さらば若大将!追悼・ジャンボ鶴田
今日(5月16日)の昼過ぎ筆者と同じ会社の千葉の某支店に勤めるまめいぬ君から一本の電話が入った。 「ミックさん、ジャンボが死んじゃいましたよ!」 「えっ!」筆者は思わず絶句した。仕事の手を止めてインターネットで鶴田の死亡記事を確認したが信じられない。 「まさかジャンボが・・・。」 筆者は皆さんもご承知と思うが、どちらかと言えば新日本プロレス派のプロレス・ファンである。これは試合のスタイルでの好き嫌いではなく、単にTVの放映時間の・・・つまり新日本プロはゴールデンタイム、全日本プロは深夜に放映されていた・・・というだけの問題。決して全日本プロが嫌いなのではない。あれは中学2年の頃だったか、全日本プロレス中継が夕方に放映されるようになり、ようやく動くジャンボの姿を目にした。当時の段階で実力的にジャンボが馬場を凌いでいたと言う事実は、中学生の私にも分かった。 当時のジャンボは若大将と呼ばれていた。まさにぴったりのニックネームではないか。オリンピック代表から全日本プロに「就職」。「敷かれたレールを走っているだけ」と言う中傷もあったが、彼が天性のスターであり、天才的な強さを身に備えていた事を否定する事は出来ない。筆者はジャンボ鶴田の名を聞いて黒タイツでインターのベルトを腰に巻いた彼ではなく、いわゆる星条旗タイツにUN選手権のベルトを締めたジャンボを思い出すのである。「青春」。星条旗タイツの鶴田は筆者のプロレス・ファン人生の青春時代の象徴のような気がしている。 |
今回使った画像は55年念願のチャンピオンカーニバル初優勝時のものである。この時の優勝は「事件」であった。馬場の全盛期の終焉(実際は違ったが・・・)を予感させ、新しい時代の到来をファンに期待させた。しかし鶴田時代は来なかったのである。鶴田は最後まで馬場を追い落とそうとはしなかった。馬場を裏切らなかったのである。これは鶴田の人間性。勝負師としては失格だったかもしれない。しかしわれわれファンは鶴田のこういった人間性を愛したのだ。 「善戦マン」と呼ばれた鶴田は一念発起、星条旗タイツをすてストロング・スタイルの象徴である黒タイツを身に付ける。ルー・テーズから「へそ投げバックドロップ」を習得、そしてAWA世界選手権を獲得。馬場もNWA世界選手権を獲得したが、王者として敵地をサーキットしたのは日本プロレス史上ジャンボ鶴田だけであった。これは鶴田最大の偉業であると筆者は思うのである。 その後の「怪物」と呼ばれた鶴田の活躍は恥ずかしながら筆者はよく知らない。しかし、今日、ジャンボ鶴田の訃報を聞いて小さい頃に優しくしてもらった近所のお兄ちゃんが死んだような気持ちになった。ジャンボ鶴田とはそんなレスラーだった。「青春」のレスラー ジャンボ鶴田よ、安らかに眠れ。 平成12年5月16日 |
ジャンボ鶴田 本名 : 鶴田友美。昭和26年山梨県出身。196センチ、120キロ。 |