ファイル14 : 昭和プロレスが始まったとき、そこにはシューター軍団がいた(朝鮮戦争在日国連軍慰問プロレス)

 

昭和プロレス

 明治以来日本にプロレスを根付かせようという試みは幾度となくなされ、その度に失敗を重ねてきた。昭和に入っても昭和3年三宅多留次(注)、昭和14年庄司彦雄(注)が興業を行うが失敗。 1951年朝鮮戦争在日国連軍慰問プロレス大会は観客動員面では失敗だったものの、力道山、遠藤幸吉を発掘したことで成功だったといえる。目玉はボクシング元世界ヘビー級チャンピオンジョー・ルイスのエキシビジョン、しかしおいしいところを取ったのはプロレスだ。
「昭和プロレス」。元号からみればその始まりは三宅ということになる。が、それ以後の継続性を考えれば「昭和プロレス」の始まりは「朝鮮戦争在日国連軍慰問プロレス大会」であるとするのが妥当であろう。
 主催したのはトリイ・オアシス・シュライナーズ・クラブ。シュライナーズ・クラブというのは日本海軍の施設、水交社跡のビルを安く買いたたいたことで一時さわがれたフリーメイソン系の「慈善」組織。頭に「トリイ」(=神社神道)がついていることでわかるように日本の赤化阻止を目標とする反共団体である。朝鮮戦争がきっかけのこの興行に参加したのが、金日成により赤化された北朝鮮出身の力道山であったこと。まさしく「歴史の綾」というものだ。

(注)三宅多留次 明治から大正にかけロンドンでグレート・ガマ(負け)、アメリカでフランク・ゴッチ(引き分け)と、世界のトップと闘う。柔術出身。沖識名の師匠。
(注)庄司彦雄 大正時代、講道館に殴り込みをかけたアド・サンテル(テーズの師匠)の挑戦を受ける(引き分け)。試合後サンテルを追って渡米。日本アマレスのパイオニア八田一朗(鶴田全日入門を仲立ち)の先輩。

 

2つあったNWA

 この興行のプロレス史上での位置づけを理解するには2つあったNWAを知らねばならない。NWAは2つ存在した。便宜上ひとつを「旧NWA」もうひとつを「新NWA」と呼ぶ。
 「旧NWA」のみなもとは、1921年に設立されたNBA(全米ボクシング協会)がその後つくったプロレス部である。1929年8月23日のフィラデルフィアでのディック・シカット対ジム・ロンドス戦に勝利したシカットを初代チャンピオンとした。このNBAプロレス部は後にNWA(NATIONAL WRESTLING ASSOCIATION)と改称。アメリカ各州のコミッションの連絡組織であるが、コミッションはプロモーターの傀儡でしかなかった。ちなみにNBAはその後1962年になってWBAと改称した。
 「新NWA」は戦後1948年に設立され、ルー・テーズで有名になり、馬場、藤波、蝶野、小川がヘビー級王座についたNWA(NATIONAL WRESTLING ALLIANCE)。こちらの方はプロモーターの連合組織で、1931年以来、カンザス、オハイオ、ミズーリのプロモーターの連合組織であったMWAを吸収合併、最後のMWA世界ヘビー級チャンピオンオービル・ブラウンを初代王者に認定した。
 1949年、「新NWA」は「旧NWA」とのタイトル統一戦を企画。「新NWA」世界ヘビー級チャンピオンオービル・ブラウン対「旧NWA」世界ヘビー級チャンピオンルー・テーズのカードが発表された。ところが試合の数週間前、オービル・ブラウンが交通事故にあいレスラー引退。テーズが王者に認定される。オービル・ブラウンが交通事故にあったことは、この物語りの大きなポイント。頭の片隅に置いておいていただきたい。
 「新NWA」はテーズが王座についた段階でその正統性を主張するため1908年4月3日シカゴでジョージ・ハッケンシュミットを破ったフランク・ゴッチを初代とし、そこから数えてテーズを38代目とした。ジャイアント・馬場を「第49代目NWA世界ヘビー級チャンピオン」という場合、初代はフランク・ゴッチなのである。テーズ以前の37代はボストンのAWA(ガニアのAWAとは別)、MWA、「旧NWA」等を適当につなぎあわせてつくった。そのとき37代の中からオービル・ブラウンはオミットされた。いいかげんなものである。

 

日本遠征軍のメンバー

 日本遠征軍を仕切っていたのは当時ハワイでマッチメーカーをしていたボビー・ブランズ。メンバーは当時ハワイマットに上がっていたレスラーのうちシュートができる連中で構成された。戦後アメリカの各家庭にテレビが入るとプロレスはその目玉となった。しかし、大衆受けするのはシューターでなくゴージャス・ジョージ、バディ・ロジャース、ゴールデン・スーパーマンらショーマンである。ブランズは日本遠征軍にショーマンは入れなかった。アメリカではすでに日本の相撲取り、柔道家("jiujitsu"という名称で浸透)の強さは有名で、いつなんどきにどんな連中が挑戦してきても対応できるようにシューターを選んだのである。以下がそのメンバー。

ボビー・ブランズ(アメリカ)
オビラ・アセリン(カナダ)
アンドレ・アドレー(フランス)
ケーシー・ベーカー(アメリカ)
ジノ・バグノン(イタリア)
ハロルド・坂田(ハワイ)
(ドクター・)レン・ホール(アメリカ)

ボビー・ブランズ

 「レスリングができなければ駄目」。ブランズのこの考えは彼がそもそもストロング・スタイルの本拠地アメリカ中西部で生まれ、1949年まで中西部のカンザスをホームリングにしていたことが大きい。ブランズが中西部からハワイへホームリングを移した理由、そのきっかけは先に述べた「交通事故」である。カンザス地区のMWA、その最後のMWA世界ヘビー級チャンピオンがオービル・ブラウンで、ブラウンは交通事故をきっかけに引退した。その事故で、ブラウンの車に同乗していたのがボビー・ブランズなのだ。ブランズは軽傷ですんだ。実はブラウンとブランズ、この2人はMWA世界ヘビー級タイトルを巡るライバルであった。一緒に車に乗ってはいけない2人なのだ。ブランズはしばしば「元世界ヘビー級チャンピオン」といわれるがそれはMWA世界ヘビー級タイトルである。ブラウンの瀕死の重傷、当然新聞で報道される。リング上でいがみ合っていた2人が仲良く車に乗っていた事実が公表され、白けたカンザスのファンはプロレスに興味を失い、観客数は減った。もうカンザスでは商売にならないと、ブランズはハワイにやってきた。

ハワイ1950年

 当時のハワイマットを牛耳っていたプロモーターはロシア人のアル・カラシック。ユーゴ系のラッキー・シモノビッチとサモア系のアル・ロロタイをマッチメーカーとし観光客相手にホットなマーケットであった。ブランズはハワイ入りしてすぐカラシックに取り入る。そしてロロタイを押しやりマッチメーカーの座につく。ロロタイはアメリカ西海岸に移りそのままフェードアウト。引退後アファとシカのサモアンズをスカウトする。90年代に入ってWWF世界ヘビー級チャンピオンになったヨコズナがアファとシカの甥、ゲーリー・オブライトがアファの娘婿であることを考えればロロタイのプロレス史に及ぼした影響は大きい。

レン・ホール

 日本遠征軍のうちハロルド・坂田は007のオッド・ジョブ役で有名。レスラーとしてもその後日本プロレス、テレビがついたばかりの国際プロレス、テレビがまだつかない新日本プロレスに参加している。またアンドレ・アドレーは63年日本プロレスにエクスキューショナーとして、オビラ・アセリンは74年国際プロレスにザ・ジャックナイフとして参加している。それ以外のメンバーは「いったい誰?」「シュートっていうけど本当」という感じだった。
 このうち最近になってレン・ホールの素性が少しわかった。主にオーストラリア、ニュージーランドを中心に闘っており、おそらくハワイに足をのばすこともあったのであろう、ブランズから声がかかる。1946年10月30日にはアメリカ本土でも闘い、ミネアポリスでサンダー・ザボーから「旧NWA」世界ヘビー級タイトルを奪取した、と「ザ・リング」誌で報道されている。それほどの選手であればもっと名前が知れてていいはずである。が、この奪取記録は正式なものとしてその後継承されていない。この時期の「旧NWA」世界ヘビー級タイトルの管理はあいまいで「誰が今チャンピオンか」がほとんど意味をなしていなかった。タイトル移動劇があっても次の日違う州で前チャンピオンが平気で防衛戦を行う。また架空のタイトルマッチで新チャンピオンが凱旋といった具合に。この客をあざむく行為は戦前から行われていたことで、1970年代になってもあちこちで見られた。これに関しては日本も無関係ではない。なぜこんなことが罷り通るのかというと、試合結果は州境、国境を越えて報道されないのが常だからである。
 現在のところもっとも信用のおける資料を見ると、そもそもサンダー・ザボーは42年02月19日セント・ルイスでビル・ロンソンに破れてからこの王座についていない。その後チャンピオンは変遷するが、1946年10月30日の段階でのチャンピオンはやはりビル・ロンソン。一説によるとレン・ホールはそれ以外にも2度「旧NWA」世界ヘビー級タイトルについているという話しで、いやはや何ともう言葉を失う。案外「新NWA」の結成も「こんなことではプロレスが信用を失う。」という危機感からかもしれない。
 さて、ホールだが、他にもとんでもないことをやっている。ある日ドレッシングルームでテーズのマネージャーのエド・ストラングラー・ルイスにテーズとのシューマッチを持ちかけた。普通のマネージャーなら怒るところだが、さすがルイス。「これは金になる。」と喜んだそうだ。その後の事情は不明だが結局テーズ・ホール戦は実現しなかった。ケーシー・ベーカー、ジノ・バグノンについては調査中だが、1951年のハワイ軍団は怖い人でいっぱいだったのだ。

 

ルー・テーズ対力道山(1953,1957)

 初対決は1953年暮れのハワイ。まずは、時代背景。
 ルー・テーズは前人未到の936戦無敗の真っ最中で全盛時後期。力道山は1951年のデビュー以来の武者修業の総仕上げ時期。ちなみにプロモーターのアル・カラシックは力道山デビューの51年のシリーズ「トリイ・オアシス・シュライナーズ・クラブ主催朝鮮戦争国連軍慰問プロレス興業」のアメリカ人選手をブッキングした張本人。力道山のデビュー戦の相手を勤めたボビー・ブランズは彼の腹心であった。
 力道山はこのテーズ戦試の2か月後、シャープ兄弟を招へいする日本プロレス初のシリーズを企画しており、前景気をあおるため「世界チャンピオンと引き分けた」という事実がほしい。会場には日系ファンが多くつめかけ、ベビーフェイスは力道山だ。試合前、プロモーターのアル・カラシックは両者に辻褄の合わないことをいう。力道山へ「テーズの奴、ユウに花を持たせて引き分けにすればいいものを、今夜は勝ちたいとほざいてる。奴のそういわれちゃ、もう手も足も出ない。」実はこれは作り話。
 そしてテーズへ「今日はリキの奴にレスリングのレッスンをしてやってくれ。観客に東洋人が多いなんてこと、気にしないでいいからやっちまえ。」テーズはカラシックが何でそんなことをいうのか不思議だった。好試合を演じ、名勝負数え歌にもってけば儲かる、これがプロモートのセオリーなのに。
 試合開始直後、カラシックの言葉を真に受け、頭に血が上った力道山はテーズに向かって勝ちにいく。しばらくはギクシャクした闘いになるが、テーズのSTFで力道山動けなくなり力の差を悟る。後はプロとして試合成立に努めた。結果はパワーボムが決まってテーズの勝ち。受け身が取りにくい落とし方で、鶴田が天龍に泡を吹かせたとき(1989年4月20日大阪府立体育館)と形がにている。
 カラシックがマッチポンプをつとめた背景、それは、この試合を利用してテーズに力道山を潰させて再起不能にし、日本マーケットをいただいちまおう、って魂胆があったこと。カラシックは腹心のボビー・ブランズの報告から日本マットに将来性を感じていたのだ。
 57年テーズは力道山との対戦のため来日。そのおりの会談でカラシックの陰謀が判明。これがきっかけで2人の友情が深まる。対戦のほうは東京後楽園球場、大阪扇町プールとも引き分け。力道山はテーズのバックドロップ封じに奇襲の河津掛け。観客の「次は勝てる」の期待を強めた。ちなみにこれら試合のウイットネスはカラシックで、カラシックが日本にいながら力道山・テーズによる「カラシック悪口合戦」が始まってしまったのだから皮肉なことだ。 この試合の歴史的意義は大きい。というのは、

(i)ルー・テーズという本格派レスラーをプロレス界の大横綱として紹介することで日本国内のプロレスの信頼を高め、日本が世界的なプロレス一等国になるきっかけをつくった。
(ii)NWA=テーズのイメージにより、日本国内でNWAが世界最高峰の認定機関であるという印象を強めた。このイメージは、70年代に馬場がNWAの権威に必要以上にすがったこと、断られても断られても猪木がコンタクトをとろうとし、ダメと知るや異種格闘技戦に走るきっかけをつくった。猪木の名声を世界的に高めたのが、テーズが弟のようにかわいがっていたモハメド・アリであり、今NWAのベルトが猪木の弟子小川の手元にあるというのは歴史のいたずらとしかいいようがない。

日本のプロレスは、朝鮮戦争在日国連軍慰問プロレス以来今日まで連綿お続く大河ドラマである、とつくづく思う次第だ。

 

参考文献:
ルー・テーズ著「HOOKER」、自費出版、1995
「週刊プロレス」雑誌上で流智美氏がアファ・アノアイに行ったインタビュー(1998)
−日本プロレス秘話−力道山以前の力道山たち、小島貞二、三一書房、1983
日本プロレス40年史、日本スポーツ出版社、1995
父・力道山、百田義浩・光雄、ケイブンシャブックス、1983
フリーメーソンの占領革命、犬塚きよ子、新国民社、1985

参照ホームページ:
「プロレス道場」
http://www.albany.net/~hit/puroresu/
J Michael Kenyon氏のホームページ 
http://www.twc-online.com/MINISITE/WAWLI/

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