ファイル 19 : キム・イル WWA世界王座転落の真相!(昭和42年6月30日 )

 

 

 

キム・イル

 

マイク・デビアス

 

カール・ゴッチ

 

韓国プロレスの総帥 大木金太郎ことキム・イルが「毒蛇」マーク・ルーインを破り、故郷・韓国に錦を飾ったのは韓国(キム・イル)側の接待攻勢でルーインのコンディションを崩させたという説もあるが、伏魔殿といわれたWWAが世界王者のまま敵地ロサンゼルスをサーキットしていたキムから、老雄マイク・デビアス(当時の表記はマイク・デ・ビアス=テッド・デビアスの父親。この年の4月にワールド・リーグ戦に参加し4勝3敗の成績を残すが、当時のキム・イルから見れば軽い相手であった。)に世界タイトルをもぎらせるくらいは朝飯前のことであった。しかし、この6月30日のオリムピック・オーデトリアムでデビアスに加担したのが神様カール・ゴッチであったと言うのは以外に知られていない。ギミックやショープロレスを嫌ったゴッチがなぜ謀略の渦に巻き込まれこの様な愚行に及んだのか?筆者の邪推を交えて推理していきたい。

まず事件の経過から。場所日時は前述の通り、昭和42(1967)年6月30日のオリンピック・オーデトリアム。当初はキムとスカル・マーフィとの間で選手権試合が行なわれる予定で両者ともにリング・イン、決戦のゴングを待っていたのであるが、そこにデビアスが乱入「お前に挑戦資格はない!」とマーフィの襲い掛かり、マーフィは無残にもKOされた。ここで急遽、王者キムの意向はまったく効かず、強引に挑戦者をデビアスに変更して選手権試合のゴングは鳴る。1本目はキム、2本目はデビアスがそれぞれ体固めでイーブンのスコアで、決勝の3本目。ここでデビアスセコンドについていたゴッチがロープにとんだキムの足を引っ張りキムは昏倒。そのままデビアスに押え込まれ世界王者をまんまともぎ取られてしまった。キムとセコンドのミスター・モトは猛烈に抗議。王座の移動は認められなかったものの、タイトルはコミッション預かりでベルトはキムの腰には戻らなかった。2週間後の7月15日の王座決定戦でも2本目デビアスはロープをつかんでキムを体固め、セコンドの坂口が抗議するも認められずベルトは完全にデビアスの物となった。キムはリターンマッチを望むが、WWA7月25日には王座をデビアスからルーインに移動させてしまう。力道山−ブラッシーの謀略の時の同じ手口である。

ここからが本題。なぜゴッチは選手権試合を妨害するという暴挙に及んだか?当時のゴッチは日本プロレス遠征時に負傷した膝の治療のためにハワイで療養、ようやく傷がいえてWWA地区に転戦。デビアスとのコンビでWWA世界タッグ選手権を獲得している。当時のプロレス&ボクシング誌ではパートナーのデビアスにゴッチが加担したと解説している。まぁ、これが一番説得力のある説であるが理由はこれだけではないはず。ここからの推理は筆者の邪推ゆえ、あまり鵜呑みにされない方が良かろう。この同じ時期にゴッチは日本プロの依頼でザ・ブッチャー(=ドン・ジャーディーン)、ミスター・アトミック(=クライド・スティーブス)とともに大型新人 坂口征二にプロレスのイロハを叩き込んでいる。その後には日本プロにコーチとして招聘されゴッチ教室を開講、43年まで日本に長期滞在しているのである。この一連の日本プロのゴッチへの待遇はキム・イルを王座から引き摺り下ろしたゴッチへの報酬、つまりゴッチに試合の妨害を依頼したのは日本プロのフロントであると筆者は読む。

では日本プロレスの首脳がなぜキムを王座から追い落とす必要だあったか?実はキムはこの二度目の渡米の前に「世界王者、もしくはそれに準ずるタイトルを獲得したら力道山を襲名させる」と言う確約を当時の日本プロ社長の豊登から取り付けており、7月から開幕するサマー・シリーズでは世界王者として凱旋、力道山の襲名を首脳陣に迫る腹積もりであった。しかし馬場、吉村に加え、東京プロから復帰したばかりの猪木という3本柱のあった日本プロとしてはキムにこの3本柱より格上の「力道山」というリングネームを襲名させる訳にはいかなかった。そのため「専任コーチ」というエサで神様と言われながら体調に不安のあるゴッチを動かしたのではなかろうか?(ゴッチがこの誘惑に乗った事に付いては、もっと深い理由があるかもしれない。)これはあくまでも筆者の邪推である。