日本人全レスラー名鑑 ア
秋吉
豊幸 あきよしとよゆき 国 ●185センチ、80キロ ●1961年 福岡県出身 |
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大分・日田商業高校時代は柔道で活躍。アマチュア無線の資格ももつ。国際プロレス崩壊寸前の昭和55年に行なわれた新人公募に応募し晴れて合格し昭和56年3月に正式入門。昭和56年の国際プロレス最後の「ビッグ・サマー・シリーズ」でデビューを果たすが、国際プロレスの崩壊により廃業した悲運のレスラー。 |
浅井 嘉浩 あさいよしひろ フリー ●172センチ、85キロ ●1965年12月12日 愛知県名古屋市港区出身 ●メキシコ州トリオ |
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新日本プロレスの入団テストを受けるがからだが小さいのを理由に不合格。昭和62年に単身メキシコへ飛び、現地のレスラー学校を卒業し、デビューした執念の男。メキシコでは新日本の畑、佐野とのコンビで活躍した。平成に入り、新間寿のユニバーサル・プロ旗揚げと共に帰国。ウルティモ・ドラゴンに変身して人気を呼ぶ。ユニパーサル崩壊後はWARをへて登竜門を結成している。WCW、WWEにも参戦した。 |
阿修羅 原 あしゅらはら 国→全 ●ダンプガイ ●183センチ、120キロ ●1947年1月8日 長崎県北高来郡森山町(現諫早市)出身 ●バックフリップ、雪崩式ブレンバスター ●英連邦ジュニアヘビー、WWU世界ジュニアヘビー、IWA世界タッグ、アジア・タッグ |
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本名 原進。ラグビー時代は世界選抜チームに選ばれるほどの名選手。昭和51年に国際プロレスにスカウトされてプロレス入り。大型新人登場として国際プロにとっては久々のヒットとなる。野坂昭如の命名により阿修羅原に改名。昭和53年に寺西勇戦でデビューしてすぐカナダに渡り英連邦ジュニア・ヘビー級選手権を獲得。昭和54年に帰国してミレ・ツルノからWWU世界ジュニアヘビー級選手権を獲得。昭和55年に再渡米しヘビー級に通用するレスラーになり帰国するが、間もなく国際プロが崩壊。当初は新日本プロレスへの参加が決定していたものの、マイティ井上とともに全日本プロレスに参加。井上とのコンビでアジアタッグを獲得。その後は天龍との天龍同盟を結成して全日本プロレスに改革を興した。しかし私生活の乱れが原因で解雇。天龍のWARで復帰するが、1994年に引退。その後は母校の諫早農業高校でラグビーのコーチをつとめたが、現在は父親の介護に専念しているという。 サイン |
東 日出雄 あづまひでお 亜 ●172センチ、84キロ ●1936年5月2日 |
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ボクシング出身のレスラー。体には恵まれなかったが気性の激しさで人気を呼んだという。 |
東富士
欽壹 あづまふじきんいち 日 ●182センチ、150キロ ●1921年10月28日 東京都下谷区(現・台東区)出身 1973年7月31日没 ●ハワイ・タッグ |
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本名 井上謹一。第40代横綱で「江戸っ子きんちゃん」で仇名で人気を博した現役横綱。引退して錦戸を襲名したが、一門内の派閥争いに嫌気がさし廃業。タニマチであった日本プロレス協会の永田氏の口利きでプロレスに転向。早速、力道山とハワイへ飛び、ハワイタッグ選手権を獲得するが、力道山との確執が深刻なものとなり一時はクーデターも企てたが、自ら辞表を提出し引退。 フジテレビの相撲解説者となり、サラリーマン金融「ファイナンス富士」の社長も務めた。1973年7月31日、結腸癌のため逝去。 |
安達勝治 → ミスター・ヒトをみよ
アニマル浜口
あにまるはまぐち 国→新→ジ ●和製ブルーザー ●173センチ、100キロ ●1947年8月31日 島根県浜田市出身 ●エアプレーンスピン ●インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、IWA世界タッグ、アジア・タッグ |
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本名は浜口平吾。ボディビル出身で昭和44年に国際プロに加入。昭和46年のゴッチ教室では最もゴッチに気に入られるほど練習熱心であった。昭和47年にWWA地区(インディアナ版)に遠征しラフファイトに磨きをかけて帰国するが、なかなか芽が出なかった。昭和52年にグレート草津とのコンビでIWA世界タッグ選手権を獲得してからは同タイトルの常連となる。国際プロレス崩壊後は国際はぐれ軍団として新日本プロレスに登場しファンの憎悪を集める。そんななかで長州力と意気投合し維新軍団に参加。昭和59年にジャパンプロレスを結成して全日本プロレスのリングに上がった。しかしジャパンプロ崩壊後は体力の限界を理由に引退。引退後はジムを開き多くの若手レスラーを育てている。愛娘の京子もアマレスで大活躍。娘の記者会見にも乱入して目立ちまくっている。サイン |
阿部 脩
あべおさむ 日→東→国 ●175センチ、103キロ ●1925年5月6日 北海道出身 |
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日本プロ創製期に活躍したレスラーで、大映専属の俳優としても活躍、力道山出演の映画「怒れ力道山」にも出演している。一時はリングを離れていたが、豊登の東京プロ旗揚げに参加、国際プロレスに合併後はレフェリーとして活躍。ホイッスルがトレードマークであった。レスラーに襲われてよく流血していた。すでに故人。サイン |
アポロ菅原 あぽろすがわら 国→全→フリー ●181センチ、100キロ ●1954年2月10日 秋田県男鹿市出身 |
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本名は菅原伸義。昭和54年に国際プロレスに入団。前座で人気を得る。国際プロレス崩壊後はマイティ井上を慕って全日本プロレスに参加。しかし昭和63年にはリストラ要員となり解雇されている。解雇後は同じくリストラされた剛竜馬、高杉正彦とともにパイオニア戦士を結成したが、興行は行なっていない。平成に入ってからSWSに入団。鈴木みのると、スタイルが噛み合わない伝説に残るしょっぱい試合をやらかした。NOW、新東京プロレスなどを経て現在はフリー。メカマミーの正体との説もあり。 |
荒川 真
あらかわまこと 新 ●前座の力道山 ●175センチ、100キロ ●1946年3月6日 鹿児島県出水市出身 ●原爆固め、市役所固め ●カリビアン・タッグ |
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本名は荒川誠。中学時代から柔道に励み、学生時代はアマレスに熱中するが試合中にドロップキックを繰り出し失格となった珍妙な経歴の持ち主。昭和47年に設立間もない新日本プロレスに入門。コミカルな試合で人気を獲得、前座の力道山のニックネームで親しまれた。昭和54年にはプエルトリコに遠征しケンゴー・アラカワを名乗り、ケンドー・キムラとのコンビでカリビアン・タッグ選手権も獲得している。昭和60年頃からリングネームをドン荒川に改名して、ジュニア戦線にも顔を出した。市役所固めなどの奇妙な技を開発した。今なお現役を自称。 |
安生 洋二
あんじょうようじ 旧U→U ●180センチ、100キロ ●1967年3月28日 東京都杉並区出身 |
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藤原喜明のところへ押し掛けて強引に旧UWFに入門。新日本プロレスとの業務提携後は前座戦線を沸かした。昭和63年には新生UWF設立に参加。平成に入ってからはフロント業もかねて、グレイシー道場に殴りこむなど、さまざまな話題を振り撒き、新日本プロレスとの対抗戦で大ブレイク、チーム2000を結成して時の人となった。数多くの団体を渡り歩き、現在はハッスルで活躍。 |
アントニオ猪木
あんとにおいのき 日→東→日→新 ●燃える闘魂、若獅子 ●191センチ、105キロ ●1943年2月20日 神奈川県鶴見区出身 ●卍固め、原爆固め ●NWA世界タッグ(テネシー版、テキサス版)、テキサス・ヘビー、USヘビー(東京プロレス版)、アジア・タッグ、インターナショナル・タッグ、UNヘビー、世界ヘビー(旧オハイオ版)、NWA北米タッグ(新日本プロレス版)、NWF世界ヘビー、WWFヘビー、WWFマーシャルアーツ・ヘビー、UWA世界ヘビー、IWGPヘビー |
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本名 猪木完至。力道山死後、ジャイアント馬場とともに日本のプロレスを発展させた偉人。彼のレスラー人生はスキャンダル塗れだったと言える。移民先のブラジルで力道山にスカウトされ昭和35年に来日。過酷な下積みを経て昭和39年に初渡米。昭和41年のワールドリーグ戦に帰国予定だったが帰路のハワイで豊登りに口説かれ東京プロを旗揚げするが、半年で崩壊。日本プロ復帰後は馬場とのコンビでプロレス人気をささえた。しかし昭和46年暮れにクーデター容疑で除名。翌年、新日本プロを旗揚げしストロングスタイルを追求するかたわらで、アリ戦を始めとする格闘技路線も確立する。しかし一方では会社の金をを個人的事業に当てた事に反発したレスラーや社員に社長職を追われた事もあった。約30年に渡り日本プロレス界のトップの座を守りつづけた偉業は、今後も長く語り継がれるであろう。サイン |