日本プロレス崩壊への軌跡 8 「日プロ残党のその後」 (特別寄稿:JOE HOOKER SR氏)

 

73年夏、旧日本プロレス勢は全日に合流します。彼らがマッチメーク上で冷遇されたのは有名なことですが、全日離脱の原因はそれだけでなく、彼ら同士の反目にもあります。セメントに強いと評判の彼らでしたが、人間関係の構築は上手ではなかったようで、合流後半年も経たないうちに3人が3人とも反目という結果となっています。セメントの強さなんて分かってくれる人が少しでもいるだけで満足すべきことで、それが普遍的なものと勘違いすることに悲劇がありました。プロレス界を「世間」に置き換えてみれば理解に難くないことですが、プロレスを世間から遊離したスポーツマンの世界(であってほしくはありますが)と思ってしまった一本気な男たちの物語です。
 

この話の出所は門茂男氏の「ザ・プロレス365、1〜8」であります。

 合流後のシリーズのポスターができあがってきて、旧日本プロレス勢は自分たちの扱いの小ささに驚きました。顔写真が載っているのは大木と高千穂(後のザ・グレート・カブキ)のみ。馬場氏はそれ以外の選手達の商品価値を認めていなかったのです。上田、松岡が「何でおれたちがポスターに載らず、高千穂なんて小僧が・・・」とぶうたれていた隣で大木がつぶやきました。
 「それにしても俺の顔が小さいな。」
 この一言で上田、松岡は大木を信頼しなくなります。こういった大木の器の小ささは韓国プロレス界が日本のように発展しなかったことと無関係ではありません。

 馬場氏による上田、松岡への冷遇の例を見てみましょう。

1973年7月9日 全日本プロレス 鶴岡市体育館 観衆4500

15分1本 百田(13分18秒体固め)肥後
20分1本 M.ヒライ(13分47秒体固め)佐藤昭雄
20分1本 松岡(15分29秒体固め)羽田
ハ゛トルロイヤル(6人参加)決勝 佐藤(7分46秒回転海老固め)百田
30分1本 駒(13分11秒海老固め)J.バーンズ
30分1本 B.ラモス(13分23秒体固め)高千穂
30分1本 M.鈴木(15分49秒アバラ折り)B.スレード 
30分1本 T.杉山(12分57秒体固め)O.アトラス 
30分1本 ザ・デストロイヤー(18分11秒足4の字固め)H.シュローダー
60分3本 G.馬場、大木(2−0)K.コックス、B.ミラー 
1本目 日本側(11分09秒体固め)外人側
2本目 大木(4分45秒体固め)ミラー

観衆は主催者発表 記録は東京スポーツより

この日、旧日本プロレスのレスラーで試合に干されているのは上田、小鹿、桜田、伊藤正雄。大木にはそれなりの気の遣いかたをしており、それがかえって全日マットをつまらなくしている、といった感想を当時持ちました。

全日のファイトマネーシステムは、契約し、かつ試合に出たものに1試合いくら、というものです。日本プロレスや新日本プロレスは契約選手であれば試合にでなくても「1試合の額×年間試合数」でファイトマネーが出るのとは違います。機をみて敏なる小鹿は馬場氏の運転手を買って出ることで何とかしのぎましたが、上田、松岡にはそういったことができません。その頃、アメリカでフリーで闘っていたシャチ・横内が帰国しました。(シャチ・横内についてはみなみさんのホームページをご参照下さい。その中の「国際プロレスグラフティ、1969年」でもとりあげています。)当時横内はアメリカで修業中の関川(現グレート・ポーゴ)のマネージャーも兼ねてましたが、余りの搾取ぶりのひどさが伝わってきたのです。横内の親友だった上田は彼の潔白を証明しようと、日本に呼びました。松岡は横内のことを全く信用しておらず、上田、松岡の間での横内に対する評価の違いが彼らの反目のきっかけにもなりました。上田が横内を呼んだ背景には2人で新団体を結成しようという目論見もあったといわれています。事実73年の旧盆の時期、68年初頭国際プロレスが一時「TBSプロレス」を名乗ったときの社長岩田氏(広島在住)のところを上田・横内の2人は訪ねています。この情報を知った国際プロレス吉原氏は上田全日離脱近しを確信し、内心ほくそえんだ、といいます。上田を国際プロレスのリングに上げられる見込みが立つからです。吉原は力道山のしごきを経験している選手が欲しかったようです。

上田・松岡の2人はそれでも団結しながら何とかやってました。そして2人が全日を離れる日が来ました。それは10月9日、蔵前国技館でのインタータッグ戦で馬場のパートナーが新人の鶴田になったことで始まりました。上田らの主張は「旧日本プロレスにあったタイトルなんだから、そして、旧日本プロレスは全日とは対等合併したはずなんだから、馬場のパートナーは旧日本プロレスから出すべきだ。」というものです。上田・松岡の2人は国技館内の暗がりに馬場氏を呼び出し、ぶん殴ったと伝えられています。上田・松岡はその日をもって全日のリングから消えました。2人はアメリカに活路を見いだそうとしましたが、渡米準備中に、横内評価問題で上田・松岡は決別しました。

上田は横内の滞在費用やアメリカでの休業保証までしたため散財し、せっかくのマイホームも手放しました。上田がアメリカに行って世話をしたのは関川で、このころには関川、上田ともに横内とは切れました。上田は最就職に苦労しましたが、71年の猪木日本プロレス最後のシリーズで知り合ったリップ・タイラーのとりなしで何とかなりました。 松岡は横内が全米のプロモーターに「危険人物」というお触れをだしたため、アメリカには渡ったものの試合ができませんでした。上田・松岡の2人はかつてファイトマネーの未払いに腹を立て、テネシーのトージョー・ヤマモト氏の腕を折ったなんていう武勇伝もこのときの松岡にはマイナスにしか作用しなかったのです。松岡はレスラーを廃業、日本に帰国後栃木県でちゃんこ屋を始めたという話をききましたが、今どうしているのかはわかりません。松岡は上田、ミスター林(元全日、後にジャパン女子でレフェリー)とともに間垣部屋の力士だったのです。

暮れのシリーズ、ヘーシンクデビューの開幕戦、大木はセミ前でキラー・コワルスキーと対戦、反則勝ちを収めています。コワルスキーは、レフェリーの制止を振り切ってロープ最上段からのニードロップを繰り返しての反則敗け。大木、全くいいところがありませんでした。この日をもって大木も離脱。韓国へ帰ります。もしかしたら大木の金ちゃん、あのコワルスキーの攻撃の中に、馬場氏の「大木潰し」の意図を見たのかもしれません。74年新春のシリーズ、大木の姿はありませんでした。しかし観客から大木欠場のクレームは1件もなく、大木のレスラー人生は終わったかに見えました。
2月、ストロング・小林が国際プロレスを離脱、馬場、猪木への挑戦をぶちあげます。猪木・小林戦が決まると大木は来日。「勝者への挑戦」を宣言し、「新日における大木」の歴史が始まります。

長文乱文失礼致しました。

前回筆者がレポートした後の部分を詳しく補足して頂きました。当研究所でも当時の熱戦譜を拾ってみましたが、大木はまだしも、上田、松岡のふたりは2、3試合目に登場されられるか、干されるというった感じです。対戦相手はもっぱら若手。外人との対戦はほとんどありません。逆に小鹿、高千穂は中堅の扱いを受けているのですが、小鹿がまさか運転手を買って出ていたとは驚きましたねぇ。世渡り上手でないとプロレス界も生きては行けないのでしょう。

貴重な文章のHPへの転載を快諾してくださったJoe Hooker Srさんに感謝します。