日本人全レスラー名鑑 カ

 

魁 勝司 北沢幹之を見よ

 

嘉地 久晴 かじひさはる 旧全
●185センチ、98キロ
●1935年2月18日 大分県出身
空手、柔道をへて山口利夫の旧全日本プロレスに入門。185センチ98キロという恵まれた体格を活かした豪快なファイトで人気があったという。旧全日本プロレス崩壊後は大相撲の二所ノ関部屋に入門。天山の四股名で前頭上位に昇進。この時の付き人が後の大横綱大鵬であった。しかし突然マゲを切りプロレス団体を結成し韓国で興行を行った。この時参加したレスラーにミスター高橋がいる。

 

片山 明 かたやまあきら 
●174センチ、95キロ
●1964年7月12日 岡山県出身
高校時代から柔道、ボディビルで体を鍛え昭和60年に新日本プロレスに入門。小柄ながら全力ファイトを見せ、一部では「小鉄2世」というニックネームを付けられていた。しかし怪我が原因で引退、SWSで復帰したが、試合中にプランチャを失敗し頚椎を損傷。現在も車椅子生活を送っているという。

 

加藤 弘恭 かとうひろあき アジア
●172センチ、97キロ
●1929年5月12日 兵庫県出身
実業団相撲からの転向で、柔道4段の腕前でもあったが、172センチ、97キロと体が小さく目立った活躍は出来なかったようだ。

 

桂浜 日→新
176センチ、100キロ
1928年1月2日 高知県出身

大相撲の二所ノ関部屋時代から力道山の付き人(当時の四股名は桂浜)となり、昭和29年に力道山の後を追ってプロレスに転向。ジャイアント馬場のデビュー戦の相手としても有名だが、レスラー時代はこれと言った活躍はなかった。力道山の死後にレフェリーに転向。昭和48年に坂口征二とともに新日本プロレスに移籍し、メインレフェリーとなる。ファンをいらいらさせるレフェリングは天下一品。業を煮やした猪木に制裁を加えられることもあった。この人の作るちゃんこは最高にうまかったそうだ。

レフェリー名鑑の田中米太郎の項も見よ。

 

金子 武雄 かねこたけお 
●172センチ、100キロ
●1930
年1月15日 神奈川県出身
重量挙げ全日本ライト級チャンピオンで、見事な筋肉美を誇り、パワーファイトを身上としていた。日本人初のマッチョ・レスラーといったところか。しかし体が小さく、メーン・エベンターにはなれず、中堅レスラーに甘んじた。昭和34年のウエイト別日本選手権でジョー樋口にセメントマッチを仕掛けられ腕を骨折し引退。その後は空手道場、ボディビルジムを経営。藤原喜明、米村天心、冬木正弘道など金子ジム出身のプロレスラーは多い。

 

金田 照男 かねだてるお 東 
●178センチ、104キロ 東京都出身
東京プロレスの旗揚げシリーズの熱戦譜にその名を見ることが出来る。東京プロレスに入門、デビューした新人レスラーだったと思われるが、どうやら東京プロレスの崩壊と共に廃業したようだ。(画像提供:中川譲様)

 

川田 利明 かわたとしあき 
●183センチ、110キロ
1963年12月8日 栃木県下都賀郡出身 ●ジャンピング・ハイキック
アジア・タッグ、世界タッグ(全日本プロレス版)、3冠ヘビー(全日本プロレス版)
足利工大付属高校時代はアマレスで国体優勝の実績を持つ。昭和57年に全日本プロレスに入門。冬木弘道戦でデビュー。昭和62年には冬木とフットルースなるコンビを結成して天龍同盟に参加し、アジア・タッグを獲得するなどの活躍を見せた。後に阿修羅原の解雇により天龍のパートナーに抜擢され、メインエベンターへの仲間入りを果たした。天龍脱退後は三沢とともに全日本プロレスの黄金時代を支えた。全日本プロレス分裂後も全日本プロレスに残り(NOAHに誘われなかったといわれる)エースとして活躍したが、現在はフリー。ハッスルなどに登場している。

 

神田 秀宣 かんだひでのぶ 旧U
●183センチ、93キロ
●1963年8月10日 長野県出身
国際プロレスの入門テストを受けたが不合格となるも、新日本プロレスのテストに合格してプロレス入り。昭和60年4月にUWFでデビューしたがすぐに引退している。