日本人全レスラー名鑑  ラ行

 

 

ラッシャー木村 らっしゃーきむら 日 → 東 → 国 → フリー → 旧U →全
●金網の鬼 ●185センチ、125キロ
●1941年6月30日 北海道中川郡出身 逆エビ固め、パイルドライバー
ヨーロッパ・タッグ、TWWA世界タッグ、IWA世界タッグ、IWA世界ヘビー
本名は木村政雄。中学時代からレスラーになる夢を持っていたが昭和33年に宮城の部屋の見学に行ったところをスカウトされて断りきれずに入門。幕下上位まで進むが関取になる前にということで昭和39年に自ら髷を切り日本プロレスに入門。木村政美のリングネームで前座で活躍。豊登の付き人をしていたこともあり昭和41年の東京プロレス旗揚げに参加。崩壊後は日本プロレス復帰を望んだものの国際プロレスに入団。昭和44年にはタッグ2冠王となり、金網デスマッチでお強さを見せ「金網デスマッチの鬼」と呼ばれた。昭和45年に初渡米。カンサスではD・F・ジュニアの世界タイトルに3回挑戦するまでに成長した。昭和50年にIWA世界選手権を獲得し、崩壊まで国際プロレスのエースに。力道山を髣髴とさせる風貌でおじさんファンに根強い人気を持っていた。崩壊後は国際はぐれ軍団として新日本プロレスに登場。そして旧UWFを経て全日本プロレスに登場。昭和の全団体を渡り歩いた唯一のレスラーとなった。全日本プロレスではマイクパフォーマンスで人気を集め、金網の鬼転じて「マイクの鬼」と呼ばれた。NOAHの旗揚げに参加したが、2004年7月10日に引退を表明。2010年5月24日永眠。サイン

 

ランボー・サクラダ → ケンドー・ナガサキの項を見よ

 

力道山 光浩 りきどうざんみつひろ 
180センチ、113キロ
●1924年11月14日 長崎県大村市(朝鮮・咸鏡南道)出身 1963年12月15日没 ●カラテチョップ、バックドロップ
ハワイ・タッグ、NWA世界タッグ(シスコ版?)、太平洋岸ヘビー、太平洋岸タッグ、ハワイ・タッグ、日本選手権、アジア・ヘビー、アジア・タッグ、インターナショナル・ヘビー、WWA世界ヘビー
本名は百田光浩(金信洛)。日本プロレス界の父。朝鮮(当時)の出身で力士時代に帰化。大相撲の二所ノ関部屋に所属し関脇まで昇進したが、相撲界の体質に反発して廃業。新田建設で資材部長を務めていたがハロルド坂田と知り合いプロレスにであう。昭和26年にエキジビションマッチでデビュー、翌年からアメリカに遠征し約1年間の修行を終えて帰国し日本プロレスを設立する。シャープ兄弟との国際試合で爆発的な人気を集め、数多くあったライバル団体を淘汰し国内の団体を統一していった。レスラーとしてはもちろんプロモーターとしてのセンスも飛びぬけていたことが、彼が日本国民を熱狂させた原因であろう。40歳には引退するといっていたが、昭和38年にナイトクラブ・ラテンクウォーターで暴漢に刺された傷が原因で39歳で逝去。力道山が生きていたら日本のプロレス界は果たしてどうなっていただろうか?

 

リトル浜田 → グラン浜田の項を見よ

 

竜仙 光二  りゅうせんこうじ 
181センチ、105キロ
●1948年11月22日 高知県南国市国分町出身
本名は戸田光二。大相撲宮城野部屋で、幕下二枚目まで昇進したが、父親が病で倒れ家業を継ぐため昭和46年に廃業。しかし、昭和52年8月23日にラッシャー木村を頼って国際プロレスに入門。即戦力として期待されたが、試合に出場する前に退団した。

 

ロッキー羽田 ろっきーはた 日 → 全
和製アメリカンドリーム 194センチ、115キロ
●1948年9月12日 北海道厚岸郡出身 1991年10月27日没 サイドスープレックス
●NWA世界タッグ(カンサス版)
中学卒業後大相撲の花籠部屋に入門。大威厳の四股名で幕下まで進んだが、昭和47年に日本プロレスに入門。大型だけあって期待を集めていた。日本プロレスが崩壊すると全日本プロレスに入団。前座で頭角を現し昭和50年に初の海外遠征。カンサス一帯でミツ・ハタを名乗ってヒール人気を獲得。昭和52年に凱旋しロッキー羽田に改名するが帰国第1戦で完敗してミソをつけた。この後も天龍とのコンビで売り出されたが、伸び悩み中堅に甘んじる。昭和62年に内臓疾患でセミリタイヤ状態となり、闘病もむなしく平成3年に残念ながらなくなった。