日本人全レスラー名鑑  オ

 

 

扇山 大五郎  おうぎやまだいごろう 国 
●178センチ、105キロ
●1938年3月27日 宮城県栗原郡金成町出身
本名は高橋民雄。大相撲から国際プロレスへの転向組。以下、「第2回IWAワールド・チャンピオン・シリーズ」のパンフより。「大相撲時津風部屋で幕内力士として活躍。廃業後、昭和44年1月に国際プロレス入り。肉体的には恵まれたものを持っているが、レスリングはまだまだこれから。地力は十分なので努力次第では大成する器である」と。期待を集め、ヨーロッパ遠征も計画されていたが、デビュー後しばらくして退団している。

 

大磯 武 おおいそたけしじ 東 → 国 
●181センチ、117キロ
●1944年4月8日 富山県新湊市出身

本名 摺崎武ニ。昭和41年に大相撲の立浪部屋から東京プロレスに入門。昭和42年に国際プロレスに合流。ガチンコには強かったとの噂もあり東京プロレス時代の熱戦譜を見てもほとんど無敗の成績を残している。アフリカ、ヨーロッパに遠征した経験を持つが日本では活躍できずに引退。しかしプロレスへの情熱を捨て切れずフィリピンの地にプロレス団体を設立し、その普及に努めた。

 

大位山 勝三 おおいやまかつぞう 
●180センチ、115キロ
●1945年3月5日 兵庫県
宍粟郡出身
大相撲出身(三保が関部屋・前頭14枚目)で四股名が大位山。デビュー当時は本名の松本勝三であったが、海外遠征から帰国後に大位山に改名した。デビューわずか1年でテネシー地区へ遠征。帰りのチケットは受け取らなかった・・・というストーリーが話題となる。昭和54年に一度引退するが、鶴見五郎に口説かれ、昭和55年に現役復帰して独立愚連隊を結成。鶴見とのコンビでは山本小鉄の引退試合の相手もつとめた。しかし昭和56年には体力の限界を理由に再引退。引退後は小料理屋を開いたといわれている。

 

大熊 元司 おおくまもとし 日 → 全 
●極道 ●179センチ、130キロ

●1941年12月18日 埼玉県草加市出身 1992年12月27日没 ●ダイビング・ヘッドバット
●アジア・タッグ
相撲界(伊勢が浜部屋・幕下)からプロレス入り。大熊熊五郎のリングネームで活躍した時期もある。海外遠征期間が長く、ビッグ・クマのリングネームで主に南部地区やカナダで活躍。昭和47年の全日本プロレスの旗揚げに参加来る為に帰国。グレート小鹿との極道コンビは全日本プロレスの中堅の看板であった。タレントとしても活躍し、晩年はピンクのタイツをはくなどしてコメディ路線で活躍。プロレス界指折りの酒豪としても有名。1992年12月27日、急性腎不全の為死亡。(右写真提供:花園えびす様)

 

大里 巌 おおさといわお 
和製カルホーン 168センチ、150キロ
●1947年8月7日 栃木県出身

本名は新里一幸。高校を中退して昭和45年に日本プロレスの門を叩いた巨漢レスラー。モヒカン刈に肥満体のユーモラスな風貌で前座の人気を集めたが、心臓が弱くレスラーを断念。

 

大城 勲 → 大城大五郎を見よ

 

大城 大五郎 おおしろだいごろう 日 → 新
●175センチ、100キロ
●1950年10月15日 沖縄県出身
本名は大城勲。プロレス入り前はキックボクシングで活躍した変わり種。国際プロレスの第1回入団テストも受けている。日本プロでデビューするが、坂口征二とともに新日本プロに移籍。東京スポーツが値上げする前日に「安いうちに買い占めておこう」と売店の東京スポーツを買い占めたという、天然ボケな行動で選手の間でも慕われた好漢。若手の有望株として活躍したが昭和53年の「新春黄金シリーズ」を最後に引退。引退後は単身カナダに渡りレスラーとして活躍したが、その後の消息は不明。

 

大坪 清隆 おおつぼきよたか 旧国 → 日
●170センチ、93キロ
●1927年7月10日 鳥取県出身
木村政彦が率いる旧国際プロレスから日本プロレスに移籍し前座、中堅で活躍したレスラー。柔道五段であると同時に将棋も有段者であった事から大坪飛車角というリングネームに改名した。初来日したカール・ゴッチ(当時はクライザー)にその実力を高く評価された。引退後は日本プロレスのコーチを務め、ゴッチ教室ではカール・ゴッチの補佐役も務めた。ユセフ・トルコとともに猪木の熱心な支持者であったことでも有名。正義感の強い人で、おぼれた少女を救出した際に、心臓麻痺で帰らぬ人となった。

 

大坪 飛車角 → 大坪清隆を見よ

 

大仁田 厚  おおにたあつし 全 → フリー 
●涙のカリスマ ●180センチ、103キロ
●1957年10月25日 長崎県長崎市出身 ●サンダーファイヤー
●AWA南部タッグ、NWAインターナショナル世界ジュニアヘビー
昭和48年に若干16才で全日本プロレス入り。ジャイアント馬場の付き人として鍛えられ昭和55年に渕正信とともにアメリカに遠征。プエルトリコ、テネシー地区で活躍。昭和57年にはシャーロッテでチャボ・ゲレロからNWAインターナショナル・ジュニア選手権を獲得し凱旋帰国。順調に防衛記録を伸ばすが膝の故障で王座返上。一時復帰するが膝が悪化し昭和60年に引退。しかし昭和63年にジャパン女子のマットでグラン浜田との抗争で復帰。その後FMWを設立し涙のカリスマと呼ばれるようになった。国会議員にもなったが、最近は活躍を聞かない。

 

大矢 健一 おおやけんいち 新 
185センチ、102キロ
●1964年7月2日 石川県金沢市出身
学生時代はさまざまなスポーツで体を鍛え、昭和60年に新日本プロレスに入門。1年間の修行期間を経て昭和61年にデビュー。体格にも恵まれ期待されたが、平成元年に内臓疾患で引退。しかしプロレスの夢を捨て切れずSWSでレスラー復帰。現在は戸籍上も大矢剛功(ひさかつ)に改名しインディー団体で活躍中。

 

大山 博 おおやまひろし 
1931年9月10日 東京都出身
立教大学のアメリカンフットボール部からプロレス入りしたが体重が増えず、すぐにプロレス界から姿を消した。アメリカにはアメフト出身のレスラーは数多いが日本では彼が第1号。

 

岡本 剛 おかもとつよし 旧U
192センチ、100キロ
●1963年12月16日 京都府出身
高校時代から空手で体を鍛え昭和60年に旧UWFに入門。UWFが新日本プロレスに吸収されてからは、新日本のマットにも上がったが昭和62年頃に引退。体に恵まれていたため残念な選手であった。一時期、大日本プロレスで復帰したがすぐ廃業している。

 

小川 良成 おがわよしなり 
●183センチ、95キロ
●1966年11月2日 茨城県取手市出身
●アジア・タッグ、世界ジュニアヘビー(全日本プロレス版)
昭和60年9月に全日本プロレスに入門。入門当時はあまりにも線が細く使い物にならないとの酷評をうけたが、2年後には天龍同盟に川田利明、サムソン冬木と共に参加、その後は全日本プロレスのジュニア戦線の中心人物にまで成長した。全日本プロレス分裂後はNOAHに参加、一時期はエースに君臨。現在は取締役も兼ねる。

 

沖永 信次郎 おきながしんじろう 旧全
●170センチ、82キロ
●1930年6月12日 大阪府出身
大相撲出身でセメント・ファイトで人気を集めたらしいが、それ以上の詳細は不明。

 

小沢 正志 → キラー・カーンを見よ