ファイル17 : 新日本の看板タイトル北米選手権をめぐる謎

 

47年に新日本プロレスを設立したアントニオ猪木が初めて挑戦したタイトルはカール・ゴッチの保持する世界選手権(旧AWA=オマハ版のベルト説が有力)であった。しかしこのタイトルはご存知の通りゴッチ個人が所有するベルトをタイトル化したものであり、現存する団体が認定したタイトルではない。

 

北米タッグ選手権をめぐる謎

新日本プロレスが現存する団体が認定したタイトルに初めて挑戦したのは48年8月ロスにおける北米タッグ選手権である。王者組はジョニー・パワーズとパット・パターソンであった。このタイトルははっきり言って認定団体が解らない眉唾物であるが、タイトルマッチ当日にパワーズがNWFの北米選手権ベルトを締めてリングに上がり、リングアナウンサーも「北米選手権者ジョニー・パワーズ!(もちろん英語です)」とコールしているところからみて、このタッグ選手権もNWFの認定と思われるが、パワーズ、パターソン組がアメリカおよびカナダでこのタイトルの防衛戦を行なったという記録には突き当たったことがない。ビデオを見るとベルトも金色の板一枚のチープなベルトで、両者とも腰に巻かず手に持って入場している。新日本プロレスはこの年の暮れにパワーズ、パターソン組を招聘し、北米選手権に猪木、坂口組を挑戦させるが、この時このタイトルがどの団体の認定と称され、どのようなベルトが使用されたかは資料不足のため不明である。このパワーズとパターソンの二人は新日本が獲得した北米選手権とは深い因縁を持つことになる。

48年に2度に渡り挑戦した「北米タッグ選手権」は2度とも反則勝ちのため奪取するにたいたらなかった。そこで目先を変えた新日本プロレスはNWF「世界」タッグ選手権者のクルト・フォン・ヘスとカール・フォン・ショッツのナチス・コンビを招聘する。しかし来日したナチス・コンビが持参したベルトにはNWA認定ノース・アメリカン・タッグ選手権と刻まれており、マスコミはもとより新日本のフロントを大いに困惑させた。この時点で新日本はNWAに加盟するマイク・ラーベル(反主流派)とは提携していたとは言え、NWA会員ではなかったのである。しかしこのタイトルマッチは強行されるが、またぞろ王座奪取に失敗。執念の黄金コンビはロスまでナチスコンビを追いかけタイトルをもぎ取り、このタイトルは黄金コンビをへて、坂口、小林組、坂口、長州組へと引き継がれ新日本の看板タイトルとなるのであるが、元を正せばNWAのどのプロモーターが認定したのかさえ解らぬタイトルであった。

 

WWF認定北米選手権をめぐる謎

猪木に次ぐエースであるが無冠であった坂口が目を付けたのが、またもやジョニー・パワーズの保持していたNWF認定の北米選手権。これに敗れたパワーズは新日本プロレスによりタイトルを根こそぎにされ、寂しくNWFの看板を下ろすことになる。(実際は既に崩壊していた)移籍以来6年目にしてようやくシングル・タイトルを手にした坂口は、2番手の外人選手を相手に防衛戦をこなすが、WWFの認定する北米選手権との統一戦を目の前にして、エース級外人のタイガー・ジェット・シンにあっさりとタイトルを手渡し、猪木を激怒させる。

さて、問題は坂口が統一しようとしていたWWF認定と称された北米選手権である。当時の王者は何の因縁か、またもや北米タッグ選手権者のパット・パターソンであった。54年11月に坂口は苦戦の末タイトルを獲得するが、この試合で坂口が腰に巻いたベルトはパターソンが持ちかえり、インターコンチネンタル選手権のベルトとなりパターソンが王者として防衛戦を続け、坂口にはレプリカ?のベルトが与えられる。それだけでも疑問の残るこのWWF版北米タイトルだが、出所を検証するともっと話しがややこしくなる。

マニアの方ならパターソンはこのWWF版と日本で呼ばれている北米選手権をテッド・デビアスから獲得したということはご存知だろう。しかし、プロレスリング・イラストレーテッド誌のビル・アプター編集長がゴング昭和61年5月号に寄せたレポートによると、この北米タイトルはWWFの認定ではなく、次期世界選手権候補者のデビアスをWWFへ修行に出すに当たって、認定したタイトルだというのである。つまりこのタイトルはNWAの認定であり、WWFは一度も北米選手権を認定していないというのである。WWFはパターソンがデビアスから獲得したタイトルを「パターソンが'83年9月にブラジルで争奪戦に勝ち抜いた」という肩書きでインターコンチネンタル選手権として認定した(この次点でインターコンチネンタル・タイトルのベルトはなかった)、とアプター氏のレポートにはある。このインターコンチネンタル王者のパターソンが'83年10月に北米選手権者のデビアスとダブル・タイトルマッチを行ない、凶器攻撃で勝利をもぎ取り、北米選手権のベルトを腰に巻き、これをインターコンチネンタル・タイトルとWWFは正式に認定するのである。

つまり、パターソンが11月に来日した際、腰に巻いていたベルトはデビアスが持ち込んだ北米選手権のベルトであり、かつインターコンチネンタル選手権のベルトでもあった訳だが、この次点で北米選手権はWWFの公式記録では完全に抹殺されていたのであって、日本で行われた北米選手権は新日本がWWFに頭を下げて名前を借りたタイトルマッチに他ならなかったのである。パターソンは図々しくも11月9日に坂口に奪われたのと同じベルトを巻いて、わずか10日後にMSGの桧舞台で元北米王者のデビアスとインターコンチネンタル選手権リマッチを行なっているのである。プロレスのタイトルがいかに御都合主義で出来上がるかを物語る実例である。

 

   
         

デビアスの北米ベルト(左)とパターソンが来日した際のベルト(中央)は同じデザインだが、
このベルトをパターソンから奪取した坂口が初防衛戦のときに締めていたベルトは全くの
別物であった。オリジナルのベルトはWWFでインターコンチネンタル・タイトルに認定された
パターソンがそのままつかった。

 

補足 :タイトル変遷史の権威、田辺氏の北米選手権に関するする見解

まずNWA北米タッグですが、73年闘魂シリーズ第2弾のパンフレットにはパターソン・パワーズ組がNWA太平洋岸地区ノースアメリカン・タッグ王者として紹介されています。太平洋岸地区(Pacific Coast)といえば力道山時代のサンフランシスコ地区を一般にそう呼び、73年当時のパターソンの主戦場でもあったのですが、パワーズの主戦場はNWFのバッファローやオハイオでしたのでおそらくロサンゼルス地区と新日本が作ったタイトルでしょう。

1974年ゴールデン・ファイト・シリーズのパンフレットには、フォン・ヘスとフォン・ショツのチームはNWF世界タッグ王者、NWA北米タッグ王者の両方で紹介されています。ただ、紹介文にはこのチームは71年モントリオールで結成後NWA北米タッグ選手権を奪取し、今なお保持…ということが書いてありますが、モントリオール地区版タッグ王座(正式名称不明)を奪取したのは72年のことですので、パワーズ・パターソン組が73年に保持してた王座との関連が見えなくなります。それ以前にモントリオール版王座が本当に「NWA北米タッグ」だったのかどうかも定かではありません。ちなみに同地区のヘビー級王座はIWAインターナショナル・ヘビー級王座でした。

WWF北米王座に関してですが、私が持ってる資料(Wrestling Title Histories)では、パターソンは1979年6月19日ペンシルバニア州アレンタウン(当時WWFが主にTV録画をしてた場所)でデビアスから王座奪取となってます。パターソンが実際にインターコンチネンタル王者に認定されたのはその3ヶ月後の9月です。以前読んだ他の資料によると、「北米王者のパターソンが南米のトーナメントに優勝したことによりインターコンチネンタル(大陸間)王者に認定された」という様な内容だったと思います。ですから、デビアスから奪取した王座が3ヶ月後に改名された程度のことだと私は思ってます。坂口はパターソンから「使用後」の王座をもらったということになるんでしょうか。

デビアスも、アメリカのマニアの間では「WWFがデビアスの売り出しのために北米王者にさせた」という解釈です。当時NWA会員の中で北米王座を認定してたのはミッドサウス地区のレロイ・マクガークのみだったはずで、パターソンがデビアスを破ったころにはMr.レスリング2号が同王座を保持してました。

ちなみにパターソンが優勝したそのフィクションのトーナメントですが、WWFは90年代に入ってWWFマガジンで「パターソンはブラジルのトーナメント決勝でアントニオ猪木を破り初代王者に認定された」とか書いてました。敵対するWCWが新日と提携してたからだと思われます。

結論

北米タッグ選手権について

まず、パワース、パターソン組と、ヘス、ショッツ組がそれぞれ保持していた北米タッグ選手権は全くの別物であろうということが、田辺氏のレポートにより判明した。パワーズ、パターソン組が保持していたタイトルは新日本がマイク・ラーベルに頼んで作ってもらったタイトルということが言えよう。しかし、それならば何故猪木、坂口組にあっさりとタイトルを取らせなかったか?という疑問がのこる。敵地でタイトル奪取に失敗したのは良しとして、来日させておきながらタイトルを取らなかったのはどういうことか?

WWF北米ヘビー級選手権について

このタイトルの出所はNWAがデビアスに寄贈したNWAの北米選手権であることは一致しているが、これがパターソンの手に移った時期が異なる。筆者の入手した資料では54年10月のMSG(北米選手権とインターコンチネンタル選手権とのダブル・タイトルマッチ)だが、田辺氏の資料では54年6月のアレンタウン(パターソンがインターコンチネンタル王者になる以前)となっている。しかし、これは大した問題ではなく、坂口が手にしたタイトルはWWFが使用済(1ヶ月前にインターコンチネンタルと統合、もしくは改名)の不用となったタイトルに新日本が目を付けて坂口に取らせたということか?では、筆者が冒頭で引用したNWFとWWFの北米選手権の統一戦というのは、一体なんだったのか?これはファイト誌の井上(元)編集長の「闘いのワンダーランド」での発言を引用したものだが、単なる編集長の記憶違いだったということだろうか?