ファイル23 唯一テレビ中継されなかったNWF選手権 (昭和53年7月24日)

 

   アントニオ猪木のNWFヘビー級選手権には数多くの強豪が挑戦し、テレビに放映されたが、唯一なぜか放映されなかった幻の防衛戦がある。昭和53年7月に広島で行われたラテンの魔豹 ペドロ・モラレスを迎えてのNWF選手権であった。この3日後には日本武道館でWWWF王者ボブ・バックランへの挑戦が決定しており、テレビ局としては、このNWF選手権も当然前人気を呼ぶために放映を要求したと思われるが、なぜか新日本側はOKを出さなかった。その裏に秘められた真実とはなんだったか?

 挑戦者のペドロ・モラレスは改めて紹介するまでもないビッグネームで、新日本プロへは2度目の参戦。来日当時は新日本プロと太いパイプでつながっていたロサンゼルス地区で活躍、まだまだスタミナも十分あり、実力も全盛期とは行かないまでも1流の活躍をしていた。このシリーズにも当然エース格での参加。1度目はあり戦を控えた猪木が挑戦を受けなかったため、猪木とのシングルマッチはこのときがはじめてで、しかもタイトルがかかっているとあり気合十分であった。一方の王者猪木はひざに加え、脊髄を負傷していた。とくにこのタイトルマッチの前にモラレス&カルホーン組と対戦したタッグマッチで、カルホーンの体重をもろに腰に受け腰痛が悪化しており、まさに満身創痍の状態であった。この広島での試合当日も痛み止めをうっての出場であった。

 

 
一瞬の逆さ押さえ込みで救われた猪木。   帰りのタクシーでもぐったり。

 

 当日のレフェリーはレッドシューズ・ドゥーガン。猪木は当然腰痛を隠していたわけで、モラレスはいつもどおりのスピード&パワーの豪快な攻めをみせる。ひざを狙ったニークラッシャーから、必殺のペドロ・ドロップ(ワンハンド・バックブリーカー)が炸裂。これで猪木の動きは完全に止まり、モラレスの攻勢が続く。しかし22分過ぎにブレンバスターを狙ったモラレスの隙を突いて一瞬の逆さ押さえ込みで何とかフォールを奪ったものの。猪木はその場で半失神状態となる。控え室でも意識は戻らず、シャワーも浴びず会場を後にした。

 27日のWWWF選手権でも猪木は苦戦。しかし1時間フルタイム引き分けという脅威の粘りをみせたのである。シリーズ終了後、猪木は入院。検査の結果はなんと脊髄ヘルニアであった。このような状態でモラレスとの激戦、バックランドとの1時間フルタイムマッチを行った猪木はまさに化け物。この話を聞かされたバックランド、モラレスの両人は顔をこわばらせたという。もし猪木に再起不能の怪我を負わせていれば、プロレス界のおきてによりその日から飯の食い上げになるからである。

 さて、ここからが本題。モラレスとの試合は24日で、この日は月曜日であった。バックランドとの試合は27日で木曜日。たとえフルタイムマッチとしても金曜日には編集を加えれば結果まで放映は可能。しかし、テレビ朝日は翌週もWWWF選手権を放映。ビデオ撮りはしていたはずの広島の試合をお蔵入りにしてしまう。これはどういうことか考えてみると、結論はひとつ。試合内容があまりにもひどかった。つまり猪木のいいところが全くなかったとみて間違いない。モラレスは試合後も裁定(カウントが異常に早かった?)に不満を見せなかなか引き上げなかったという。この試合は猪木のNWFの歴史に汚点として残るほどの内容だったのではないか?もし当時広島でこの試合を名まで見た方がおられましたら、掲示板で試合の様子をレポートしていただければ幸いです。