっとり 新→全
●1945年7月20日 ●東京都中央区出身

本名は服部正男。昭和20年7月20日、東京都出身。全米アマレス選手権二連覇の実績を持ち、ヒロ・マツダのジムでコーチを務めていたこともある。1977年にフロリダでレフェリーデビュー。この頃、フロリダで活躍していたマサ斎藤、高千穂、キラー・カーンらのマネージャーも務めた。またこの頃、月刊デラックスプロレスに「タイガー服部のアメリカ・レポート」という連載も持っていた。新日本プロレスにレフェリーとして登場した後は、ジャパン・プロレス勢と共に全日本プロレスに移籍したが、新日本プロレスに出戻り。現在はフリーで活躍。BSのプロレス番組の解説も務めている。

 

ヘンリー雲井 へんりーくもい 国 
国際プロレスの「日欧チャンピオン決戦シリーズ」のパンフレットで紹介されているレフェリー。名前から判断するに日系人か? 情報募集中!

 

前溝 隆男 まえみぞたかお 
●1937年8月 トンガ出身
トンガ出身で日本人とトンガ人のハーフ。昭和27年に大相撲の三保ヶ関部屋に入門。増錦の四股名で幕下まで昇進した。廃業後はプロ野球選手を目指し高橋ユニオンズの入団テストを受けるが球団の買収騒ぎで入団ならず。さらにはプロボクサーに転進して全日本ミドル級王座を獲得。その後、プロボウラーを経て国際プロレスでレフェリーを務めたという波乱万丈の人生を送った人物。キビキビしらレフェリングが特徴だったが、外人の反則には非常に甘かった。彼の経歴については沢木耕太郎著「王の闇」に詳しい。

 

マンモス鈴木 → 日本人レスラー名鑑「マ」を見よ

 

ミスター空中 みすたーそらなか 旧U
●175センチ、108キロ
●1944年 兵庫県出身 1992年没
本名は空中正三。カール・ゴッチの娘婿。マレンコ道場のコーチとしても知られる。ゴッチのルートでメキシコでレフェリーを勤め、猪木VSカネックのNWF選手権試合も裁いている。昭和53年には新日本プロレスのリングにもレフェリーとして登場。旧UWFにはレフェリーとして参加していたが、途中から選手としてリングに登場。いくら腕に覚えがあるとはいえ年齢的にきついものがあった。1992年に逝去。

 

ミスター高橋 みすたーたかはし 
●1941年1月24日 神奈川県横浜市出身
山本小鉄の幼馴染で共にボディビルで体を鍛え日本プロレス入門を目指す。しかし高橋は肩を痛めて入門を断念。しかし嘉地久晴が興した新団体に参加し韓国、東南アジアをレスラーとしてサーキット。帰国後ボディビルダーを集めビルダーファイトなる新格闘技を考案したりしている。昭和47年に山本小鉄に誘われて新日本プロレスに入団しメインレフェリーとなる。審判部長まで務めたが目を悪くして1998年に引退。新日本プロレスのトレーニングアドバイザーをしていたが、突然暴露本を出版。良識あるファンから顰蹙を買った。

 

ミスター林 → 日本人レスラー名鑑「ミ」を見よ

 

福田 明彦 ふくだあきひこ 
●1964年1月14日 群馬県前橋市出身
1987年3月31日の魚津大会でデビューしたレフェリー。NOAHが旗揚げされた際に移籍。三沢の秘書も兼務していた。現在はNOAHのチーフレフェリーを務めている。

 

和田 京平 わだきょうへい 
19541120日 東京都足立区出身
T運輸でリング輸送の主任をしていたが、巡業に同行しながらジョー樋口のコーチを受け昭和49年12月から全日本プロレスに入団しレフェリーに転向した。非常にキビキビしたレフェリングが印象的で「恭平ちゃん」コールが起こるほどの人気を博した。分裂後も全日本プロレスに残留しレフェリーを務めている。

 

 

リングアナウンサー

 

阿久津 直義 あくつなおよし 
力道山時代に活躍したリングアナウンサーで、俳優として数本の映画に出演している。

 

飯橋 一敏 いいばしかずとし 
●東京都出身
昭和54年ごろから国際プロレス登場したリングアナウンサーで維新力の実兄。国際プロレス崩壊後は全日本プロレスの社員となり、外人選手移動用のバスの運転手を務めていた。よく道を間違えるので「WRONG WAY」とあだ名されたという。弟の維新力がSWS崩壊後に飯橋氏を頼って全日本プロレス入りを申し出たこともあった。全日本プロレス分裂後はNOAHに移籍。現在もパンフレット売り場などに元気な姿を見せているという。(情報提供:ドン・ボボ・エリック氏、ジャイアント鶴田氏、OX氏、トレーナー氏、レッスルアワー氏)

 

大塚 直樹 おおつかなおき 
1949年3月22日 東京都江戸川区出身
新日本プロレスの初代リングアナウンサー。決して美声ではなかったが、どすのきいたガラガラ声は結構迫力があった。昭和50年ごろから営業部に転属。新間寿の右腕と名って活躍したが、UWF騒動の後にジャパン・プロレスを設立し、長州、谷津など新日本プロレスの主力選手を引き抜き、新日本プロレスを崩壊寸前にまで追い込んだ。現在は株式会社赤坂の代表取締役。

 

小松 敏男 こまつとしお 
●1925年3月3日 高知県潮江出身
二所ノ関部屋で力士をしていた縁で日本プロレスに入社。当初はレフェリーをしていたが、昭和36年からリングアナウンサーになったが、力道山家が日本プロレスと決別した際に退社している。退社後は故郷の高知でプロモーターに転進。昭和42年の東京プロレスの旗揚げの際には、飛び入りでメインエベントのリングアナウンサーを務めたこともある。

 

篠原 長昭 しのはらながあき(?) 
「あ、本日のぉ〜メ〜インエベント〜、60分3本勝負でぇ、ございます」といった独特の節と言い回しが印象的な後期日本プロレスの名物アナウンサー。日本プロレス入社前は立教大学で応援団に所属していたという。日本プロレスの崩壊までリングアナウンサーを勤めたが、崩壊後は不動産業を営んだといわれている。

 

神 真慈 じんしんじ 旧U
旧UWFで活躍したリングアナウンサー。新生UWFでは社長に就任したが、分裂後はUWFインターナショナルに移籍している。

 

鈴木 利夫 すずきとしお 
日本プロレスの営業部員だったが吉原功をしたって国際プロレスの旗揚げに参加。営業部長として手腕を発揮していたが、竹下民夫が脱退した昭和50年ごろからリングアナウンサーを兼任するようになった。この人のアナウンスは独特の言い回しがあり非常に印象に残っている。

 

竹下 民夫 → 日本人レスラー名鑑「タ」を見よ

 

田中 秀和 たなかひでかず 
1959年1月6日 愛知県稲沢市出身
新日本プロレス3代目のメイン・リングアナ。ケロちゃんの愛称でファンに親しまれた。当初はオーソドックスなリングアナ振りを見せていたが、次第に派手なコスチュームを身につけたり、紹介前に「前口上」を付け加えるなど、新しいリングアナウンスのスタイルを確立した。著書も多数で、毒舌でも知られる。現在は田中ケロとして活躍中。

公式ブログはこちら http://ameblo.jp/kerog-2006/

 

仲田 龍 なかたりゅう 
1962年3月14日 東京都板橋区出身
「1980年チャンピオン・カーニバル」からリングに登場。馬場の秘書としてかわいがられ、メインのリングアナウンサーとなる。馬場の死後はNOAH旗揚げに参加。現在は取締役統括部長に就任。NOAHを動かしている男と言っても過言ではない。

 

倍賞 鉄夫 ばいしょうてつお 
倍賞美津子の実弟。新日本プロレスには営業部員として入社。大塚アナが営業に回った際にリングアナウンサーとなった。よくタイガー・ジェット・シンに襲われていた姿を思い出す。一時退社するが、現在は新日本プロレスのフロントに名を連ねている。

 

原 軍治 はらぐんじ 
「昭和53年5月のスーパー・パワー・シリーズから前任の百田義浩に代わって、熱戦激闘の名司会役として登場。持ち前のビ性と度胸でフットライトを浴びている。全日本プロレス創立時から営業部門の役員として参画、手腕を振るった実績がある。内外のレスラーからはヒゲの軍ちゃんと親しまれている好漢」(以上「80サマー・アクション・シリーズ2」パンフより抜粋)

 

百田 義浩 → 日本人レスラー名鑑「モ」を見よ