日本プロレス崩壊の軌跡7 「遂に日プロの火は消えた!」

 

、坂口派のレスラーが予定通りに新日本プロレスに移籍、日本プロレスは合併に反対した9人のレスラーで再出発するはずだった。少なくとも大木金太郎はそう考えていた。しかし「日本プロレスの灯を守る」という大木の執念もかなわず、崩壊は予想以上に現実のものとなった。NETは再三大木も含む日プロ幹部に「坂口の合併プランに賛同しなければ、放映は打ち切る。」と警告していたにもかかわらず、幹部連中は「うちと新日本と1週交代で放映してくれるだろう」という、恐ろしく甘い見通を持っていた。それゆえ頼みの綱だった坂口をも邪魔物扱いにして追放したのである。日プロは坂口の穴は高千穂で十分埋められると読んでいたきらいがあるが、NETの判断はシビアであった。日プロの「ダイナミック・シリーズ」が終了した翌日の3月9日、新宿の京王プラザホテルで猪木、坂口を出席させて新日本放映決定の記者会見とパーティーを開いたのである。これで日プロ幹部連中は25戦を予定していた次期「アイアンクロー・シリーズ」をキャンセルし、事実上のギブアップ。しかし大木はメンツにかけて選手会主催という形で6戦のシリーズ開催を強行した。だが、テレビ放映料がない上に客入りも悲惨な状況で、遂に大木達も現実の厳しさにようやく気付き、日本プロレスの解散を決意したのである。猪木、坂口の合併記者会見から2ヶ月後の事であった。48年4月14日、日本プロは力道山の眠る本門寺で解散記者会見を開き、19年に渡る歴史に幕を下ろした。

 

 

 
解散記者会見を行なう日本プロの残党。
ミスター松岡はこの会見を部屋の隅で冷ややかに見つめていた。

 

しかし、ここから先の話がややこしい。大木が錦の御旗のように口にしていた「力道山の日プロ」と、大木が最後まで守ろうとした「日プロ」は全く別物なのである。話は昭和38年まで溯る。力道山が逝去し、渋谷に本社があった日本プロレスリング興業KKの社長には敬子夫人が就任したのであるが、1年後夫人は豊登、芳の里、遠藤、吉村のいわゆる「ダラ幹」達によって追放されてしまう。この時夫人は「力道山の日プロ」を守るために、赤坂のリキアパートに本社を移し、会社の存続を図った。すなわちこの時点で、渋谷の「日プロ」は名義変更をしなければならなかったのであるが、幹部連中は力道山の直系を装う為に名義変更をしなかったのである。さらにややこしいことに渋谷の日プロが崩壊した後、芳の里と大木は、赤坂の日プロに役員として入社する。大木が解散記者会見でいった「日本プロレスは百田家に帰ります」というのはこのことであった。

さらに読者の頭を混乱させる事実がある。ご存知のように日プロの残党は馬場が率いる全日本プロに吸収された訳だが、馬場はこの時退社したはずの渋谷の日プロの役員であったというのだ。だから馬場はしぶしぶでも日プロの残党の面倒を見ざるを得なかったのである。馬場はこの合併には乗り気ではなかったようで、マッチメイクの面においても、日プロからの参加者には微妙な差を付けていた。これが原因で大木、上田、松岡あたりは脱退するのであるが、このあたりの相関関係はJOE HOOKER SR氏の特別寄稿を参照されたい。

日プロ崩壊への軌跡 8 へつづく・・・。