ファイル18 : ドリー・ファンク・ジュニアから3度世界王者を奪った男〜ホーマー・オデール大佐の野望

 

ドリー・ファンク・ジュニアといえば、「NWA史上最後の大物王者」といわれるだけあって、人気実力ともに誰もが一目おく、大王者であった。彼が、日本の馬場、猪木を始め、世界の強豪相手に防衛戦を行ない、タイトルを守り続けたのは周知の事実である。しかし、この世界王者から3度に渡りベルトを強奪した男がいる。それが今回の主役、ホーマー・オデール大佐である。

 

             
ポール・デマルコ   ホーマー・オデール大佐   ビッグ・バッド・ジョン   ターザン・バクスター

 

1969年10月10日、アトランタのスポーツ・アリーナで行われたドリー・ファンク・ジュニア(以下ジュニア)と、USヘビー級チャンピオン ポール・デマルコ(43年来日)の世界選手権で事件は起きた。1−1で迎えた決勝ラウンド、デマルコはジュニアをトップロープ越しに場外へ放り投げた。ジュニアは脳震盪を起こしダウン。従来ならオーバー・ザ・トップ・ロープで、デマルコの反則が取られるはずだが、レフェリーはカウントアウトを宣告し、デマルコの腰に世界王者のベルトをまいたのである。デマルコは逃げるように控え室に駆け込む。控え室ではオーデル大佐がカメラマンを集めており、世界王者のベルトを巻いたデマルコの写真を撮らせた。ジュニア側は当然判定に抗議、1週間後世界タイトルを奪い返すが、オーデル大佐は世界チャンピオン姿のデマルコの写真を使用したパンフレットを大量に作成し、ばら撒いたのである。曰く「新世界チャンピオンポール・デマルコ・・・ドリー・ファンク・ジュニアをフォールした男」。これで、ポール・デマルコという2流レスラーの名前は全米に轟くこととなったのである。
アトランタでのデマルコ事件の後、ジュニアはミズーリ州スプリング・フィールドでターザン・バクスター(=レオン・バクスター:46、47年来日)にタイトルを奪われかけるが、この時のマネージャーもこのオーデル大佐であった。

 

 
デマルコの王座奪取を伝えるチラシ   ベルトを腰に大笑いのジョン

 

「2度あることは3度ある」・・・1971年5月2日、アラバマ州バーミンガム。ここでジュニアに挑戦したのはジョージア、アラバマ地区認定の南部ヘビー級王者ビッグ・バッド・ジョン(=ジョン・ドランゴ:47年来日)である。このジョンは知名度こそ低いが、WWWF地区ではサンマルチノと時間切れ引き分けの死闘を演じた実力者であった。ジョンのセコンドにはぺぺ・ロペスの顔が見える。1本目は16分41秒、ジョンがカナディアン・バック・ブリーカーで先取、2本目は14分ジュニアがブロンコ・スープレックスでかえしてタイ・スコア。決勝の3本目、派手な殴り合い、ジュニアはロープに飛んでドロップキック、もう一発をねらい、ロープへ飛んだところでジュニアが転倒。ジョンはここぞとばかりにスタンプ・ホールド(パワーボム)・・・レフェリーのトム・ジョーンズ・ジュニアがカウント・スリー!セコンドのロペスが駆け上がりジョンと抱き合う。「ロペスが俺の足を引っ張った!タイトルの移動は無効だ!」ジュニアがコミッショナーに向かって叫ぶ。しかしその場では判定は覆ることなく、ジョンはベルトを腰に巻いたまま控え室えと戻っていったのである。客席の3列目には不敵な笑いを浮かべるオーデル大佐の姿があった。

しかし3日後にはジュニアの提訴がとおり、NWA会長サム・マソニックはジョンにタイトルベルトの返還を勧告する。オーデルのねらいは自分の配下のレスラーを世界王者に仕立て上げ、世界戦興業をうって大儲けすることだったのである。その後、デマルコはサンフランシスコに転戦しUSタイトルを獲得、シスコで一時代を築く。バクスターは3流のまま、ジョンはジョン・ドランゴに名を変え新日本の旗揚げに参加した後、ロスに出現、ビクター・リベラとの抗争で話題を呼ぶが、ビッグ・タイトルに恵まれることなく、メイン・ストリートから姿を消した。そして、夢を実現することの出来なかったオーデル大佐はジョージア地区でレスラー兼マネージャーとして細々とレスリングビジネスを続けたのである。

参考資料:別冊ゴング(45年12月号、46年7月号)