グレート草津 追悼グラフ
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S42年暮に杉山とともに凱旋帰国 |
TBS旗揚げでテーズにKOされる |
英国二冠王に。 |
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S44年、木村とのコンビで欧州タッグ獲得 |
S46年森山浩子さんと婚約、翌年結婚 |
S47年12月オマハで幻のAWA王者に |
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木村とのコンビでIWA世界タッグ獲得 |
井上とIWA世界タッグを獲得。第6回IWAワールドS前に返上 |
浜口とのIWA世界タッグが最後の戴冠 |
グレート草津(本名 草津正武) 昭和17年2月13日熊本県出身。 昭和プロレスマガジン15号が納品されてきた翌日(08年6月22日)にグレート草津逝去の報を知った。訃報によれば亡くなったのは、マガジンが納品されてきた21日だったという。今回のマガジンに限らず、過去のマガジンでは草津については色々と書いていたので、なんとも複雑な思いが私の胸に去来した。 私が国際プロレス中継を見始めたのは、昭和53年ごろだったかと思う。当時の草津はIWA世界タッグをアニマル浜口と保持していた。本人は嫌がっていたらしいが、その風貌は坂口征二にそっくり。少年ファンの間では「坂口に似ている」が草津を語る上での枕詞であった。しかし私より上の年代のファンにとっては「テーズにKOされた」が草津の枕詞であろう。一部には「悲劇のエース」との呼ばれる草津。レスラーとしては遂に国際プロレスのエースとはなりえなかった。しかし、リングの外では吉原社長に寵愛され、早くから取締役に就任し、社長の座をも約束されていた。だが団体は崩壊し、それも叶わず草津はプロレス界を去っていく。 草津はラグビー日本代表の肩書きを引っさげて昭和40年に日本プロレスに入団するが、たたき上げの先輩レスラーからの「エリート・イジメ」を受け、吉原功の誘いに乗り、杉山恒治(サンダー杉山)とともに国際プロレスに移籍。凱旋帰国の昭和43年のTBSプロレス旗揚げ戦でルー・テーズのTWWA世界ヘビー級選手権に挑戦。シンデレラボーイ誕生と期待されたが、テーズのバックドロップに無残にKOされてしまうのであった。 森達也氏著の「悪役レスラーは笑う」に掲載されているインタビューで、「プロレスやる気なかったもん」と言っていた草津。何が草津の「やる気」を奪ったのか? 草津は閉鎖的で特殊な日本のプロレス界の体質が産んだ犠牲者だったのかもしれない。 2008/6/22記す |