ロスの太陽 チャボ・ゲレロ
1951年
テキサス州エルパソ生まれ |
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ジュニア時代の藤波の最大のライバルといえば、文句なくチャボ・ゲレロだろう。藤波を後一歩まで追いつめた53年10月20日寝屋川でのWWWFジュニア選手権は今でも語り種になっている。あの試合は内容では完全にチャボが勝っていた。この戦いで友情が芽生え、二人はロスでタッグチームを結成しアメリカス・タッグ王者となり、日本でもタッグを組むなど友好的な時期もあったが、一転シングルで対決するとなれば火花が散るような熱戦を展開したものである。数年前には「無我」に参加するなど二人の友情は今でも続いている。 アメリカでの彼の実績を考えれば、藤波があれほど苦しめられたのは当然の事だったといえよう。全日本プロレスへの初来日から帰国後ロスに登場し、いきなりアメリカス王者となったチャボは破竹の勢いで師匠のドリー・ファンクJr、世界王者になる10日前のテリー・ファンクにどうどうのフォール勝ちを収め、77年にはメキシコからやってきたアルフォンソ・ダンテスからNWA世界Lヘビー級タイトルを奪取、その勢いでハリー・レイスのヘビー級タイトルに挑戦、2フォールをとっていないのでタイトルの移動こそなかったものの1−0で完勝するなど、この時期のチャボの残した実績を見ると藤波よりは一枚格が上だったといえる。第2回MSGシリーズではシングルで自分より二周りはでかい坂口を場外ノックアウトしているのだから恐れ入る。 チャボが日本でも認められたのは、勝負に対するこだわり、根性があったからだと思う。海外での実績はあっても日本では程々にやっているレスラーというのは沢山いた。80年代後半のカネックもその口だったが、チャボはやや力が落ちてきた時でも全力でやっていたように思う。レスラーが大成するかしないかというのは一重に勝負へのこだわりであり、客に失礼なファイトをみせられないというプロ意識だろう。これがない奴は長続きしない。 |