ファイル13 : 「国際プロレスの将来を暗示したオープニング・ワールドシリーズ」(昭和43年1月)

 

グレート東郷リンチ事件とキム・イル引抜き未遂

 

「オープニング・ワールドシリーズ」で起こった数々の不祥事を書く前に、まず国際プロレス誕生の経緯を解説しておく。話は39年にまで溯る。力道山が頂点に立つ封建的な日本プロレス界に見切りを付け、単身海外に飛び出していたヒロ・マツダが突然の帰国、日本プロレス協会への復帰を表明する。そして41年にデューク・ケオムカとともに「ゴールデン・シリーズ」に参加、吉村とのタッグで一度はアジア・タッグを手にするなど大車輪の活躍を見せ、爆発的な「マツダ・ブーム」を呼んだ。しかしシリーズの影で、当時日本プロレスの取締役営業部長だった吉原功は、リキ・パレスの処分を巡って経理担当取締役であった遠藤幸吉と対立。結局、遠藤が強引にパレスを某観光会社に売却してしまい、吉原は激怒、日本プロを飛び出し新団体の設立を画策する。そのエースとして目を付けたのがマツダであった。日本プロレス難民となっていたマツダを日本マットに立たせるべく根回しをしたのが吉原という事もあり、恩義を感じていたマツダは参加を快諾。日プロから杉山、草津、マティ鈴木の3人を引き抜き、国際プロレス設立を41年10月24日に発表したのである。

国際プロレスはマツダをエースに猪木が率いる東京プロレスとの提携でスタートする。しかし当初は参加メンバーに名を連ねていたものの、猪木との告訴合戦の最中であったため参加しなかった豊登のギャラを巡り猪木と決裂。東プロ自体の崩壊もあり、提携はこのシリーズが最初で最後となる。初の自主興業は半年後のパイオニア・サマー・シリーズまで待たねばならない。この半年間、豊登が率いる東プロ残党を迎えるなどの戦力アップを図り、万全を期したものの、観客動員は一向に伸びる事はなかった。吉原社長はTBSを放映交渉をもち、43年の新春シリーズから放映する旨の契約を取りつける。また資金調達の為に三ツ矢乳業社長の岩田弘(日プロ専務とは別人)を相談役に迎える。これで吉原は事実上団体経営に関する実権を失い、岩田の出資によるTBS主導の団体となってしまう。岩田はTBSの森忠大と渡米、マツダに変わるブッカーと契約する。このブッカーが金に汚い事で日本マット界から村八分の扱いを受けていたグレート・東郷であった。この東郷の参加にまず拒否反応を示したのがマツダであった。吉原の留意もあったが、国プロからの絶縁を表明するのである。

この東郷の国際プロへの参加にマツダ以上の反応を示したのが日本プロレスの面々である。二度と日本マットに関わらないという約束で手切れ金まで受け取っていた東郷の裏切りにキレたのである。まず星野、山本のヤマハブラザーズが東郷制裁に名乗りをあげるが、「現役レスラーが出ては今後に関わる」と、レフリーのユセフ・トルコが名乗りをあげ、1月18日松岡巌鉄をともない東郷の宿泊するニューオータニに郵便配達員を装い殴り込みをかけ、袋叩きにした。これが有名な「グレート東郷暴行事件」である。(この暴行事件には後述する「キム・イル引き抜き未遂事件」も絡んでいる。)

話が前後するが、新生TBSプロレス経営陣は、実力不足だという東郷の忠告を聞かず海外遠征から凱旋したグレート・草津とサンダー・杉山をエースに任命する。そして1月3日シリーズ開幕戦の日大講堂大会でカナダのプロモーター フランク・タニー働きかけて設立させたTWWAなる団体の「初代王者」ルー・テーズに挑戦させる暴挙に出る。奇しくも同日は日本プロも蔵前国技館で興行を打ち、馬場がインター選手権を賭けクラッシャーとに一騎打ちを行なっていた。これが世に言う「隅田川決戦」である。馬場はクラッシャーに快勝、一方の「シンデレラ・ボーイ」グレート・草津はテーズのバックドロップに失神、2本目も立てずに試合放棄という最悪の結果に、草津の王座奪取を確信していたTBS関係者は顔色を失う。当然、TBSプロレスのイメージ・ダウンに繋がり、その後の興業では観客動員が伸び悩んだ。

TBSは杉山をテーズにぶつけるがこれも失敗、1月17日仙台で豊登が挑戦する事が予定されていたが、東郷は奇策を思い付く。キム・イルの引き抜きである。当時の日本プロレスは馬場が不動のエースに君臨、大型新人 坂口征二がプロレスに転向、そこに猪木が復帰し人気を獲得・・・と、キム・イルの出る幕は全くといっていいほどなかったのである。そこに目を付けた東郷が「仙台に来い。テーズに挑戦させてやる。」と誘ったのである。力道山襲名を反故にされ、猪木の謎の「インタータッグ初防衛戦トチリ事件」の代打に指名されなかった事などにより、日プロ幹部への不信はピークに達していたキム・イルは、二つ返事で承諾する。しかしこの情報は日本プロレス側の耳に入り、キム・イルには「仙台に行けば殺す。」といった脅迫電話が殺到。しかしキム・イルの意志は固く、日プロの事務所に辞表を置き、仙台へと向かうが、ここで事態は急転直下、キム・イルはテーズ挑戦を断念する。SスポーツのM社長と、元日本プロレス協会の理事が直接説得に来たというのである。この引き抜きの裏に東郷の影があった事を知り、前述のようにトルコは東郷を制裁するのであった。

結局、新体制での第2弾シリーズ「ワールドタッグ・シリーズ」中に、東郷は法外なブッキング料をTBSに吹っかけ、TBSが支払いを渋ると外人勢の会場入りをストップさせ、興業を妨害するという暴挙に出た。これでイメージを著しく傷付けられたTBSプロレスは、わずか2ヵ月でTBSが経営から撤退、再び吉原が経営実権を握り、ヨーロッパ・マット界との提携に活路を見出すのであるが、このシリーズの一連の不祥事により、「日本プロレスはメジャーで、国際はマイナー・リーグ」という印象をファンは抱くことになるのである。プロレス経験者でないものが団体経営に乗り出し失敗した最初の典型的な例である。同じような事態がSWSプロレスでも起こったのは周知の事実である。

(文中の年号は昭和)

 

参考文献
「プロレス醜聞100連発!!」 竹内宏介著 日本スポーツ出版社
別冊ゴング 55年2月号 国際プロレス「シリーズの歴史」第一弾