日本人全レスラー名鑑 キ

 

菊池 毅 きくちつよし 
●177センチ、92キロ
●1964年11月21日 宮城県仙台市出身
●アジア・タッグ、世界ジュニアヘビー(全日本プロレス版)
大東文化大時代はレスリングの全日本王者となり、卒業後昭和62年に全日本プロレスに入門。昭和63年に百田光雄戦でデビュー。小橋、北原とともに若手3羽ガラスと呼ばれるようになる。その後はジュニア・ヘビー戦線で派手さはないがなくてはならぬ存在となった。全日本分裂後はNOAHに参加。現在も現役で活躍している。

 

北沢 幹之 きたざわもとゆき 日→東→日→新→新U
175センチ、94キロ
●1942年2月15日 大分国東郡安岐町出身 :メキシカンストレッチ
本名は北沢幹之。大の猪木シンパとして知られ、東京プロレス、新日本プロレスの旗揚げには真っ先に参加に名乗りをあげた。日本プロレス時代には柴田勝久とともにメキシコに遠征し、日本旋風を巻き起こした。改名魔としても知られ、本名の北沢幹之、高崎山猿吉、高崎山三吉、新海弘勝などのリングネームを名乗った経験を持つ。日本プロレス時代にはゴッチとのスパーリングで腕を決めさせなかったという伝説も持つ。新日本プロレスでは若手レスラーの壁として前座で活躍し、第3回カール・ゴッチ杯争奪戦で優勝もしている。引退後は、UWF、リングスなどでレフェリーとして活躍。

 

岸本 功 きしもといさお 全 
昭和54年5月に全日本プロレスに入門した記録が残っているが、デビュー前に退団している。プロフィールなど詳細は全く不明である。

 

北畠 義高 きたはたよしたか 和
東和プロレスのレスラーで、戦前にアメリカで活躍した日本人選手として複数の書籍にその名を見ることができる。アメリカでの実績を引っさげて東和プロレスを旗揚げしたようだ。おそらく柔道経験者だと思われる。

 

北原 辰己 きたはらたつみ 
182センチ、110キロ
●1964年3月9日 福岡県福岡市出身 キック攻撃
北米タッグ(カルガリー版)
高校時代は空手に熱中。卒業後に佐山サトル主宰の「スーパー・タイガー・ジム」でインストラクターを務めるが、昭和62年6月に全日本プロレスに入門。同期には菊池、小橋がいる。当時の全日本プロレスで唯一レガース着用のシューティングスタイルで異彩を放つが、天龍を慕ってSWSに移籍。その後はWARを経て格闘技道場「キャプチャー・インターナショナル」旗揚げ。現在は北原光騎。

 

木戸 修 きどおさむ 日 → 新 → 旧U → 新
●いぶし銀 ●180センチ、105キロ
●1950年2月2日 神奈川県川崎市出身 脇固め、原爆固め
IWGPタッグ
練習中の怪我で志し半ばにして、リングを去った兄・時夫の夢はおれがかなえる!と、昭和43年に日本プロに入門。ユセフ・トルコの付け人だったことから昭和46年にトルコに従い、新日本プロの旗揚げに参加。若手期待の星と呼ばれ、昭和50年に西ドイツ遠征。ゴッチ道場を経て帰国するが、地味な性格のためスターにはれなかった。しかし、UWFに移籍後、ゴッチが「一番私の領域に近付いた男」と絶賛したいぶし銀のテクニックに注目が集まり、遂にブレイクするも、性格の地味さが災いし、結局中堅に甘んじている。北海道で局地的な人気が出た。2001年に引退したが、ビッグマウスの興行で現役復帰。プロゴルファーの木戸愛は長女。

 

木戸 時夫 きどときお 
1947年5月4日 神奈川県川崎市出身
木戸修の実兄。日本プロに入門するが、小鹿雷三(グレート小鹿)との練習中に受け身を誤り頚椎を損傷。デビューをまたずして、引退。彼の意志は弟の修が引き継いだ。1978年に帰らぬ人となる。

 

木原 真一 きはらしんいち 
●173センチ、95キロ
●1950年7月20日 長崎県佐世保市出身
新日本プロレス旗揚げ当時に入門したレスラーで、前座で活躍したがすぐに廃業した。以下、「ニュー・ゴールデン・シリーズ」のパンフより。

「中学生時代は喧嘩で明け暮れ相手を意識無名まで持ち込んだという。アマチュアレスリングの経験を持ちながらのぞみのプロレスには身長、体重不足であったが、4年間ボディービルへ傾け、プロレスラーへの執着心は激しく、身体ともに成長を見せている。執着心の強い新人だけに将来が見物だ」

 

キム・ドク → タイガー戸口を見よ

 

木村 健吾 きむらけんご 日 → 新
●イナズマ戦士 ●188センチ、106キロ
●1953年9月1日 愛媛県新居浜市出身 ●稲妻レッグラリアート、パイル・ドライバー
●NWA世界ライトヘビー、アメリカス・タッグ、IWGPタッグ、WWFインタータッグ
本名 木村聖裔(せいえい)。中学時代は手のつけられない不良だったが、卒業後大相撲宮城野部屋に入門。昭和47年に日本プロレスに入門。翌年、坂口征二とともに新日本プロレスに移籍。前座戦線をにぎわせ、第3回ヤングライオン杯で準優勝し、昭和53年にようやくアメリカ、メキシコへ遠征。パク・チューの名で大活躍。特にメキシコではNWA世界ライト・ヘビー級選手権を獲得した。帰国後は一時くすぶったが、昭和55年にNWAインタージュニア選手権を獲得。ヘビー級転向後は藤波とのコンビでスターの座を獲得する。その後も藤波への造反など話題を作るが、世代闘争には乗り遅れ生彩を欠いた。引退後は新日本プロレスのスカウト部長を務めた。2006年に退社し円天興行という会社の社長に就任したが、現在はリサイクルショップを経営しているらしい。

 

木村 聖裔 → 木村健吾を見よ

 

木村 たかし → 木村健吾を見よ

 

木村 政雄 → ラッシャー木村を見よ

 

木村 政彦 きむらまさひこ 旧国 →アジア
●172センチ、92キロ
●1917年年9月10日 熊本県出身 1993年4月18日没 ●猫手チョップ
●メキシコ・ジュニアヘビー
柔道界では無敗を誇った神様的存在。プロ柔道の旗揚げに失敗しアメリカでプロレスに転向後、昭和29年5月に熊本で国際プロレス団を旗揚げ。力道山との越境コンビでシャープ兄弟との名勝負を繰り広げるが、同年12月に力道山に挑戦。しかし結果は惨敗。この試合は事前に木村からの八百長申し込みがあったことが発覚し、プロレス人気は一時凋落した。昭和31年には新兵器の猫手チョップを駆使し、ラウル・ロメロからメキシコJヘビー級選手権を獲得するが、興業的には失敗し、旧国際プロは解散。再起を図りアジア・プロを設立するが、旗揚げ前にメキシコに旅立ち、そのままプロレスを廃業。帰国後は拓殖大学柔道部を指導した。1993年4月18日に逝去。

 

九州山 → 日本人レフェリー・リングアナ名鑑を見よ

 

清美川 梅之助  きよみがわうめのすけ 旧全 → ア → フリー
●185センチ、100キロ
●1920年10月25日 秋田県出身 1980年10月13日没
本名は大橋梅之助。大相撲伊勢ヶ浜部屋に入門し、昭和9年初土俵。美男子力士として人気を集め、双葉山を倒す殊勲も上げている。廃業後レスラーに転向し、大阪で山口利夫とともに旧全日本プロレスを旗揚げ。消滅後は木村政彦とアジア・プロを設立するが、旗揚げ前に木村とともにメキシコに遠征。その後、南米、アフリカ、ヨーロッパをさまよい歩き、幻のレスラーと呼ばれた。トーゴー・タキ、マスクをつけてファントマなどを名乗った。昭和45年に14年ぶりに帰国し国際プロレスに参加。昭和49年には猪木−小林初対決のレフェリーを務めた。その後は女子プロレス団体を設立したが失敗に終わっている。1980年10月13日に逝去。 サイン

 

キラー・カーン きらーかーん 日 → 新 → ジ → フリー
●蒙古怪人 ●192センチ、140キロ
●1947年3月6日 新潟県西蒲原郡出身 ●ニードロップ、モンゴリアンチョップ
●USタッグ(フロリダ版)、AWA南部タッグ、ルイジアナ・ヘビー、ミシシッピ・ヘビー、北米ヘビー(カルガリー版)
中学卒業後に大相撲の春日野部屋に入門。越錦の四股名で幕内まで昇進するが、昭和46年に廃業し日本プロレスに入門。坂口の付き人だったこともあり、昭和48年には坂口とともに新日本プロに移籍。195センチの長身を活かして若手の中でも早くから頭角を表わし、昭和51年に欧州遠征。昭和52年にメキシコに転戦し、ここでモンゴル人ギミックのテムヒン・モンゴルで人気爆発。フロリダではタイガー服部をマネージャーにキラー・カーンと改名し、パク・ソンとのコンビで活躍。1982年頃にWWFに転戦し、アンドレ・ザ・ジャイアントの足を折り世界的に勇名を轟かせた。凱旋帰国時は本格的な日本人大型ラフファイターの登場ということで人気爆発。「第5回MSGシリーズ」では準優勝。その後、長州力とともに造反し、ジャパンプロの一員として全日本プロレスに登場した。ジャパン解散後はふたたびWWFに登場するが、突然引退し、キラー・カンに改名。現在はスナックと居酒屋を経営している。

 

金城 正勝 きんじょうまさかつ 
●173センチ、95キロ
●1951年 沖縄県出身
国際プロレス崩壊寸前の昭和56年5月16日の後楽園ホール大会で紹介された入門生。ボディビルコンテストでミスター神奈川となり、アームレスリング全日本第2位、キックボクシング全日本ヘビー級第2位という輝かしい経歴をもつ。元レスラーの金子武雄の推薦で入門したが、国際プロレスの経営状態に不安を抱き、すぐに退団したようだ。現在は横浜でレンタルビデオ店の店長を務めているという。