シリーズ 日プロ崩壊への軌跡 3 「ジャイアント台風!後編 : 全日本プロレス誕生 四団体時代突入!」

 

独立を決意した馬場はサマー・ビッグ・シリーズ中の47年7月29日に赤坂プリンスホテルで独立記者会見を開く。

Q:日本テレビに出るために独立するのか?

A:それだけではありません。(幹部との)意見が食い違ったので出て行くしかない。

Q:辞めてどうする?

A:新団体を結成し、日本テレビのブラウン管にのりたい。

Q:日本テレビとすでに放映の約束が?

A:ありません。

Q:フリーになって他団体に登場する事は?

A:自分の団体を作るためにフリーになったのです!既製の団体の方針には納得できないものがある。

 

 
記者会見における馬場の晴れ晴れとした表情。慎重派の馬場らしく
この時点で新団体設立への根回しは十分であった。

 

あくまでも日本テレビとの交渉は白紙である事を強調しているが、すでに話し合いがついている事は周知の事実である。この独立会見を受けて日本プロレス協会も記者会見を開く。社長の芳の里は「意見の食い違いはあったが、突然こんなことをやってのけるとは・・・。話し合いで調整できる事と思っていた。当然慰留する。」と穏やかな反応を示したが、選手会長の大木は馬場に牙をむいている「辞める辞めないは個人の自由。日本テレビへの心情は分かるが、馬場さんも重役・・・NETへの責任はないのか!」と歯に衣きせぬ意見を述べている。

大看板の馬場が独立を宣言したとあって、さすがに日本プロの「ダラ幹」達も危機的状況に焦りの色を見せる。幹部連中は当然馬場の留意に勤めた。しかし馬場の独立の意志が固いとみるや、態度を急変、大木金太郎を煽って馬場のインター選手権に挑戦させる。これはセメントに強いといわれた大木を馬場にぶつけて馬場を潰し、その商品価値を貶めるのか目的であったことは間違いない。一時は「インター選手権は自分の血と汗で守ってきたもの、NWAの許可を得て持って出たい!」と言っていた馬場だが、その後の猪木からの挑戦への対応を見ても分かるように、この時もあっさりとタイトルを返上し(馬場にとっては)無益な戦いを避けたのである。

インターのシングル、タッグの両選手権を後ろ髪ひかれながらも手放した馬場は新団体の結成に動くが、ここでも猪木との性格の違いが如実に表れている。早急に新団体結成に動いた猪木に対し、馬場は自らアメリカに渡米。フリッツ・フォン・エリック、ブルーノ・サンマルチノ、ドリー・ファンク・シニアといった有力者に新団体結成を報告するとともに彼らの強力を乞い、強力な外人招聘ルートを確保した。これは馬場のアメリカにおける信用と知名度を最大限に利用した物である。猪木にはアメリカにこのような人脈がなかった。これが47年から数年間の両団体の参加外人の顔ぶれに影響を及ぼすのであった。

外人選手の招聘ルートを確立した馬場は、それを迎え撃つ日本人選手の確保に動く。先ず馬場が声をかけたのが、付き人のサムソン・クツワダ、若手の佐藤昭夫、一度プロレスから足を洗っていた藤井誠之、アメリカ遠征中の大熊元司、マシオ駒、そして力道山ジュニアである百田光雄であった。兄の義浩もリングアナとして参加している。百田兄弟の参加はイコール力道山の遺族である百田家の公認を意味した。これは権威主義者の馬場なら考えそうなことである。馬場はさらに国際プロの吉原社長と話し合い、サンダー杉山をトレードで獲得し、デビル紫、鶴見五郎を借り受けた。さて、ここでプロレスしに残るミステリーがある。なぜ馬場はインター・タッグのパートナーである坂口を誘わなかったのか?ということである。坂口の証言によれば馬場にホテルの喫茶室に「俺は出て行くが、お前は出来る限り日本プロレスでがんばれ!」という言葉をかけられたというが、馬場としては「俺と一緒に来てくれ…」と言いたかったに違いない。しかし馬場が坂口を引き抜かなかったのは世話になった日本プロへのせめてもの気遣いであった…というのが筆者の考えであるが、実際その水面下で何か複雑な動きがあったかどうか?残念ながら筆者は知らない。

 

 

10月16日ヒルトンホテルにおける旗揚げ記者会見。力道山未亡人の顔も見える。

 

ともかく馬場に坂口を引き抜かれることなく、息の根を止められることのなかった日本プロレスはそれでも強気に坂口、大木の2枚看板で老舗の看板を守ろうとするのであるが、またまた意外なところから存亡の危機に関わる圧力を受けるのであった。それは何と日本プロと日本テレビの長年の蜜月関係を破綻させたNETだったのである…。

日プロ崩壊への軌跡4につづく・・・