シリーズ 日プロ崩壊への軌跡 1 「馬場 - 猪木のクーデター計画」

 

「俺は絶対あの件に関係していない。俺と猪木は大の親友だったんだぜ。そんな俺が卑怯な真似をするはずがないだろう。何かと世話になったのに・・・。」

これは53年猪木との史上初のネール・デスマッチを追えた翌日、週間ファイトのインタビューに答えた上田の言葉である。「あの件」とは猪木のクーデター未遂を日本プロの幹部に垂れ込んだと言う上田への疑惑である。猪木が42年日本プロに復帰。ジムで一人ぽつねんとトレーニングに励む猪木に「良かったら僕たちと一緒にやりませんか?」と声をかけたのは他ならぬ上田であった。そして日本プロレスの改革を言い出したのも普段から不平居士と言われていた上田であった。

猪木の回想では46年10月(11月説もある)後楽園ホールの控え室で上田が「幹部の浪費がこのまま続けば日本プロの未来はありませんよ。猪木さんと馬場さんでこの腐りきった日本プロレスを選手のための会社に改革して下さい!」と懇願したという。もともと猪木と上田は反主流派的立場にあり仲がよかった。猪木はさまざまな理由を付けては会社の金を横領、使い込みし続ける芳の里、吉村道明、遠藤幸吉の三幹部の悪行三昧を腹に据えかねていた。リングで体を張ってファイトするレスラーより現役を引退した幹部連中の稼ぎの方が多いという事実に不満を抱く選手は多かった。猪木は、倍賞美津子と1億円挙式を上げたわずか3日後の11月5日馬場を羽田東急ホテル呼び出し会社の改革を提案する。慎重派の馬場も猪木の「レスラーのための会社に」という改革案に賛成した。一説には馬場がこの改革に参加するのと引き換えに、手形の決済が迫っていたにかかわらず金がなかったため猪木に3000万円を立て替えてもらう約束をしたという説もある。馬場と猪木はこの改革プランを選手会に提示。選手会の面々もこの趣旨に賛同し連判状を作成する。

当初のプランは芳の里、吉村、遠藤の退陣。但し選手による会社乗っ取りと言う行動は社会的印象が悪いだろうから、社長はしばらく芳の里を据えると言うものであった。馬場と猪木は改革決行の日取りを12月13日と決めた。猪木は改革計画の参謀としてプロモーターで経理士でもあった木村昭政を参謀役とし単独で改革プランを練り上げ始めるが、これが馬場と猪木が袂を分かつ原因となってしまう。木村氏は日本プロの帳簿などをチェック。素人目にもいんちきな日本プロの帳簿は幹部追放の強力な材料であった。これを知った猪木は改革案をもっと強硬なものにする事を考え始め、臨時株主総会を招集し一気に役員の改選つまり三幹部の追放を強行する事を提案するが、慎重派の馬場はこの性急な改革案に難色を示し始める。「寛ちゃん、いきなり追放はまずいよ。改革の前にもう一度会議の場をもとうじゃないか。」猪木は馬場の意見を聞きいれ11月28日日本プロの事務所で役員会議を招集する。

猪木は当日代理人として木村氏を同席させる。木村氏が帳簿のインチキさや使途不明金について追求すると、幹部連中の顔色がさーっと引いていった。猪木はここで木村氏を経理監査役に迎え入れる事を提案。芳の里はあっさりと社長代行の委任状を木村氏に手渡したのである。これで幹部連中の使い込みはストップできた。第一段階の目標は達成されたのである。後は選手会の連判状を幹部に突き付け退陣を迫るのみであった。しかし馬場は猪木の強引な行動に疑問を抱き始めていた・・・。

日プロ崩壊への軌跡2につづく・・・