ファイル11 : 「朴松男(パク・ソンナン)、山奥監禁事件」 JOE HOOKER SR.
朴松男というレスラーを覚えておいでであろうか。197cmの長身でその風貌から「韓国の馬場」なんていわれた位、馬場と似ている。生まれは1939年、デビュー戦は不明だが日本のフリーランスレスラー高橋輝男(後の新日本プロレスレフェリー、ミスター・高橋)が相手を勤めたという説がある。だとすれば「韓国・アメリカ・日本対抗大試合」があった64年9月21、22、23日のいずれか。 今回は65年秋に起こった「朴松男、山奥監禁事件」を紹介しよう。事件は1965年の晩夏もしくは初秋に起こった。まずはその背景から。
2つのトーナメント 韓国で初のプロレス試合が行われたのは1960年のことである。翌61年、大韓プロレス協会が体協加盟を許され、初代韓国ヘビー級王座に認定されたのが張永哲。決して負けることのない不動のエースとして太平の世を貪っていたものの、時の流れ抗しがたく、黒船襲来を見ることになる。 隣国日本、そしてアメリカで本格的なプロレス修行をした金一が凱旋するのだ。手初めに日韓プロレス協会共催で「ファー・イースト・ヘビー級チャンピオン決定トーナメント」が開催されることになった。 ファー・イースト・ヘビー級チャンピオン決定トーナメント このトーナメントのブッカー、プロモーターは金一であった。ここで金一は3つの大きな失敗をしでかした。 (1)純利益の6分の1という多額なマネーを一人占めにしたこと。 (2)それまでの韓国のエースだった張永哲を冷遇しすぎたこと。 (3)自分以外の韓国レスラーのファイトマネーを均一にしたこと。 話を65年のファー・イースト・ヘビー級に戻す。金一と張永哲のリング上での実力、これは段違いだった。元アマレスヘビー級王者を名乗りながらたるんだ体には若手選手たちを説得する物が何もなかった。報復をおそれ表面的には張永哲グループにいながら、もしくは居続けるふりをしながら金一から声がかかり、日本へ、そしてアメリカへ行かせてもらうことを夢見るレスラーが多かったという。本稿の主人公、朴松男もそんな中のひとりであった。 1回戦 2回戦 決勝戦 ※準決勝の金一対吉村戦は時間切れ判定に持ちこまれた。ジャッジ3人の判定結果は以下の通りである。 崔永斗(大会長、大韓プロレスリング協会協会長)→吉 村
5カ国対抗プロレス大会 「ファー・イースト・ヘビー級チャンピオン決定トーナメント」の興行的成功に気をよくした大韓プロレスは、日韓だけでなく他の国の選手も加えた大会の企画を金一に要請。金一も日本プロレスのシリーズを終えた白人レスラーに声をかけ、11月、5カ国対抗プロレス選手権の開催相成る。1回戦組み合わせは以下の通り。 このシリーズがきちんとしたアメリカンレスラーの初の渡韓であった。ヴァイキング・ハンセンは後のエリック・ザ・レッド、またの名はエリック・ザ・アニマルである。尚、個々の試合結果は不明。 |
写真左より 金一、張永哲、千圭徳 |
事件概要 事件はこの2つのトーナメントの間に起きた。ファー・イースト・ヘビー級王座決定トーナメントのため金一が故郷韓国の地を踏んだ翌日、李東山(事務局長) が選手を集めて演説をぶつ。「この度韓国に帰ってきた金一選手は力道山にプロレスを学び、アメリカでもチャンピオンになった強豪レスラー。大韓プロレスリング協会所属のレスラー諸君はこの金一選手を師と尊び彼から本格的なプロレスリングを学ぶように。」 この演説が面白くなかったのが韓国ヘビー級王者張永哲。 「生きるも死ぬも男の心意気…っ!」 朴松男は5日間水も食料も与えられなかった。脱水症状がどんどん進む。彼を発見したのは38度線国境警備のため派遣されていた国連軍の兵士達である。兵士達の心づかいでスープとパンを与えられジープでムンサムのはずれの廃屋からソウルに帰ってきた。朴松男の体重は、普段118kgだったものが100kgを割っていた、という。
その後ソウルのアパートの一室で体力の回復に努めていた朴松男のところを張永哲が訪ねる。
張永哲(チャンヨンチル)の悪あがき その後の5か国対抗プロレス選手権で張永哲はとんでもないことを仕出す。世に言う「大熊元司リンチ事件」である。
このトーナメントの組み合わせを決めたのは金一、ユセフ・トルコ、そして日本プロレスコミッション事務局次長の門茂男。張永哲は1回戦で大熊元司と当たり、これに勝つと2回戦で金一と当たる。金一が1回戦でレフェリー兼務のユセフ・トルコに負けることは到底ありえず順当にいけば2回戦は金一−張永哲戦。実力でいこうとセメントでいこうと勝負は金一の勝ちが見えている。その年の夏に連勝が69で途切れたとはいえ4年に亘って韓国プロレス界エースの座に君臨してきた張永哲が赤っ恥をかかせられるのは明白。だからといって大熊に負けたのでは韓国プロレス界エース、実は日本の前座より弱いということになる。いよいよメッキが剥がされるときが来るのか。 朴松男の最期 時代は下って80年代に入ってすぐ、朴松男は亡くなったらしい。タイトル戦線に顔を出すのも80年4月17日米カンザシシティでボブ・ブラウン、ディック・マードック組を破ってセントラルステーツタッグ選手権を取ったのが最期あたりか。ちなみにこのときのパートナーは、若手時代、金一にやっとのことで連れて行ってもらった日本でのライバル、ザ・グレート・カブキに変身する前年の高千穂明久であった。
<参考文献>
編註 : 今回の投稿は当時の複雑な韓国プロレス界の裏事情が解る貴重な資料といえましょう。付け加えさせて頂きますと、金一、張永哲、千圭徳の3人は50年の猪木の韓国遠征(日韓親善国際プロレス大会)の際に和解が成立しております。(その後袂を分かったかもしれませんが・・・)改めてJOE HOOKER SR.さんに感謝いたします。 |