ファイル47 国際プロレスを二度裏切った男!
(昭和プロレスマガジン10号コラボ企画)
2006.4.28
皆様のおかげで、昭和プロレスマガジンも10号を迎えすことができました。10号の特集は「さらば!国際プロレス」・・・昭和54年末から昭和56年夏の崩壊までをフォローしたわけだが、この時期の国際プロレスはトラブルだらけ。特に外国人レスラーの来日キャンセルは頻発し、団体としての信用も次第に失っていったことはマガジンでも書いたとおり。中でも、昭和55年と昭和56年の2度にわたって、国際プロレスが正式参加を発表しながら、二度とも直前で来日をキャンセルした「ふざけた野郎」がいた。 その名はラリー・ラザン(ラリー・レイザム)。このラザンはテネシーでウェイン・ファリスとの「ニュー・ブロンド・ボンバーズ」で活躍し、ゴングなどでもグラビアで紹介され、まずまずの注目を浴びていたレスラーであった。 |
「ビッグ・サマー・シリーズ」のパンフ |
まず最初の来日キャンセルは昭和55年の「ビッグ・サマー・シリーズ」。当初はファリスとのコンビでの参加が発表されたが、まずファリスが負傷。ジプシー・ジョーの推薦で、当時ジョーとライバル関係にあったロッキー・ブリューワーをファリスの代打として招聘。ラザンとコンビを組ませる事にし、パンフでも「ニュー・ブロンド・ボンバーズ」として紹介している。ブリューワーはけなげにも、「ブロンドボンバーズ」ということで、黒い髪をブロンド(というよりも美輪明宏ばりの黄髪だったが・・・)に染めていたが、なんとラザンは「国際プロレスとはボンバーズとして契約していたと思っていた・・・」と、アメリカで別の契約を結んでしまい、国際プロレスには、やってこなかったのである。ちなみにこれと前後してファリスとのコンビは解消し、カール・ファジーと新ニュー・ブロンド・ボンバーズを結成している。 |
髪まで染めたブリューワーだが・・・ |
そして、昭和56年の「ダイナマイト・シリーズ」に再び、カール・ファジーとの「新ニュー・ブロンド・ボンバーズ」として来日が発表された。今度こそはやってくるだろうと思ったのだが、またもやラザンはこなかったのである。この時の来日キャンセルの理由が「WWFでムーンドッグスになるから日本にはいけない」というふざけたもので、フロントもファンもあきれた。 当時、WWFではルー・アルバーノが率いるムーンドッグスが人気を呼んでいた。オリジナル・メンバーは国際プロレスの常連だったセーラー・ホワイトと、未来日のランディ・コーレイであった。が、ホワイトがムーンドッグスを脱退した為に、「ブロンドのヒゲ面」というムーンドッグスそのままの風貌で、即戦力とみなされたラザンがスポット・ムーンドッグとしてスカウトされたのであった。この年の6月には、MSGで藤波と谷津の挑戦を受け、その模様がテレビで録画中継された。試合振りは非常にショッパイもので、国際プロレスのフロントも胸をなでおろしたのではないだろうか? 結局、ラザンは昭和62年にスポット・ムーンドッグとして、新パートナーのスパイク(ビル・スマイザン)とともにやってきた。テネシーあたりでくすぶっていた、二流レスラーに二度も来日をキャンセルされるほど、末期の国際プロレスはなめられていたということである。冒頭でも書いたように、末期の国際プロレスは外国人の来日キャンセル以外にも、レスラーの負傷、死亡、合宿所全焼・・・などといった不幸な出来事が相次ぎ、ついに昭和56年に力尽きたのである。崩壊への経緯は「昭和プロレス・マガジン10号」で!(笑) |