ファイル 20 : 大木と坂口の喧嘩マッチ 後編 (昭和50年4〜5月)

 

テレビ・マッチで全国のファンの前で乱闘を演じ、大木、坂口の因縁は更に深まった。ファンもふたりの抗争に注目するが、ここで事態は意外な展開へ。なんとレフェリーのミスター高橋がふたりの試合のレフェリングを拒否したのである。「私には自信がない、喧嘩のフェレリーは出来ません!」困惑した猪木は豊登、吉村、遠藤といった旧日本プロのOBに特別レフェリーとして出馬を乞うが、高橋と同じ理由で固辞される。しかし結局、豊登が「ならば俺が・・・」というころでフェレリーを引き受け、4月25日の福山大会は豊登のレフェリーで行われることに決まった。しかし、これがまた一転、プロレスマスコミ記者で構成されたワールドリーグ監視委員会が、「臨時レフェリーで試合を行なうことは、この試合が異常な試合と認めたことになる。あくまでもこの試合は高橋レフェリーで行なわれるべき。」とクレームを付けた。高橋レフェリーも、監視委員会の勧告にしぶしぶレフェリーを引き受けることとなった。

さて因縁の再戦。会場も総立ちで両者を煽る。「坂口!殺せー!」「大木!ぶったおせー!」。怒号渦巻く中試合開始のゴング。と、同時に坂口が大木をビンタで張り倒す。場外に大木を蹴落としあがってくるところを蹴りまくる。しかし大木は一瞬の隙を突いて原爆頭突き。一発で坂口はグロッキー。そこへ頭突きを連発する大木。坂口は頭突きを振り切って大木にシュミット式バックブリーカー。さらに場外にもつれる。興奮したファンが大木に椅子を投げつけ、下駄で殴り掛かる。両者ともにイスで殴り合い。14分41秒、監視委員会の桜井康雄の裁定でノーコンテスト・・・この試合の再戦は5月9日高松で行われることとなる。

注目の再戦。この試合は前回にも増す激戦。この試合でも両者は場外で大乱闘。イスを手に取った坂口はファンはもちろん関係者も驚いたという「プロレスの限度を超えた」勢いでイスを大木の頭にぶち込んだ。バスーン!この一撃で大木は錯乱状態となり、場外を夢遊病社のようにさまよい歩き、リングアウト負け。我に返った大木はみづからの頭を何度も鉄柱に打ち付け「わからない、何もわからない!」と絶叫したという。この絶叫には彼が日本のプロレス界への思いが込められているように思うのは、筆者だけではあるまい。

 

感情むきだしで殴り合う大木と坂口

 

 予選では坂口に軍配が上がった。しかし予選の結果はキラー・カール・クラップが1位、2位に猪木、坂口、大木、小林の4人が並んだ。1位のクラップとの対戦者を決めるために、トーナメントが行なわれることになった。大木はここがチャンスとばかりに試合監視委員会にぜひ坂口とやらせろと額を床にこすり付け哀願。委員会はトーナメントの組合わせを猪木−小林、坂口−大木に決定した。5月16日 日大講堂。両者はふたたびリング上で台頭したが、今回も全くプロレスにはならず、恩讐のこもった蹴り合い殴り合い。またまた場外へもつれこんで大乱闘。試合監視委員会はふたたびノーコンテストを言い渡した。2年連続で不本意な形で優勝を逃した坂口はリング上で悔しさの男泣き。大木はしてやったりの表情でリングを後にした。

この両者の因縁、この後も続いたのなら、いわゆる「アングル」だろうという見方も出来るが、実はこの対戦は二度と行われることはなかった。この第2回ワールド・リーグ戦中の3試合で抗争は幕を閉じている・・・ということから考えれば、この両者の因縁試合はまさに「ガチンコ試合」であったのかもしれない・・・。

 

参考文献:別冊ゴング50年6,7月号