日本人全レスラー名鑑  マ

 

マイティ井上 まいてぃいのうえ 国 → 全
●和製マットの魔術師 ●175センチ、108キロ
●1949年4月12日 兵庫県神戸市出身 ●サマーソルトドロップ
●IWA世界ヘビー、IWA世界タッグ、アジア・タッグ、世界ジュニアヘビー(全日本プロレス版)
大阪学院高校卒業後に通っていたボディビルジムの斡旋で昭和42年に国際プロレスに入門。体は小さいものの持ち前の運動神経のよさで早くから頭角を現す。一時期、井上円蔵とも名乗った。昭和45年に初渡欧。ヨーロッパ各地、カナダを転戦して昭和47年に帰国。昭和49年にはIWA世界選手権を保持していたスーパースター・ビリー・グラハムへの挑戦権を与えられるという大抜擢をうけ、見事にこれを獲得。一躍、国際プロレスのエースとなるが、わずか半年で王座陥落。その後はIWA世界タッグの常連となった。国際プロレス崩壊後は単独で全日本プロレスに参加。発展途上だった全日本プロレスのジュニアヘビー級戦線の充実に貢献した。リズミカルで躍動感のあるファイトが魅力だった。現在はNOAHでレフェリー。サイン

 

前田 日明 まえだあきら 新 → 旧U → U
●格闘王 ●195センチ、115キロ
●1959年1月24日 大阪市大正区出身 ●ニールキック、スロイダー
●ヨーロッパ・ヘビー、WWFインターナショナル・ヘビー(UWF版)、IWGPタッグ
北陽高校卒業後の昭和52年に新間氏にモハメッド・アリと対戦できると口説かれ新日本プロレスに入門。体格もよく空手を習っていたこともあり早くから注目を集める。昭和57年にヨーロッパに遠征。イギリスではクイックキック・リーのリングネームで人気を獲得。昭和58年のIWGPにヨーロッパ代表として凱旋帰国。スープレックスを主体としたファイトを展開したが当時はまだまだ甘さが目立った。昭和59年にはUWFの旗揚げに参加しエースに君臨。ここで格闘技色の強いいわゆる「Uスタイル」を確立。しかし昭和60年に活動停止状態となり新日本プロレスに業務提携の形で復帰。猪木との対戦は実現しなかったものの藤波との名勝負を残した。昭和62年に「顔面襲撃」の汚名を着せられ新日本プロレスから解雇され、新生UWFを設立。これが爆発的なブームを呼ぶ。しかし平成2年に分裂。その後はリングスを設立し世界中にネットワークを張り巡らせた。膝の状態が悪化しアレクサンドル・カレリン戦を最後に現役を引退。現在はHERO’Sのスーパーバイザー。

 

マサ斎藤 まささいとう 日 → 東 → フリー → ジ → 新
●180センチ、120キロ
●1942年8月17日 東京都中野区出身 ●バックドロップ
●世界タッグ(サンフランシスコ版)、フロリダ・ヘビー、アメリカス・タッグ、カリフォルニアTV、カナディアン・タッグ、フロリダ・タッグ、USタッグ(フロリダ版)、NWA北米タッグ(新日本プロレス版)、アラバマ・ヘビー、WWF世界タッグ、IWGPタッグ、AWA世界ヘビー級
本名は斉藤昌典。明治大学時代にはアマレスのフリー、グレコの学生王者となり東京オリンピックにも出場した。昭和40年に日本プロレスに入門するが、古臭い日本プロレレスの体制に疑問を感じていたところを豊登に誘われて東京プロレスに移籍。いきなり初代社長に任命される。東京プロレスでは3番手のランクで活躍するが、東京プロレスはすぐに崩壊。昭和42年に渡米。サンフランシスコを振り出しに全米各地でトップレスラーとなる。昭和47年には日本プロレスに出戻り参加。昭和48年からは新日本プロレスに協力し日本側として参戦したが、昭和53年ごろから外人側に周りファンの反感を買う。国際プロレスに登場した際には「おまえら弱っちい!」という爆弾発言をするなどおきてやぶりな面もある。昭和58年には長州軍団に協力。全日本プロレスにも登場したが、昭和59年にケン・パテラの起こした傷害事件に巻き込まれて約1年間服役。ここで開発したのが監獄固め。その後は猪木との巌流島の戦い、手錠事件で暴動を誘発するなどの活躍(?)。現役引退後はワールドプロレスリングの解説者を務めた。

 

マシオ駒 ましおこま 日 → 全
●172センチ、100キロ
●1940年5月18日 東京都世田谷区出身 1976年3月10日 ●回転エビ固め
●NWA世界ミドル
本名:駒秀雄。早稲田実業高校卒業後の昭和36年に日本プロレスに入門、馬場の初代付き人となる。日本プロレスでは駒角太郎、駒厚秀などと名乗った。昭和45年にメキシコに遠征。ここでエル・ソリタリオからNWA世界ミドル級王者を獲得しメキシコの最優秀外人選手賞を獲得した。このあとアメリカに転戦して大熊元司と合流。テキサス、ジョージア、フロリダなどを転戦。昭和47年の全日本プロレス旗揚げに参加。若手のコーチ役としても活躍したが昭和51年に肝機能障害のために死亡。日本プロレス時代は山本小鉄に負けない練習好きだったといわれ、駒が死亡していなければ全日本プロレスのスタイルも変わっていたかもしれないというキーパーソンだった。

 

マジック・ドラゴン
180センチ、110キロ
●1956年9月26日 宮城県小林市出身 1987年11月28日没 トラースキック
●北米タッグ(プエルトリコ版)
昭和58年に全日本プロレスに登場したマスクマンで正体はハル園田。ダラスでグレート・カブキと合流した際にマッジック・ドラゴンに変身している。ジュニア・ヘビー級戦線で活躍したが昭和60年に小林邦明とのマスカラ・コントラ・カベジェラにやぶれ覆面を脱いだ。

ハル園田の項も見よ。

 

松岡 巌鉄 まつおかがんてつ 日 → 全
●178センチ、103キロ
●1938年11月25日 岡山県和気郡出身 ●ドロップキック、クロー攻撃
●NWA世界タッグ(テネシー版)、アジア・タッグ
本名は松岡政雄。大相撲の間垣部屋から昭和37年に日本プロレスに入門。当初は四股名の正剛山をリングネームとしていたが、松岡巌鉄に改名。昭和44年に初渡米。ミスター・オオタのリングネームで活躍。グレート・イトーこと上田馬之助とのコンビで南部、東部を荒らし、コンビ解散後はカナダで活躍した。昭和47年に馬場離脱でピンチに陥った日本プロレスに凱旋帰国。リンゴつぶしのパフォーマンスで話題を呼び、ダニー・ホッジのNWA世界ジュニア・ヘビー級選手権に挑戦するなどの活躍。昭和48年にはグレート小鹿とのコンビでアジア・タッグを獲得するが、日本プロレスの崩壊で全日本プロレスに参加。しかし馬場と意見が合わずに脱退しプロレス界から姿を消した。グレート東郷襲撃事件の実行犯でもありかなり気性は荒かったようだ。

 

松田 納 まつだおさむ 
●183センチ、90キロ
●1966年4月19日 岩手県花巻市出身
北上高校時代にはアマレスをやりインター杯にも出場した経験がある。卒業後の昭和60年に新日本プロレスに入門。前座戦線で活躍した後、平成3年にメキシコ遠征。ここでマスクをかぶりUWAで活躍。帰国後も新日本プロレスジュニア戦線で活躍した。永らく新日本プロレスのジュニア戦線を支えたが、2008年に脱退して現在はフリーとして活躍。

 

マッハ隼人 まっははやと 国 → フリー→ 旧U
●176センチ、92キロ ●S27年 鹿児島県出身 ●ルチャ殺法 ●ナショナル・タッグ(メキシコ)、パナマ・ミドル級
東洋工業では実業団野球で活躍。柔道2段、空手2段を取得し日本プロレスに入団を試みるが体が小さいことを理由に断られ単身メキシコに。メキシコで養成学校の厳しい特訓に耐えて晴れてデビュー。メキシコにとどまらず南米各地を転戦した後、ロスでトーキョー・ジョーとして活躍。昭和54年10月に鶴見の誘いで国際プロレスに登場。グラン浜田とともにタイガーマスクに先駆けてハイレベルなメキシコ殺法を公開したことはもっと評価されても良いのではないか?国際プロレス崩壊後は全日本プロレスに登場したが、昭和59年にUWF旗揚げに参加。格闘技路線にシフトした後も残留したが昭和60年4月に引退。グレート・サスケのマスクはマッハ隼人がオリジナル。現在はロスで庭師をしているという。(情報提供:あしたの中ジョー氏)

 

松村 幸治 まつむらこうじ(?) 
昭和42年にマイティ井上、ヤスフジイと共に国際プロレスに入門。「パイオニア・サマー・シリーズ」でリングに上がっているがすぐに引退。その後の消息は不明だ。

 

松本 勝三  → 大位山勝三を見よ

 

マティ鈴木 まてしすずき 日 → 国 → フリー
●178センチ、102キロ
●1938年1月25日 神奈川県出身 ●スープレックス
本名は鈴木勝義。ヒロ・マツダの高校時代の後輩に当たる。昭和36年に日本プロレスに入門。若手テクニシャンとして活躍するが、昭和41年にヒロ・マツダの国際プロレス旗揚げに協力する為に脱退。東京プロレスにもゲスト参加している。しかしマツダが国際プロレスを脱退すると、同じく脱退しアメリカに遠征。フロリダ、オクラホマ、オレゴンなどを転戦。昭和48年からは全日本プロレスに協力。日本側の戦力が安定するまでは助っ人として長く参戦した。馬場がNWA世界選手権を獲得した際に真っ先にリングに飛び込んできた姿が印象的。現在もアメリで健在、念に何度か帰国しているようだ。一部ではマイティ鈴木としても紹介されていた。

 

マンモス鈴木 まんもすすずき 日 → 国
●ヒマラヤの雪男 ●193センチ、117キロ
●1941年2月10日 宮城県仙台市出身 1991年5月24日没
本名は鈴木幸雄。昭和33年に日本プロレスに入門。馬場、猪木、大木と共に若手四天王と呼ばれ、早くから注目を集める。昭和36年には馬場、芳の里と共に渡米。ロス、ニューヨークで人気を呼んだが、無断帰国して力道山の逆鱗に触れる。練習嫌いなこともあり力道山には徹底的にしごかれ、竹刀が折れるまで叩きのめされたこともあるが、鈴木はケロッとしていたという。昭和38年に内臓疾患のため引退していたが、東京プロレスの旗揚げに際し豊登に口説かれて現役復帰。東京プロレス崩壊後は国際プロレスに参加するが、ブランクは取り戻せずレフェリーに転向。選手よりもでかいレフェリーとして人気を集めた。1991年5月24日内臓疾患のため死亡。