シリーズ 日プロ崩壊への軌跡 2 「猪木除名!後編 : 猪木除名、新日本プロレス設立」
猪木追放は芳の里により12月13日に代官山の日本プロレス事務所で選手会の見守る中で発表された。この日は皮肉にも猪木が改革を実行に移そうと計画していた日であった。記者会見後、事務所にはビールが持ち込まれ、記者会見は一転、猪木追放祝賀会へと変わり、グレート小鹿の音頭で一同は乾杯。馬場と上田は立場上乾杯には参加していない。宴会の真ん中には後に猪木と合流する坂口、星野の姿もあった。 |
猪木追放が決定し祝杯をあげる選手会の面々。真ん中に坂口の姿が・・・。 |
追放が決定的となった猪木は、辞表とともにUN選手権のベルトを妻の美津子に返却させに代官山の日本プロ事務所に使いにやらせ、反論記者会見を翌日の12月14日に京王プラザホテルで行なう。この席で猪木と木村氏は、今回の騒動はクーデターではなくあくまでも組織改革であった事を強調し、日本プロ経営陣の不正を証明する書類を保管している事を公表。また不正幹部として遠藤、吉村を名指しで批判、さらに馬場と上田を裏切り者として批判した。さらに「日本プロレスを商法違反で告訴する用意がある」という話までちらつかせる。 一方の主役である馬場は猪木が反論記者会見を開いた14日に逃げるようにロスに遠征。ジョン・トロスとのコンビでマサ斎藤、キンジ渋谷組との金網デスマッチに出場。その控え室でゴングの加山特派員にインタビューに答えている。(別冊ゴング 72年2月号より) * ところで猪木問題だが、猪木は記者会見で馬場は裏切り者だと言っているが? 「・・・私は猪木を裏切ったとは思わない。たしかに猪木の言うように最初は一緒に会社を改革しようと手を握り盟約書、趣意書にもサインした。選手会もついてきてくれた。ところが盟約、趣意に反していったのは猪木の方ですよ。木村さんと言う第三者が介入してきて、猪木のやり方に疑問を持った。それははっきり、我々の趣意には会わないものと分かったので、私は一緒にやれないと言った。猪木の会社私有化の野心が、私以上に猪木と密着していた上田の証言ではっきりわかった。裏切ったのは猪木ですよ。」 これは馬場が公式にクーデター事件について語った数少ない記録である。この後、馬場はこの件に関しては一切口を閉ざしてしまうのである。 さて、日本プロから追放されマット界の孤児となった猪木は早速新団体設立に動いた訳ではなかった。国際プロレスに参加する、海外に遠征し一から出直す・・・という噂が飛び交ったが、驚くべきことに日本プロ復帰をコミッショナーである椎名悦三郎に懇願しているのである。しかし、選手会の猛反対で復帰を断念した猪木はマスコミを通じて馬場、坂口を挑発する。「馬場は3分でKOできる、坂口は片手で3分で充分だ!」猪木の挑発に坂口は「俺は3分とは言わない。15分で猪木さんをKOしてやる!」とエキサイトしたが、冷静な馬場は「除名になった猪木など言わば野良犬。プロレスは街の喧嘩ではない」と一笑に付した。 日本プロ復帰の道を完全に断たれた猪木は、日本プロに辞表を出した山本小鉄と、陰で猪木に協力していると言う理由で日本プロを除名されたユセフ・トルコ、大坪清隆とともに新団体設立に動く。除名からわずか1ヶ月後の47年1月13日には「新日本プロレス株式会社」の登記手続を済ませると言う早業。1月28日に会社設立の記者会見を開く。この時点での参加選手は、猪木、山本をはじめ、猪木の付き人の藤波、トルコの付き人であった木戸の4人のみ。マスコミの予想では東京プロ時代の朋友であるマサ斎藤、トルコシンパのミスター松岡、猪木シンパでメキシコに遠征していた柴田と北沢、ヒロマツダ、マティ鈴木などが参加するのではないかといわれたが、マサ斎藤は14回ワールドリーグに参加、松岡はアメリカから日プロに忠誠を誓い、マツダ、鈴木はまったく猪木の新団体を相手にはしておらず、結局参加したのは柴田と北沢の二人のみであった。 |
新日本プロ道場開きの鏡割り。 新日本プロの栄光の歴史はこの瞬間から始まった。 |
これでは興行的に苦しいと判断したトルコは坂口のタニマチであった中村産業の社長を通じて1000万円の支度金を提示し新日本プロへの参加を要請するが断られている。猪木も私淑する笹川良一を通じて人気力士の高見山のプロレス転向を打診するが、本人に相撲廃業の意志がなく破談となる。さらにトルコは外人招聘ルートを確保するためにWWWFのマクマホンとはじめ各地のプロモーターに挨拶を兼ねて渡米するが、すでに日本プロの手が廻っており門前払いを食らわされ、埒があかない。それを聞いて猪木に協力を打診したのがカール・ゴッチであった。しかしゴッチもアメリカでは言わば孤児に近い男で、有力外人の招聘は望むべくもなかった。さらに東京プロ時代の失敗を反省材料に中継してくれるテレビ局をさがす。一時期はTBSのキックボクシング番組に登場すると言う噂も流れたがが結局はテレビ無しのスタート。しかし、この様な苦しい状況の中、47年3月6日 大田区体育館で新日本プロレスは栄光の歴史の第一歩を踏み出すのであった・・・。 日プロ崩壊への軌跡3につづく・・・ |