シリーズ 日プロ崩壊への軌跡 4 「猪木と坂口が握手!新・日本プロレス誕生」
昭和48年2月8日午後2時、新宿の京王プラザホテル、コメットの間で日プロのエース坂口と新日本のエース猪木が合同記者会見を開いた。その内容は日プロと新日プロが同年4月1日を持って合併し、「日本プロレス興行株式会社」(以下「新・日プロ」と称す。)として再スタートするという衝撃的なものだった。 今から考えればこの二人が握手するのは、NWAタッグリーグにコンビで優勝し黄金コンビと呼ばれた・・・ということなどを考えると当然の成り行きだった様に思えるが、前述のように日プロを追放された猪木が坂口に喧嘩を売り、両者の関係は一時険悪なものとなっていた。「・・・一部のスポーツ紙で猪木は『馬場なんか3分で片づけてやる。坂口は片手で3分・・・』という暴言を吐いて話のタネになった。馬場はこれを見て柳に風と受け流したが、若い坂口は『やれるものならやってみろ。俺は3分なんて言わない10分で猪木をKOしてみせる』と騒ぎはますます大きくなった。」と、まぁこんな具合のやり取りがありさらに、新日本設立の時には当時の新日本幹部ユセフ・トルコが1000万円の契約金で新日本への移籍を打診したが坂口に断られ、脅迫めいた言葉を口にするなどして坂口の新日本への態度を硬化させる事件もあったため、この合併はファンにとっては大きな衝撃であった。第一、一度「会社乗っ取り」の汚名を着せて追放した猪木と日本プロが手を握るというのは全く考えられない展開だったのである。 |
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がっちり手を握ったヤング・リーダーだったが・・・。 |
しかしこの合併の裏には両社の逼迫した財政難があった。この時日本には四団体がひしめき合う戦国時代。一番新しい団体だった全日本プロもNTVのバックアップはあったが観客動員は思わしくなく、TBSがバックに付いてはいるが同じような状況の国際プロと提携しており、合併説も出るほど危ない状況。一方の新日本は観客動員こそ一番ましだったがテレビ局が付いておらず設立一年目にして財政は困窮の度を深め、日プロは坂口、大木の2枚看板で勝負していたが馬場、猪木の穴を埋める事は難しく、NETからの放映料で何とか選手のギャラを捻出しているという状況にあった。この合併は表向きにはこの様な日本のプロレス界の状況を憂慮した坂口が立ち上がり猪木と日本プロレスを再建するために手を組んだ・・・という美談で語られたが、実際にはこの合併には馬場が独立した時と同じく、テレビ局の意向が強く働いていたのである。 坂口はこの合併のいきさつをこのように語っている「昨年(72年)9月に斎藤の仲介で猪木さんと六本木の料亭 らん月で初めて会った。最初は二人とも硬かったが話し合ってみると、猪木さんと私の考えは全く一致した。それはプロレスとは力と技と肉体の勝負、絶対にストロングプロレスでなければならぬという点だ。・・・二人で本物のプロレスをやっていこうという事になった。(ゴング48年4月号)」この時マサ斎藤に二人を仲介するように持ち掛けたのがNETであるといわれている。念願の馬場がNETのブラウン管に乗ったのも束の間、馬場はNTVの説得で独立してしまい、番組のエースを失ってしまった。坂口、大木、高千穂といったメンバーでは好視聴率は維持できないのは誰の目にも明らかであった。そこでNETが考え付いたのが猪木を日本プロレスに呼び戻すという仰天プランだったという訳だ。この様な裏事情を隠すためか猪木はゴング誌のインタビューに「テレビに付いては白紙。我々としては規制の団体のようにテレビに振り回されたくはない」と答えている。また当時のNETの辻井編成局長は「まぁ、猪木、坂口が白紙というんならば白紙といっていいでしょう。2月現在私どもは日本プロレスを中継している。3月いっぱいで契約が切れるが、もちろん4月からはプロレス放送を続けたい。しかし新団体の放送に踏み切るかどうかは今後の交渉に待つという事でしょう。」両者共になかなかのタヌキである。 とにかくこの会合の結果、猪木が新日本の看板を下ろし新・日プロに参加し社長となり、坂口は副社長に就任するという案を坂口が日プロ選手会の議題にかけ、全員一致で合併を決議。長谷川代表もこれに合意。新日本も倒産寸前の状況にあったため異議があるはずもなく合併に合意。猪木と坂口は希望を胸に抱いての記者会見に望んだが、一人この画期的なプランに待ったをかけた男がいた。韓国に帰国していて選手会に出席していなかったインターナショナル王者 大木金太郎である。 日プロ崩壊への軌跡5につづく・・・ |