ファイル56 ダラ・シン別人説を追え! 暫定的完結編

2009.4.9

 

 さて、ダラ・シンの深い、深い迷宮に迷い込んでしまった筆者だが、同じく、ダラ・シンの迷宮に迷い込んだJumbo Aoki氏も、日々ネットでダラ・シン情報を検索していただいていた。そんなAoki氏から衝撃の情報が!

 インド・カシミール地方の新聞「Daily Excelsior」のサイトの過去ログに衝撃的な記事が!

The Killer Dara Singh By Bansi Lal Tidyal

ダラ・シンという名前を聞いた人は多いだろう。彼の名前はレスリングを連想させる。しかしどちらのDara Singhだろう? Dara Singhは二人いた。ひとりは俳優兼レスラーのDara Singh、もうひとりは殺人者のDara Singhである。我々は二人を混同しがちだ。俳優のDara SinghはKing Kong, Dara Singh, Dhanna Jat, Jagga Dakku, Aye Tofaなどの映画や、「 Ramayan」シリーズに出演した。一方のDara Singh Pahalwanは、兄を殺した犯人を殺害したことで有名である。

Piara Singhには3人の息子と3人の娘がいた。彼らはPunjab州Amritsar 地区のDitchipur 村に住んでいた。長男Inder Singhはレスリングに秀でていた。彼の影響でDara Singhも偉大なレスラーとなった。Dara SinghはLahoreのUstaad Sohan Singhからテクニックを学んだ。そして15才の時には多くのトップ・レスラーを撃破した。

Dara Singh Killer(註:Dara Singh Pahalwanのこと)は、シーク教徒だったが、レスリングのために髪を刈っていた(註:シーク教徒は髪を伸ばしターバンを巻く)。彼は6フィート6インチ(198センチ)のパワフルなレスラーだった。17歳の時、6人のイギリス人レスラーを破ったのを認められ警察官として徴用され、数年後には警部補佐に昇格していた。日英戦争のさなか、彼は2発の銃弾を浴びて重傷を負い、健康を害して、辞職した。

ある日、Dara Singh killeが座っていると、ある日本人が彼を役人の所に連れて行った。その後、役人は陸軍に入らないかと誘った。Dara Singhは陸軍に入隊した。彼は祖国の独立のために戦い、失ったポストに返り咲いたSubash Chander Boseを助けた。彼はまたレスリングで大金を稼ぎ、アメリカ流のフリースタイルでトップレスラーを破り1945年にチャンピオンになった。

Dara Singhはマラヤ・チャンピオンにも認定された。25歳の時、インドのプロモーターはダラ・シンと戦わせるために頑丈なキングコングをブッキングした。Dara Singhの負けが予想されたが、Dara Singh Killerはキングコングを破っただけでなく、その片足もへし折った。Dara Singh はRustam-e-Hindタイトル(インド・レスリングの王座)を授与され、1963年には外国人レスラーを倒し世界チャンピオンに認定された。

ドイツ遠征時に彼の人生は暗転する。自宅で兄のDalip Singhが殺害されたのだ。その報を聞き、Ditchipur に飛んで帰った彼が見たのは、片腕を切り落とされて横たわる兄の姿であった。そのとき彼は復讐を誓った。彼は罪人を追い詰め、そのうちの一人を殺してしまったのである。Daraは逮捕され、1951年に高裁で死刑判決を受けた。控訴審で最高裁は終身刑を言い渡した。彼はDelhi とFerojpur の監獄で人生の一部をおくった。

その事実を知り、Punjab州のBhim Sen Sacha州首相と人気俳優Prithvi Raj KapoorはDaraを救おうとしたが失敗に終わった。

1955年、ロシアのKrishov とBalgaria 司令官がインドを訪問し、Jawahar Lal Nehru首相に対面した。彼らの主催でレスリングの協議会が開催された。Dara Singh KillerはAtom Bombなる外国人レスラーを撃破した。これを見たゲストたちは喜んだ。彼の逮捕された経緯を知ったゲストは彼の釈放を要求した。彼らは「我々の国に彼のような偉大なレスラーがいれば、我々は彼に敬意をはらい釈放する」と言った。Nehruが大統領に働きかけ彼は釈放された。収監中、彼の家族の事情は悪化していた。彼の息子は学業を断念していた。そして彼と同名の男が金を稼いでいた。その男とは俳優のDara Singhであった。

1978年にDara Singh killerはアジア王者のPahalwan Kartar Singhと共にJammuを訪れ、Mini Stadium Parade Jammuでインド相撲のウィットネスを務めた。彼は60歳になっていたが、土俵に姿を見せた。Kartar Singh はJ&K Wrestling Association主催の試合で勝利を収め、Dara Singもまた賞賛を浴びた。

俳優のDara SinghはBombayとDelhiでDara Singh Killerに勝ったと語っているが、Dara Singh Killerはこれを否定している。レスリングを辞め、Dara は故郷のDitchipur 村に戻ったが、彼の体は麻痺し自分では歩けず、寝たきりになった。

Dara Singh killer はDitchipur村で80歳で亡くなった。

原文はこちら http://www.dailyexcelsior.com/web1/03oct28/sports.htm#4

初代と2代目には全く血縁がなかったことがこれで判明した。初代の服役中に2代目が登場して有名になってしまったということのようだ。「namesake」という単語が使われていることから考えると、2代目は初代と同姓同名だったと言うことだろう。しかし実兄と同名の別人と来日しなければならなかったサーダラの心境はどのようなものだったのだろうか?

この記事を流智美氏にお知らせしたところ、キングコングと来日したダラ・シンと会ったことのあるペンパルのLIBNAN AYOUB氏(シドニー在住)に、この記事を転送してくださった。この記事を読んだAYOUB氏のレスが衝撃的なものであった!

Let me explain, there are three people named Dara Singh

1. Chota Dara Singh (the movie star, wrestler, Lou's friend, Career 1949 -1970's)
2. Killer Dara Singh (wrestler, who started in 1945 - 1963, died)
3. Dara Singh, (not a wrestler. He was murderer who killed three people. Just happens to be the same name)

Understand now ?

いかがだろうか? てっきり「初代=CHOTA=KILLER」だと思い込んでいたのだが、AYOUB氏のメールにより、CHOTAとKILLERは別人でることとが判明したのである! しかも、CHOTAは経歴から見るに、2代目だと考えていいのではないだろうか?
(ちなみに3のダラ・シンは、三人を殺した犯罪者で、たまたま同じ名前とのこと)

またこちらのサイト
http://jmatthan.blogspot.com/2005/11/dara-singh-king-kong-flash-gordon.html

の書き込みでは、その出身地から映画俳優のダラ・シンはDARA DHRAMUCAHKIA と呼ばれ、Killerの方はDARA DULCHIPURIA と呼ばれていたとある。

さらにCHATA DARA SINGHで検索してみるとこのようなサイトがヒットした!

http://popularsikh.com/node/76241

「Dara Singh - Arnold's Forerunner」という映画俳優として活躍したレスラーのダラ・シン(おそらく昭和42年版2代目ダラ・シン)に関する書き込みの後に、興味深いレスが・・・。

22 November, 2008 - 08:00 ? Suaran Singh

第2次大戦語、マレーには二人のダラ・シンが存在していました。二人ともシンガポールからやってきたと思います。こちらで紹介されているダラ・シンはCHOTA DARA SINGHとして知られています。年長のダラ・シン(The senior DARA)は7フィート(213センチ)近くある巨人でした。彼らはペナンに試合に来るといつも、Brick Kiln RoadにあるGurdwara(シーク教徒が祈りをささげる場所または寺院)を訪れていました。

The senior DARAは非常にパワフルな人でした。私は彼らがNew World Parkで試合するのをよく見ました。彼らの対戦相手は、キングコング、キラー・コワルスキーなど世界的に有名なレスラーでした。senior DARAはインドで殺人事件に巻き込まれ投獄されました。そのあいだにCHOTA DARAは有名になりました。senior DARAもまたマレーで「Gargantuah」などの映画に出演しています。

AYOUB氏の記述を裏付ける証言である。この情報によればKILLERとCHOTAは友好的関係にあったと読み取れる。身長が7フィートと言うのは云いすぎだと思うが、Killerは身長198センチ前後合ったことは間違いないだろう。そこで思い出したのがこちらの写真(第1回ワールド大リーグ戦のパンフより)。

左に写っているキングコングは185センチ。それから考えると、右に移っているダラ・シンは200センチ近くあると見て間違いない。おそらくこの写真の人物がKILLER DARA SINGHを見て間違いないだろう。

奇しくも昭和30年に来日したダラ・シンとキングコング、レフェリーのアンワールが並んで写っている写真がある。

立ち位置の関係もあろうが、身長が上のターバンを巻いた写真よりもかなり低いのではないか・・・。ちなみにパンフにはダラ・シンだげ身長の記載がない。ちなみにシンの向かって右に立っているサイプ・シャーの身長は193センチ。それから推測すると、195センチぐらいはあるだろうか・・・? 身長で一抹の疑問は残ったが、これがKILLERであるとしておきたい。

と、4/9時点では書いたが、この2枚の写真に写っているダラ・シンの身長差は、カメラのアングル、被写体との距離・・・と言ったことでは説明できないほど、大きな差がある。やはり別人ではないか?

だとすると、CHOTAが初代なのではないだろうか? 昭和30年版と昭和42年版は、よく似ているが別人であることは間違いない。しかし映画俳優〜政治家のSHRI(CHOTA)が2代目であると断定しきる材料はない。そう考えると、流氏の主張どおり昭和30年版はCHOTAで間違いないのではないだろうか・・・。

ここまでの情報を整理し、下記をの仮説を4/10版の推論とさせていただきたい。

KILLER DARA SINGH

1922年(?)DULCHIPURIA村出身。身長は198cm前後。幼少時代からレスラーとなるが、1951年に殺人罪で逮捕、1955年に釈放された。1963年に世界王者になるが引退。80才の時、故郷で逝去。

ダラ・シン(昭和30年版)

本名はSHRI DARA SINGH。通称CHOTA DARA SINGHもしくはDARA SINGH RANDHAWA。1928年 DHRAMUCAHKIA村出身。身長は185〜188センチ。KILLERの投獄中に有名になった。シンガポールで東南アジア遠征中の力道山と対戦。秋には「アジア選手権大会」参加のため、キングコングらと来日を果たした。テーズとは親友でレスラーから映画俳優、政治家に転身した。映画に多数出演、インド政府のサイトに紹介されている。流氏との文通の中で「力道山に招かれ一度だけ日本に行った」との記述あり。

ダラ・シン(昭和42年版)

昭和42年にサーダラ・シンと来日。CHOTAによく似ているが別人であることは、多くのファンの証言から間違いはなさそう。経歴は不明。1974年頃にトロントに登場したダラ・シンによく似ている。

蛇足:さて、最後にサー・ダラだが、その一族の名前RANDHAWAを愛称としていたことから考えると、KILLERの弟ではなく、SHRI(CHOTA)の弟だったのではないだろうか?

◆4/10追加情報

ルター電子レンジ様から、別冊ゴング昭和49年1月号掲載の沖識名のコラムでダラ・シンが取り上げられているとの情報をいただきました。以下、全文を掲載する。

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超セメント・タイプのインドの虎

 ダラ・シンが日本のリングに登場して力道山を大いに苦しめたのは、あれは確か昭和三十三年(註:おそらくミスプリント)の十月に開催した「東洋選手権」のとき。

 わしはこの時、ハワイで手放すことのできないビジネスがあって日本のリングを休んでいたが、このダラ・シンがキング・コング、サイド・サイフシャー、タイガー・ジョキンダーなどの東南アジアのトップグループが日本のリングを荒らしまわっている−ということはハワイでツーリストから何度も聞いた。

 日本のリングに昭和四十二年にダラ・シンと名乗るのが来てG馬場、A猪木なんかと手合わせしたが、このダラ・シンは昭和三十年に日本に来たダラ・シンとは同名異人であることはスポーツ・ジャーナリストの指適する通リだと思う。

 ところで、わしがダラ・シンと名乗る滅法強いインド人レスラーに初めてお目にかかったのは、ニューヨークのMSG。背丈二メートルちょっと、ウェイトは二百四十五パウンドぐらいだったかなあ、太腿(ふともも)の見事さといったら、それは大したもの、ルー・テーズの最盛期のそれよりも、エリックのそれよりもまだすごかった。

 ファイトの方はいわゆる。超の字がついた“セメント・スタイル”で、誰彼の容赦、区別はなかった。

 彼と闘った者はみな半殺しの目にあっていた。いつごろの話だって? わしが日本に来る二、三年前の話だから昭和二十六、七年、力道山がハワイにやって来る寸前の話さ。

 このダラ・シン、ハワイにも遠征して来たが、ショーマン・シップがまったくといっていいくらいないので、対戦相手から“疫病神”のように嫌われ、マネーの方はさっぱり稼げなかったようだ。

 東洋選手権大会が終わって日本に来て力道山にダラ・シンの話をさんざん聞かされたが、日本のリングでも手加減一つしなかったそうな! それにしても力道山はK・コングとこのダラ・シンらをやっけて、オール・アジアのヘビー級のタイトルをとったのだから、彼は大した男よ!

 ダラ・シンはわしが見たレスラーのなかで、五本の指に入るストロング・レスラーだったんだからなあ……。

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 かなり要点をおさえたコラムだ。

 ・昭和30年版と昭和42年版は別人である。
 ・身長2メートルのダラ・シンつまりKILLERがMSGに登場、ハワイのリングで活躍したのを見た。

 沖識名は2メートルのダラ・シンが昭和30年のダラ・シンと考えているようだが、沖さんは昭和30年に来日したダラ・シンを実際には見ていない。もし沖さんが昭和30年に来日したダラ・シンを見ており、KILLERとは別人だと断定していれば、研究室の見解であるダラ・シン3人説の裏づけは取れたのだが・・・。